高校珈琲
堀川士朗
高校珈琲
「高校珈琲」
堀川士朗
ブザーが鳴った。
この椅子硬いな。
小屋の天井が低い。
客席も埋まってきた。
開演する前に説明すると、この話は1992年夏から1993年春までを描いたものだ。
まだこの国がかろうじて金持ちで、まだかろうじてまともだった頃の話だ。
俺の嫌いな加齢臭とかコンプライアンスとかいうクソみたいな言葉や概念もなくて、アジア最貧国じゃなかったし、A〇B48や乃〇坂46みたいなつまらない喜び組は存在しなかったし、坂〇忍は深夜のパチンコ番組にしか出てなかったので世の中は今よりうんと平和だった。
もうすぐやってくるノストラダムスの大予言を楽しめるほど人々の心にはまだ余裕があった頃の話。
細かい事をよく覚えていると思われるかもしれない。だが、たいがいの事は忘れてしまった。
俺は、高校三年生だった。
第一幕
今日も大量殺人した。ティッシュにくるまれた三億匹の俺の子孫たちは数分も経たない内におそらく全て死滅するだろう。
アイス珈琲を飲んで煙草を吸ったらその事は忘れてしまった。
俺の名前は森川チロ。
その頃の俺は高校にはたまに行って、あとは思い出したように中古で買ったドラクエ3ばっかりやっていてもう何回もクリアしていて、しまいには武器は一切取らず呪文も使わずに仲間の職業は遊び人オンリーで全員装備はなしでラスボスまで倒していた。
勇者モリカワの人生ばかり送ってないで、そろそろ自分の人生を真剣に考えなきゃなぁとは思っていたんだ。俺なりに。
でも全く生活の日々日常一切合切が面白くなかった。
頭の中と視界には薄いビニールのもやもやとした物質が常に被せられているみたいで、全然リアルな感覚として日常はそこに存在しなかった。
俺の住む街、亀有は再開発で駅周辺が死んでいた。
死んだ後で何かに蘇るのだろうけれど、そんなものに興味はなかった。
重度の精神分裂病と胃ガンの母親は死にかけてて、精神病院と普通の病院に常に入退院を繰り返していた。
42歳の若さで今まさに命を燃やし尽くそうとしている彼女の背景には、浴びるほど浴びてきた酒と男と毒がその功罪としてあるのだろう。赤坂でホステスをやっていたからな。夜の蝶だった。
平気で俺に何も告げず男の家に行き一週間二週間行方不明だった事などざらだった。
そんな時俺はいつもチキンラーメンばかり作っていたな。あと、祖母の作るミソおにぎりを食べていた。美味しかったけど不味かった。
はっきり言って母親は人生失格だった。
もうすぐ訪れるだろう母の喪失に思い至るが、そればかり考えていたのでは毎日がつらいだろうと他人の憶測レベルで自分を眺める。
俺には客観性しかなかった。
あと、認知症の入った祖母の面倒(深夜の3時に徘徊してしまう)を看ながら俺は高校に通っていた。
父親はいなかった。
もう離婚していて父ではなかったが、一年に二回、父の日と誕生日に向こうの家に行って、会って男同士の食事をするくらいだった。仲はよかった。父は馬鹿な男だ。不器用で要領が非常に悪い。
俺には馬鹿とキ〇ガイの血が半分ずつ流れている。
思考が非道くさめざめとしていて珈琲を飲んでる時しか生きてる感じがしなかった。
ああ、あと演劇をやっていたな。思い出したくないけど。
高校演劇のコンクールで個人賞(奨励賞)と連盟祭で助演男優賞を貰ってたし、全国高校演劇連盟中央委員をやっていたのでかなり幅をきかせていたっけ。かなりそれはどうでもいいけど。
タレント事務所や劇団には入ってなくて、フリーでよその劇団にたまに呼ばれたりしていた。
まぁ、劇団って言っても動員数200から300ぐらいの小規模なもので、ギャラはノルマバックと交通費合わせて三万円も貰えたら良い方だった。
俺はフリーだから事務所に引かれず全額貰えるけど、三万ぽっちで平気で高校三年生を一ヶ月以上拘束するんだから制作さんは罪の意識全くないよな。
逆に“出演ノルマ”と称して五万円から十万円もの出演料を役者からふんだくる劇団も普通にあったくらいだ、90年代だから。
それぐらい東京の小劇場界隈は飽和状態だったし、役者になりたい奴らはいっぱいいたんだ。
演劇に求心力と魅力が全く無くなって衰退しちゃった今じゃ、ちょっと考えられない現象だろ。
