11-10 再会


 * * *


 * * *


 ほとんどの帆を畳んだレイブーダ王国の軍船が、大波をものともせずに見事な動きで幽霊船の一艘へと近づいていく。


 転覆せずに浮かんでいるのが信じがたいほど、もはや巨大な朽ちかけの桶といっても過言でない物体に、何本も鉤縄を引っかけて船体を寄せた。


「大したものね」


 空中からその生き物のような動きを見下ろし、アレクシアは感心する。

 操船に関しては素人だが、この風雨と荒波の中で、容易に実現できることでないのはわかった。


 船員たちが板を渡して乗り込む手際も見事だし、強風や揺れをものともしない胆力もさすがだ。

 捕虜の救出は彼らに任せてかまわないだろう、と判断する。であれば。


「いい加減、出てきたらどうだい?」


 彼女たちを空に浮かばせている〈飛翔フライ〉の唱え手、キャロラインがどこに向けるでもなく話しかける。

 闇の色に染まったままのその瞳は、眼前の荒海を眺めるようでいて、遙か遠くに向けられ風でもあった。


「……誤魔化しは……効かぬか……」


 その陰鬱な声が聞こえた方へと目をやると、降りしきる雨が一部、かき消えている場所がある。

 白い光を帯びてうっすらと透けているマルグリット、彼女の防御呪文によって勇者一行が風雨を弾いているのに対し、その一角は逆に吸い込んでいるかのようだ。


 しかし声と共にそこに、紫色をしたローブで全身を覆った人物が、炙り出しのごとく唐突に出現した。

 天鵞絨ベルベットと思しき上質の布地はしかし、裂き千切られぼろぼろで、かつてはフードで覆われ見えなかった頭部も露わになっている。


「それが、あなたの正体ですか」


 緊迫した声で問いかける聖女に、紫衣の人物が歯を剥き出すその様は、髑髏そのものが笑っているかに見えた。


 頭や手足は骨格に萎びた皮膚が張りついているだけで、生気を感じさせない。

 魔族マステマ特有の黒く染まった眼も、まるで剥き出しの眼窩を覗いているかのようで、その奥にぽつんと紫色の光が宿るのみだ。


 しかしわずかでも魔力を感じ取れる者であれば、その全身を覆う不可視の霊気の膨大さ、濃密さに、おののかずにはいられないだろう。


「……今生は……“紫骸しがい”クィンテンを……名乗っておる……」


 切れ切れで掠れがちな声、訥々として陰気な喋り方。

 だが轟々と吹きすさぶ風の中でも不思議と耳に忍び込み、聞き落とすことを許さない圧力を備えている。


屍王リッチか。また、随分な大物が混ざっていたものね」


 不敵な笑みにわずかばかり緊張を交え、アレクシアは聖剣アイエスを抜いた。

 黒魔術を極めた魔術師が自らを不死怪物アンデッド化した魔物こそが、屍王だ。こと黒魔術だけなら、キャロラインをも上回る技量を有している可能性が高い。


 たしかに魔王軍の十二天将には恐るべき実力者が揃っていたが、屍王はその中でも別格といえる存在であった。

 伝承によれば一夜にして大国を滅ぼし尽くしたとか、老竜エルダードラゴンをも下僕にした、死後の世界に自由に出入りできるなどとも言われている。


 とはいえ魔王に従っている以上、あの少年よりも強いということもあるまい。

 アレクシアはそう判断し、ともかく一太刀浴びせるべく、出し抜けに“紫骸”に斬りかかった。


 このあたりの思い切りの良さは、相手が誰であっても変わらない。

 屍王という予想外の大敵を相手に、聖女と魔女が多少なりと怯んでいるのに対し、むしろ彼女らを鼓舞すべく先陣を切った。


「食らえっ!」

「……性急な……」


 飛翔呪文の速度も合わせた高速の一撃は、防御のためにか振り上げられたクィンテンの左腕を跳ね飛ばし、そのまま斜めに紫衣を斬り裂く。

 だが布だけを切ったような奇妙な手応えに、勇者は眉をひそめた。


 不快げに顔を歪めた“紫骸”の露わになった衣の内側には、手足と同様の骨張った体ではなく、ただ暗闇だけが詰まっている。


「〈天罰ラース〉!」


 反撃のためなにがしか呪文を使おうとしたその体が、マルグリットの呪文を浴びて硬直した。

 その隙に自分の詠唱を完成させたキャロラインが更なる一撃を浴びせる。


「炎よ渦巻き地を満たせ、〈炎嵐フレイミングストーム〉!」」


 通常であれば空気を吸い上げ膨らむはずの炎が、螺旋状に渦巻きアレクシアの眼前で炎の塔を形成した。勇者を巻き込まず、屍王だけに痛手を与えるための変形だ。

 それでもあたりの温度は急上昇し、酸素がすさまじい勢いで消費されていくため、アレクシアは熱波が届かぬ距離を取る。


(思ったより強くない? 屍王だと思ったのは、あたしの勘違い? ううん、さっきの圧力は紛れもなく、魔王級だった。この違和感は──)


