9-5 痛苦
俺は淡い輝きに包まれる中、左腕にしがみついたマルグリットを庇うため、右半身を前に出して腕を伸ばした。
「
短剣や投具を複数まとめて収納してある腰袋を取り出しつつ、預かっていた魔女のステッキと聖女の錫杖が地面に突き刺さるよう調整し落とす。
その間にもアレクシアは双剣を抜き、キャロラインを守って前へ踏み出していた。
「わざわざそっちから出向いて来るなんて、気前いいわね、魔王……ツバサ、だったかしら」
「臣下が世話になったようなんでな。一度、挨拶しておこうと思ったのさ」
気さくな口調で言うものの、少年魔王の目つきは疎ましげで、声音の端々に隠しきれない刺々しさがある。
それは憎悪とか怨嗟といった根深くて暗いものではなく、もっと軽くて浅い、苛立ちや鬱屈に近いものだった。
俺たちからすれば魔王は人類全ての仇敵であるが、向こうからすれば大目標の邪魔をする面倒な障害、くらいの認識なのであろう。
しかし、本当にこいつが魔王なのか? たしかにすさまじい魔力を感じるが、見た目にも言動にも威厳が感じられない。
怪物じみた巨人が豪華な法衣をまとっているような姿を勝手に想像していたせいか、なんというか、拍子抜けだ。
痛みを感じるほど、強く腕を掴まれる。
さっきから俺にすがりついたまま離れない聖女が、我を忘れたように少年を見上げ続けている。
「……リット?」
血の気の引いた顔は引きつり、翠の瞳が焦点を失っていた。
わななく唇の隙間から、かちかちと歯の鳴る音が聞こえる。
「ありえない……ありえない……なんであんな、あんなに死と恨みを背負って、正気でいられるの……?」
「へえ。こいつらが見えるのか」
聖女の呟きを耳に捕らえたか、ツバサは面白そうに腕を持ち上げた。
まるで背後に存在するなにかを見せつけるようだが、俺の目には黒い羽以外、なにも映らない。
「イアン、見るな」
前方のキャロラインが、震える声をかけてきた。彼女もまた俺に背を向けたまま動けぬようで、無防備に立ち尽くしている。
その背は小さな子供のように頼りなく、顔が見えないこともあって、普段の自信をまるで感じさせてくれない。
見るなと言われても、俺の目には、なにも──
「ひっ」
喉の奥が震えた。今の情けない声は、俺が出したものか?
周囲を淡く照らす光、放出された魔力がただきらめいているものと思ったが、違う。
無数の光点が砂粒のように空間に満ちて、それは全て一点を向いていた。
瞳だ。
魔族特有の白い瞳、それが何万何十万と集まって、月や星の明かりを反射している。
実体を伴わない、霊のような存在なのだろう。無数に集まって漂っている状態では、注視しないと気づかない。
だが目を凝らし、一つひとつを知覚してしまうと、そこに宿る感情さえ読み取れそうな気がしてくる。
──痛い
──苦しい
──憎い
──痛い
──恨めしい
──痛い
──痛い、痛い、痛い
──痛い苦しい痛い悲しい痛い痛い憎い痛い痛い痛い痛い痛い痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛……
「うわぁぁああぁっ!?」
思わず腰砕けになって、へたり込みそうになる。マルグリットに腕を掴まれていなければ、逃げ出していたかもしれない。
それほどの恐怖と、おぞましさとが、気づいた瞬間に全身を支配した。
数え切れない、数えたいとも思わない瞳。その、痛苦を必死に訴える視線を向けられながらも、魔王は平然としていた。
なんだこいつは、これはなんなんだ。
「うるせえよ」
戦慄する俺を一瞥し、少年はつまらなさそうに言う。
「死ね」
そして視界をよぎった羽虫を払うように、にべもなく告げた。
耳の奥から風の唸りが聞こえ、びりびりと体が震える。なにか途轍もなく大きく重く速いものが、俺に向かって迫り──
「イアンっ!」
俺の眼前に立ちはだかったアレクシアによって、切り裂かれた。
俺に向かって殺到していた、見えないなにかの気配が、吹き散らされる。