昼日中。
自分の教室で寝ていたら演劇部顧問の松本先生に呼ばれた。
中年の女性教師(現代文の)で部活中暑いと言うと冷えた麦茶を差し入れしてくれる気の利いた先生だった。
部活で使ってる体育館のステージすげー暑いからさ。
「松本先生何ですか?」
「森川、今年の連盟祭だけど君、城東台東地区の高校生集めて演出やって」
「え俺が演出なんすか。またやるんすか。もう高三すよ俺」
「うん」
「普通引退。引退」
「うん、でもね」
「はぁ。何でですか急に。まあいいですけど」
「森川君、君には実績があるんだよ。去年の連盟祭で賞を取ったでしょう。あれを観た審査員が今年また君を指名した訳なんだよ。演技力が高いって鴻上尚史さんも褒めてたじゃんすごく。演出も担当したしね、あの舞台」
「ふーん。ギャラ出るんすか?」
「出ないよ」
「じゃあやです。俺もうすぐ卒業だし」
「言うと思ったよ。まあ、あたしが特別に寸志出すからさ。頑張ってよひとつ」
「ああ。じゃあ。やりま。す」
無糖の缶珈琲を飲みながら校舎裏で煙草に火をつける。
中二の時に行ったハワイで買ったジッポ。今も愛用している。マルボロメンソール。松本先生も黙認している。
14歳の時に初めて煙草を吸った。
その時はいきなりピース吸って、まるでジムシーに渡されたタバタバを吸った未来少年コナンみたいな反応で頭がクラクラしてぶっ倒れたけど慣れるもんだよな。
缶珈琲が美味い。キリマンジャロの樽缶の奴。煙草に合う。
校舎裏の、コンクリートの部分を意味もなく眺めた。
さて、演出か。
これから色々考えないといけないな。進路は決まっているからいいけどね。
指定校推薦で大勝大学文学部入学がもう決まっている。
あとは論文を二十枚程度書いて提出するだけだ。宮沢賢治の。
受験はしたくなかったんだ、面倒だから。親の面倒とかで手一杯だ。
中間・期末試験とアチーブメントテストを重点的に頑張っておいてよかったよ。ほぼオール5かよ俺。
何の意味もなく空き缶を座っている三段の階段の滑り止めの溝のとこにガリガリやった。
全然削れなかった。
煙草の吸い殻2本を入れた空き缶は植え込みに捨てた。用務員さんの仕事を増やしてやった。
空腹だ。
立石の美味しいまりもラーメンにでも行くか。クラスメイトの萩っちゃんと泉野を誘って。
ぐんぎょ。げんぎょ。腹の虫が何か語りかけている。
夏が終わる。
脚本を書こうか。
プロジェクトオブザ誤嚥性肺炎。バベル2LDK。空。二つで十分ですよ。桜田ファミリア。パラダイムシフト。時計鰐。硬質ポルノ。田所さん。二時間百円。メイドの飛脚。旧体制。ネクロマンティック。誰でもないどこにもいない俺。遣欧使節トライアングル。陰獣。チリ紙鑑定士。虹のバクテリア。ソドム座頭市。篭手。よほどやらかしたのだろう。行雲流水。召しあげられた特産品。ノイマン効果弾。喜寿の赤ちゃん。ペニリンガ。クニリンガ。流氷ファイナンス。地震です火事です納税して下さい。ゾクゾクするわ。光明。馬鹿が戦車でドライブスルー。フランチャイズの犬。逃げ得最新情報。褒められて自殺するタイプ。鼻。少女椿山親方。幅をきかせる魚たち。仲間。外人忍者AKA影。曹達水。名も無い石黒。鱗屑。そうは行くか双子の婚前交渉。起爆剤。徴兵懲役一字の違い腰にサーベル鉄鎖。命と命の桶狭間。お前物流を支えそうだな。固まる塊。山ランド海ランド空ランド。足しては引いてく賽の河原協同組合。場面転換。
俺にはキャスティング権が与えられた。
これは、絶対的な権力だ。
充分に行使させてもらおう。
メンバー集めだ。
俺は自分の学校の演劇部のメンツには興味がなかった。
みんな名前も聞いた事がないようなタレント事務所に預かりで所属していて、で、やっぱりインチキ事務所で、高いレッスン料だけ取られてレッスンも超適当で仕事も全然回ってこないような、そんな悲しい奴らばっかりだったからだ。
他校から人を集めよう。それだよね。
地区大会や都大会で面白かった高校の役者をメンバーとして考えていた。
足立商業高校三年の宮嶋志保(みやじましほ)。去年地区大会で芝居を観た。おっぱいが大きいから選んだ。目が細くて顔の造りが女優の松雪泰子に似ている。多分メイクとかかなり意識してるんだろうな。