「二人とも下がって! 全力でっ!」


 炎の塔の中で崩れるかに思えた“紫骸”のシルエットが、形を変えた。

 そう認識した瞬間アレクシアは叫び、聖剣を眼前に構える。


「〈光穿フォトンピアース〉」


 間一髪、炎の中から額めがけて閃いた光線を、どうにか弾くことができた。

 わずかでも反応が遅れていれば、脳天を貫通されていただろう。


「理屈はわからないけど……そいつも、あんたの使い魔だった、ってわけ?」

「……ちょっと違うな。〈従魔同期〉は自身に従う魔物と同期シンクロできるスキルだ。つまり今のは、こいつの体を借りてるだけさ」


 炎が晴れる。ずたずただった紫衣が金糸銀糸に飾られた豪奢な王衣に代わり、それを纏う肉体は青い肌に暗緑色の髪の、角と羽と尾を備えた青年へと変じていた。


 髪が伸び外見年齢が上がっているが、苛立たしげな表情を浮かべる整った顔立ちには、以前に会った面影が強く残る。


「先日来だな、勇者アレクシア」

「意外と早い再会ね、魔王ツバサ」


 先に倍する緊張感を持って、アレクシアは聖剣を構え直した。


 * * *


 周囲を淡い輝き、痛苦を訴える無数の瞳が取り囲んだ。

 その範囲も以前より遥かに広く、城ひとつを内包できそうなほどの球体となって、嵐の海上に浮かぶ。


 眼下で必死の救出作業を行っている船員たちをちらりと見やり、以前にシミズ・ツバサと名乗った青年は口の端を歪めた。


「ふうん。前にチョロついていた獣野郎の姿が見えないな。また、どっかでコソコソしてやがんのか?」

「さあて、ねっ!」


 妖刀・鵺切ぬえきり伊賦夜いふやを抜いたアレクシアは、聖剣とともに左右に構えて飛翔する。

 魔王に対しては手数と威力、両方をもって当たらねば対抗しえない。


 マルグリットが対物・対魔法の障壁を二重に展開した。

 キャロラインは口頭と思考で二重に詠唱を開始する。


 先日の戦いの後、魔王の再襲撃に備えた作戦は何度も考えていた。

 彼の異能がこちらに対しては通用しない以上、警戒すべきは膨大な魔力と圧倒的な速度の魔術。


 であるなら長期戦は不利になる一方だ、防御を固めつつ最大級の攻撃を矢継ぎ早に繰り出すのが最適解、との結論になった。

 しかし、前回の戦いを経て対策を講じてきたのは、勇者一行だけではない。


「〈氷瀑アイスフォール〉!」


 詠唱を破棄して放たれた氷の槍を降らせる呪文は、尽きることなく供給される魔力によって、膨大な範囲に降り注ぐ。

 レイブーダの軍船と、捕虜を残した三艘の幽霊船、その全てを範囲に収めて。


「いと高き生命樹よっ!」

「くっ、〈霧消ディスパース〉!」


 マルグリットの防御呪文が、キャロラインの対抗呪文が、敵を討つためではなく海上の人々を守るために放たれる。

 降り注ぐ死の礫に悲鳴を上げる者たちの頭上を白く輝く天蓋が覆い、ばらまかれた砂を指でこそぎ落とすように無数の氷晶がかき消えた。


 それでも海上に墜ちる極低温の雨は尽きることなく波を、海を、凍らせていく。

 瞬く間に世界は白く染まり、黒くうねる海面にやがて氷の陸地が生み出された。その上に、船と人々を閉じ込めて。


「なんのつもりっ!?」


 怒鳴って斬りかかってくる勇者の聖剣と妖刀を、蝙蝠のものに似た黒い羽と蠍のごとき尾を振るって防ぎながら、魔王は嗤う。