それでも頬や手の甲などを、わずかにその気配がかすめていく。
微風にも満たない、ほんのわずかな感触。それが触れた場所が弾け、皮膚と肉が削り取られた。
「なぁっ!?」
拳大の石を大男に全力でぶつけられれば、こんな痛手を受けてしまうだろうか。
なにが起こったかわからない、ただ『当たった場所がすり潰される』という結果だけを押しつけられた。
もし勇者が庇ってくれなければ、先ほどの気配は俺の全身を包み、肉体は粉々に砕かれていただろう。
技とか魔術とかそんな次元じゃない、今あいつは、ただ俺を見ただけだ。そうしようと思っただけで、俺を殺せるのだ。
そんなのはもう、神の領域じゃないか。
「へえ。効かないだけじゃなく、切り裂くこともできるのか。すげぇな勇者って、『特耐』ってやつか?」
魔王が感心した声を出し、視線を転じる。
魔女が、聖女が、びくりと体を震わせた。
「なるほどね。大賢者に聖女、レアリティの高い称号持ちに〈被虐伝播〉は効かないわけだ。ユニットの配置条件といい、面倒くせぇとこだけはゲームっぽいな、この世界」
「なにを言ってんのよ!」
アレクシアは大剣『
飛ぶ斬撃を身を仰け反らせかわした少年は、お返しとばかりに彼女を指さした。
「〈
詠唱を省略、いや〈
文字どおり光の速さで飛んでくる呪文だ、放たれる前に射線から外れる以外、逃れる方法はない。
見た目こそ地味だが〈
前後左右に避け続けるアレクシアだが、頭や重要器官に終われば一瞬で終わる攻撃である、いつまでも傍観はできない。
気持ちはびびって折れかかっているが、体は動く。なら、動け。
いくらあいつが魔王でも、言葉が通じ目でものを見ているなら、目くらましくらいはできるはずだ。
腰袋から煙玉とシュリケンを取り出す、効きやしないだろうがせめて鬱陶しがらせろ、勇者のために隙を作るんだ。
「リット」
しがみついて離さない少女に声をかけると、びくっと体を震わせた後、涙目でこちらを見上げて首を横に振った。
「駄目です、イアン。死んじゃいます」
かもな。そうなったら生き返らせてくれ。
少し力が緩んだ隙に、腕を抜いた。ヘレネーナじゃないんだ、少女の膂力で俺を捕まえておくことはできない。
「キャロ、下がれ!」
硬直したままだったキャロラインが、その言葉でようやく動き出した。よろけるように一歩、二歩と後退して、地面に刺さったままのステッキに手をかける。
まずはあいつを空中から引きずり下ろさないと、勝負にもならない。俺はやつの羽を狙いシュリケンを放ちつつ、煙玉に着火する。
「てめぇは動くな」
だが魔王にそう命じられた途端、全身が硬直した。
魔術、じゃない。ただ言われただけだというのに、俺の体は勝手にその命令を遂行し、動かなくなる。
羽ばたきでシュリケンを打ち払った少年は、眉を寄せてこちらをにらんだ。
「目障りだな、やっぱり死ねよ」
「させるかっ!」
信じがたい速さで割り込んできたアレクシアが、再び死の気配を切り払った。
それで体の自由も取り戻されたため、手の中で熱くなっている煙玉を魔王に投げるも、光に撃ち抜かれて不発のまま転がる。
「ちっ、〈繰身麗句〉も無効化できるのか。仕様から『あいつ』とは違うんだな」
畜生、なんだよ今の。
見られただけでもおしまいなのに、言葉で体まで操ってくるなんて。
ぶつぶつ文句を言う姿だけなら、街場の小僧が駄賃の安さに不平を垂れているのと、大して変わらない。
だがその実態は見られただけでおしまい、そして言葉ひとつでこちらを意のままに操る、正真正銘の化け物だ。
勇者たちにその異能は通じないようだが、こんなやつを相手に、俺になにができるってんだ。
囮にも、盾にもなれない。そして下手に注意を引いて殺されそうになると、俺を守るために、アレクシアが立ちふさがらなきゃならなかった。
足手まといどころの話じゃない、ただの邪魔者じゃないか。
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