淵田高校の樺山文也(かばやまふみや)。通称カバゴン。いい意味で馬鹿な味のある高校二年生。坊主頭。背が低くて太っている。性格もいい。
宇田川女子高三年の立村槙(たちむらまき)。スタイルがよくてかなり美人だ。宝塚の男役が似合いそうなボーイッシュなショートカットの女の子。
去年都大会まで行った上野富士高校の斉藤まなと・よしこ兄妹。不思議な演技をする不思議兄妹。
コメディタッチな演技が上手い綾瀬中央学園の前原勘平(まえはらかんぺい)。我が強そうだが不確定要素として選んだ。芝居にはそういう要素も必要である。
と、彼らを集める事にした。
スタッフは淵田高校の青木茂。高校二年生。彼はインカムひとつで照明・音響なんでもござれの出来る裏方さんだ。
去年の地区大会で知り合って何本か小劇場の芝居を観に行ったりと仲良くなった。
顔合わせ及び稽古は音響照明設備が整っている淵田高校で行う事にした。セットや小道具もここで造る。
ちょうど城東台東地区の真ん中に位置していてみんなが通うにも楽でいい。
淵田の演劇部部室にメンバーを集めた。
暑いから2リットルペットボトルのお茶を買って紙コップに入れてみんなに配った。こういうのも全部経費で落ちる。
練ってきた演出プランと、書き上げたばかりの脚本を披露した。
今回の舞台は、七人の侍をやろうと思う。
ただ普通にやったのではつまらないので七人全員が黒澤明監督という設定にした。
「七人の侍1992」は、いかにして村に襲い来る野伏せり(野盗)を七人の黒澤明の壮大な演出方法とロケーションとカメラワークでやっつけるか議論する内容の(その為には「山も削ってしまえ!」とか、「カメラマンクビにしろ!」とか、「あの電柱引っこ抜け!」とか言っちゃう)脱力系社会派会話剣劇だ。
上演時間50分の内、4分の3を黒澤明の議論のシーンに費やす。
白熱して仲間割れとか平気で起こしたりする。
黒澤だから。
「アクション!」とか「どん底!」とか「乱!」とか「生きる!」とか無駄にシャウト的な奇声を発する黒澤明たち。
長すぎるほど長い議論のシーン。
だがラストの立ち回りだけは本格的にする。そこをちゃんとしないと、ただのおちゃらけ脱力ショーになってしまう。
それはやりたくない。それじゃ、あそこの劇団みたいだ。
あそことあそことあそこの劇団。
キャストは百姓も野伏せりも兼ねる。俺たちも七人しかいないからだ。
雨の中の合戦シーンの曲は、ブランキージェットシティの「ヘッドライトのわくのとれかたがいかしてる車」を大爆音で流す。
多分だけどいい舞台になるだろう。
いや、いい舞台にする、俺が。
俺の演出プランに逐一ウンウンと真剣にうなずく立村槙は背が165センチぐらいあって、高い靴を履くとほぼ俺と変わらなかった。だからだろう、高校演劇ではよく男役を振られるらしい。スポーティな引き締まったカラダ。
でも肌の色は白く、右目の下に涙ぼくろがあって色っぽい。距離が近くて、短髪のヘアーからシャンプーのいい匂いが漂って来てやべえ。超やべえ。
稽古三日目。日曜日。
朝からセットを仮組みした。色はまだ塗らない。
午後の稽古前にみんなで淵田高の近くのスーパーへお昼を買いに行く。
立村はサラダと小さなサンドイッチ。足りるのかな。
宮嶋志保はカップヌードルを買ってお湯を入れていた。二分でフタを開けようとしていた。
「あたしいつも固メンじゃないと駄目なの~」
とか言って自慢のおっぱいをブルブル揺らしてみんなから注目を浴びようとしていた。安い女だな。嫌いじゃないけど。
お昼を食べて、稽古再開。
トラブル発生。
前原勘平が俺に噛み付いた。
馬鹿が。
「やっぱり原典を汚しちゃいけないと思うな森川クン。つまり黒澤明のフィルムワークに対しての敬意っていうかさ、森川クンはもっと敬意を払った方がいいと思うな。だから、だからという事もないんだけど、僕の役は原作から鑑みるにもっとクローズアップされてしかるべきなんだと思う」
「え、それはどおゆう」
「つまりさ、重要な決めゼリフをもっと与えてほしいと思うんだ。もちろん僕はそれに対して明確な演技で応えていくから」
「や、いいよ。いらないよ」
「なぜだい?」
「なぜだいじゃねえし。前原クン出しゃばるだけじゃん。俺は黒澤明に敬意を払ってるよ」