「正義の味方は、か弱い民衆を守らずにはいられないだろう?」


 もともと幽霊船団は密集陣形を取っていた上に、軍船も救助のため船体を寄せていた。その船底を海面ごと凍らされ、人々の集められた範囲はそう広くはない。

 身動きできなくなった彼らを横目に、ツバサは嘲り声を上げた。周囲を取り巻く痛苦の視線とともに、ゆっくり高度を下げていく。


 慌てて青年を追った少女たちは、次に相手がやろうとすることを悟って、血の気を引かせた。


「ひいいっ、なんだあいつはっ」

「来るなっ、来るなぁっ」

「あがが、さ、寒っ」


 突然の冷気と生み出された海氷の平原に混乱している人々を、蟻の群れを眺めるような目つきで見やる魔王。

 その視線が、無造作に選んだ一人の男に向けられた。


「うるさいよ」

「くっ!」


 耳を聾する轟音に硬直し、迫り来る不可視の暴圧に呆然とするその男の前に、必死になって割り込むアレクシア。

 魔王が過去に経験した苦痛を相手に押しつける異能の視線が、勇者の剣によって切り裂かれた。


 少女の手足に、わずかな擦過傷が刻まれる。そして打ち消しきれなかった『轢死』という概念そのものが、標的となった男の頭部を弾けさせた。

 血と脳漿を浴びた周囲の人間が、先に倍する悲鳴を上げてその場から離れようと、逃げ惑う。


 興味を失った風に首を巡らせたツバサは、別な船にいた男へ視線を投げかけた。


「させませんっ!」


 それを遮るため飛翔するマルグリット、だが小さなその体では襲いかかる死の運命を防ぎきれず、また別な人間が四肢が引き裂かれ絶叫を上げた。


 更に別方向に顔を向ける魔王に対し、唇を噛んで飛び寄りつつキャロラインは、せめて視線を遮れないものかと呪文を放つ。


「〈暗闇ダークネス〉!」


 だが魔女の背後で腹を穿たれ、内臓をすり潰された男が絶息して倒れた。


 空中に浮かぶ魔族マステマに見られると、死ぬ。

 その単純にして絶対の法則を証明された人々は、恐慌の頂点に陥った。


 喚き叫んでめいめいに逃げ出そうとするが、押し合い圧し合い、思うように身動きが取れずにいる。

 不幸な誰かが自分の代わりに死んでくれるのを祈り、竦んで動けない者を突き飛ばし、倒れた者を踏み潰して走る。


「いやだぁっ、死にたくねぇっ!」

「てめえらどけぇっ! ぶっ殺すぞぉ!」

「やめろおっ、おれを盾にするんじゃねぇよぉっ!」


 軍船の乗組員や捕虜でも腕の立つ者など、それなりに実力も胆力も備えた者でさえ、混乱に巻き込まれ冷静な行動ができずにいる。


 人波の外側付近にいた幸運な者であっても、人間同士の揉み合いから離れられたところで、氷の地面の外側は荒海なのだ。

 恐慌に飲まれて暗い海に飛び込む者もいたが、その命運は推して知るべしだろう。


「はっ、哀れなもんだ。なまじ恐怖を知っているだけに、虫や獣より醜い有様だな」

「やぁめろぉぉぉっ!」


 激昂し斬りかかるアレクシアから距離を取り、取り残された集団を眺めやる魔王。

 その視線の先には泣き叫び、赤子のように涙や鼻水や涎を垂れ流し、あるいは全てを諦め虚ろな顔で見上げる人々がいた。


 空中で反転した勇者は、必死になってツバサの視線を自らの体で遮ろうとする。


「馬鹿じゃねえの? 俺に勝ちたきゃ、あいつらにかまってる場合じゃないだろう」


 当初の作戦どおりに全力かつ最速で魔王に攻撃を加え続け、対応で手一杯に追い込めば、結果として犠牲は最小限で済むだろう。

 だが最も冷淡なキャロラインですら、その選択を取ることはできなかった。


 ツバサは、見るだけで対象を殺せる。

 激しい戦いの合間にちらりと視線を投げるだけで、轢死体が増えていく。


 助ける方法が体で庇うことだけである以上、攻撃に転じようとすれば、その背後に屍の山を築くことになるのだ。

 現状の形で戦場を作られた時点で、アレクシアたちは民衆を捨てて戦うか、無限に続く攻撃を防ぎ続けるしかなかった。


 大勢を助けるため少数を見殺しにする、時にはそういう覚悟も必要だろう。


 だが世界を平和にしようというのに、日常の大切さを知っているのに、平凡な人生を尊いと思っているのに。

 誰かを見捨てて、戦いの理屈で塗り潰し、愚かと切り捨てていいのか。


(絶対に、ちがう!)


 アレクシアたちは、自らの行動が間違っているとは思えなかった。


 しかし少しでも魔王の視線を遮ろうと、必死に空中で飛び回るうち、無駄に体力と魔力を消耗させられ……徐々に、その動きは鈍っていく。


「そら、次はそいつだ」

「やめてぇっ!」


 まだ幼さの残る少年に向けられた視線を、マルグリットは泣き出しそうな声を上げながら受け止める。

 聖女の肩や腿を覆う衣が弾け、半透明の肌が覗いた。


「おっと、そいつはどうだ」

「よせぇっ!」


 老境に達した男へ投げられた視線を、キャロラインが余裕をかなぐり捨てた決死の形相で遮る。

 魔女の服の胸元や裾が千切れ、ただでさえ多い露出が更に増える。


(くそっ……こうなったら、一か八かっ)


 聖剣と妖刀を鞘に収めたアレクシアは、『吹き散らすものエクスティンギッシャ』を抜くと魔王に向かって飛んだ。

 大剣から放出する魔力で加速し、体当たりでもなんでもして、敵を戦場から引き離してやるのだ。


「はぁああっ!」


 すでに尽きかけている魔力を、限界まで絞り出す。ぴんと張られた糸のようにまっすぐに、魔王を目指した。

 嘲りに歪んだその顔に、一撃くれてやる――


 獅子のごとく猛々しく敵を睨んだ少女が見たのは、哀れむかのようなツバサの顔と、無造作に突き出された指。


 青年の口が、〈光穿〉の呪文を形作った。避けようのない速度と距離で、少女の眉間に向かって光が走る。


 見開かれた勇者の目に、死の光が




 突き立つ刹那、飛来した青白い輝きが、アレクシアの体を掴んで氷上に落ちた。

 標的を失った〈光穿〉は、むなしく虚空に消える。


「え……?」


 なにが起こったかわからず、少女は呆然と声を上げる。


 死ぬ、はずだった。

 不可避の一撃に貫かれ、なすすべもなく。


 自分が誰かに横抱きにされていることに、遅れて気づいた。

 手足が白い獣毛に覆われていて、触れた部分が暖かい。


 革鎧を身に着け籠手と足鎧を装備し、首には真っ赤な襟巻き。

 白い毛皮を持つ犬科の獣の口吻から上は、銀色の仮面で隠されており、目の部分も遮光板で覆われている。


「危ねぇところだったな。無茶しすぎだぜ」


 獣化しているとは思えない、流暢かつ自然な喋り方で。

 その鬣犬ハイエナ獣人セリアンは、笑いかけてきた。

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