「そうなの?」
「うん。もちろんだよ。だから七人の侍を一度解体、再構築したこの作品をちゃんとやろうとしてんじゃん。前原クンはさあ出番欲しがって出しゃばりたいだけなんだよただの」
「違う、役者としての」
「うるっせえよお前っ!」
殴りそうになった。
馬鹿が。
眼鏡飛ばしてやろうか。
前原のこういうところがウザい。こいつワザとやってるんじゃないか?それか天然か?いややっぱりワザとだぞとか、他人に余計な思考をさせて時間をロスさせる人間はウザい。
暑い。
暑いんだよ。
お前がいると更に暑くなるんだよ。
稽古期間二週間しかないんだぞ!
前原の頭の中では絶えずシューベルトの魔王とかが流れているに違いない。だせえ。もうこいつは無視する事にする。セリフも大幅カットだ。
カバゴンこと樺山がいたたまれなくなった一触即発のその場の空気を察して桜金造の「♪小山遊園地~」の物まねをしてみんなを笑わせてくれた。
いいよな、こいつ。
笑顔が人懐っこい。
一見馬鹿に見えて、こいつは全然馬鹿じゃない。
むしろソクラテスだ。
こういうのが役者っていうんだよ、馬鹿前原。
よしカバゴンは昇格だ。メインクラスの黒澤明役に。
稽古十日目。追い込み時期なのに斎藤まなと・よしこ兄妹が稽古を休んだ。
新興宗教「ローズ真言教」の特別なお祈りがある日らしい。
「今日お祈りに道場へ行かないとステージが下がってしまう」
とか言ってた。仕方ない奴らだなぁ。
何のこっちゃ分からんけど。
場当たり稽古をつけながら立村槙の事が気になって気になって仕方ない。
俺が書いて俺が与えた黒澤明のセリフを立村が真剣に真面目に男声を使って発するだけですごく心臓がドキドキする。
一挙手一投足に注目してしまう。
美しいフォルム。
横顔がとても綺麗だ。
何だろうこれ。
あれだ。
きっとあれだ。
己にまかせよう。
俺は自由だ。
十二日目の稽古が終わった。
もうシメの段階で舞台も固まってきた。
いい調子だぞ。
とても面白い芝居になると思う。
前原もこないだシメたらもう何も言って来なくなった。
見よ、これがチームワークだ。
通し稽古を二回やったら夜遅くなり、自転車で帰ろうとすると立村がぽつんと立ってこちらを見ていた。
無言だったけど彼女の綺麗な瞳には既に強力な磁場が発生していた。
「乗ってく?」
と声をかけた。
立村はうなずいた。
なぜかそばにいた宮嶋志保がふくれっ面をしていた。
ふくれっ面だとますます松雪泰子に似ていた。
自転車にニケツして中川の長い長い川沿いを走って埼玉県の南端の立村の家まで送っていく。
途中の大木が植えてあるお地蔵さんのところで立村がお尻が痛いと言ったのでそこからは自転車を押しながら歩いた。
街灯が少なくて暗い。
こんな時間、この長い暗い一本の道には俺たち以外誰も通らなかった。
飯塚橋を過ぎた。
横をチラチラ向きながら俺は、立村のキリッとした濃い八文字の男眉毛ばかり見ていた。
あと、彼女の天然パーマのショートカット。
くせっ毛が風に揺れていた。
色々な話をした。将来の事とか家族の事とか。
立村も俺と同じくひとりっ子で父親がいなかった。
「俺さぁ」
中川の川のどぷどぷと流れる音を聞きながら「俺さぁ」の続きが言えず、俺は立村を強く抱きしめた。
自転車が倒れた。
構わない。
キスをした。
風が吹く。
「好きだ。大好きだ。俺の彼女になってくれ」
と俺は言った。
立村槙はクールな瞳に光を宿して、
「よいですぞ、黒澤どの!」
と男声でおどけて言った。
全国高校演劇連盟祭が始まった。
会場は池袋にある東京芸術劇場中ホール。
楽屋は広い稽古場に各校それぞれにまとまって使用される。
知らない高校の連中もいっぱいいる。
俺たちメンバーに緊張が走る。
ライバルは一番手の大駒付属高校。
寺山修司の「犬神」をやる。去年関東大会で審査員特別賞を獲っている連中だ。
こいつらに負けてたまるか。
俺はブタカン(舞台監督)の青木くんと綿密な打ち合わせをする。
俺たちは三番手だ。
観劇する余裕はあったが、俺たちはあえて大駒付属高校の「犬神」は観なかった。観る事によって芝居はきっと崩れる。
俺たちは俺たちの事だけに集中すればいいんだ。
さあ出陣だ!
開演。
幕が上がり、いきなり七人の黒澤明の格好をした俺たちが車座になって現れたので客席がどよめいた。
延々と、ああでもないこうでもない野伏せり退治の会議シーンが続く。
前原のセリフミスが二カ所あった。セリフが飛んで真っ白になっていたのでその都度俺が、
「しかし黒澤どの。そうは申されましても……」
と巻き戻してつじつまを合わせた。
二回目の訂正はお客さんにもバレて笑いが起きた。
前原め、こいつ殺してやる。
絵コンテと演出プランとカメラワークとロケハンが決まり、いよいよ退治を決意し、トレードマークのグラサンを一斉に外してカバゴンをリーダーとする七人の黒澤明たちは野伏せり軍団と闘う。
戦闘シーン。
ブランキージェットシティが大爆音で流れる。
運動神経のいい立村槙が見せ場を作る。
まるで美しい牝鹿のように躍動して流麗な殺陣を披露する。
俺は演技しつつもポォ~ッと見つめてしまっていた。
いかんいかん。
あ、俺の殺される番だ。
「乱!」「どですかでん!」「生きる!」と叫びながら次々に黒澤明たちは討たれていく。
合戦は終わった。
野伏せりは撃退され去って行った。
最後まで生き残った三人の黒澤明(樺山、斉藤兄、前原)は疲れ切って立ち尽くす。
「俺たち黒澤明は負けた。勝ったのは百姓だ!」
と志村喬的な役どころの黒澤明役のカバゴンが言ってシメる。
拍手が湧き起こる。
幕が降りて「七人の侍1992」は終演した。
終焉した。
燃え尽きた。
夏から取り組んできたんだ。
やったよ。
俺たちは舞台上で円陣を組んで、
「お疲れーっ!!!」
と叫んだ。
スタッフの青木くんが調光室から駆けてきた。
血相を変えて袖から右手をグルグル回している。嬉しそうに笑顔でパニクっている。なんだろう。
幕の向こう側では拍手が鳴り止まない。
また緞帳(どんちょう)が開いた。
スタンディングオベーションだ!
総立ち!
800人のお客さんみんな笑顔!
最前列にいた大駒付属高校の連中が悔しそうな顔を浮かべながら拍手しているのが見えた。
勝った!
勝ったのは俺たちだ!
宮嶋志保がおいおい泣いて立村とカバゴンに頭をヨシヨシされている。感情的な子なんだな。
前原は青い顔で震えている。小者め。さっきのセリフミスは罰金ものだぞ。まあいいけど。ほら、握手してやるよ。
斉藤まなと・よしこ兄妹は何を思ったか新興宗教「ローズ真言教」の謎の踊りを披露している。
俺は笑った。
全員で一列になり手を繋ぎ深々と一礼した。
拍手が鳴り止まない。
下げた背中に拍手の振動が伝わった。
友情で青春っぽい。
でもこの友情で青春っぽいのは、一回こっきりでいいやとも思った。
ユーガッタ釈尊。ティツィアーノ。落款。私の腹持ち。ドキッ大人だらけの水牛大会。即席麺。プッペの大冒険。色慾ムーランルージュ。悩み悩ませどぶ板横丁。 オイラト部クドカ・ベキ王家。良い人かどうか分かるスカウター。朝とマルチ。反駁魔人。ヒババンゴお代わり。ドッケン。風のタワシのタウシカ。喜ばせたい蒸発。命名ありおりはべりいまそかり。棚に置いた生い立ち。奏でよウルスラ学園。探検女の子。紅一点と黒一点。株式会社最底辺。みだれ髪。租界ローション。あなどるなかれ人の常。アナトールフランス書院文庫。カーテンのアクセントがおかしい。旅茶。隠し砦の三元豚。玉のような夜ちゃん。キャロライン洋子。好色人種。チュー・ゲバラ。待つ。狡猾リーベンデール。他界他界。肩で息する五番町。マタンゴ。カバンに入れた棚橋。クラフトワーク。暗転。ここで幕間十五分間の休憩となります。
第二幕
冬。
自宅の離れで寝ていたので分からなかった。
二階に住む祖母がまた深夜に徘徊して何キロも先の荒川の橋のところで娘(俺の母)の名を呼んで泣いているのを警察から電話で知らされて、保護されている亀有署まで迎えに行った。
帰りに手を繋いだら祖母の手は氷のように冷たかった。
「チロお腹すいた」
と言うのでトースターで餅を焼いて磯辺焼きを作って食べさせた。
祖母は、
「美味しいね、チロ。初めて食べるよ」
と言って赤ちゃんのようにスヤスヤとやっと眠ってくれた。
午前5時。
俺はもう何日もろくに寝ていない。
澱(おり)のように淀んでいく視界。
通学の自転車をこぎながら眠りに落ちて車に轢かれそうになった。
一限目の地理は机に突っ伏して寝ていた。毎回テストで100点を取っているから教師に文句は言わせない。
休み時間に教室でクラスメイトの千葉さんが斉藤由貴の替え歌を唄っていた。
「♪制服の~胸の乳首を~下級生に~なめられ~」
俺たちは三年生だった。みんな進路が決まり、卒業が近い。だから「卒業」を唄っているのだろう。
それにしてもくだらない替え歌だな。タマってんのかよ。
千葉さんは丸顔の小柄な子で、おっぱいが大きくて勉強が出来ないヒマワリみたいなかわいらしい女の子だ。
俺は彼女の歌声にイライラしていた。
お昼休みの時間に千葉さんに小さいメモを渡した。
「授業完全に終わったら校門横の自転車置き場で待ってて。デートしよう」
千葉さんは約束通りやって来た。
いつものひょうきんさは消え失せて、なんか照れた顔でモジモジして短いスカートの端っこを強く握っている。
「乗れよ」
と言って自転車の後ろに乗せてやり、立石のゲーセンで対戦型のストリートファイター2をやったりコインゲームで遊んだりUFOキャッチャーでキティちゃんのぬいぐるみを取って千葉さんにプレゼントしたら千葉さんは顔を赤らめてすごく喜んだ。
コンビニで缶ビールと湖池屋のポテトチップスを買って環七沿いのオバケが出そうなボロいラブホテルで俺たちはセックスをした。
終わった後、彼女は背後から抱きついてきて俺の背中の肉を爪で軽くつまんで、
「あの…森川くん。付き合って下さい」
と言った。
そういうのあれだから。
そういうんじゃないから。
ただ替え歌がムカついただけだから。
俺は何とも答えずにタバコに火を点けた。
ああもう。
ああもう。
ああもう。
この年齢なのにもはやぐるぐるとトラウマが次から次へ取り巻いていくのが嫌になる。
思考が前を向いていかないじゃないか。
どんどん蝕(むしば)まれていくよ。得体の知れない、あの埋(うず)み火みたいなものに。
この気持ちを安らげるにはそうだデートだ~ってんで、立村槙とディズニーランドに行く。
まだこの時はシーの方はなかった。
夢と希望とファンタジーの国。
いやまさか将来俺がファンタジーな国に住むとはこの時には思ってなかったね。別の話だけど。
“ファンタジー系”って小説を読めば分かるよ。宣伝だよ。どうでもいいけど。
アトラクションやディズニーショーを何個か観て、馬鹿高いレストランで食事した。全部レンジでチンした味がした。画一的。
金ならいくらでもあった。
今じゃ信じられないかもしれないけど当時の銀行の定期預金の金利は6%ぐらいあって、俺は子供の頃からおこづかいやお年玉を使わずに積み立て定期に入れて利殖してたんだ。
1000万ぐらい貯金あったと思う。
夕立雨が降った。ディズニーグッズが売っているアーケードショップまで濡れて歩いた。
俺は立村の服が濡れていくのを見ていた。
改めてまじまじと彼女の顔を眺めた。
キリッとした眉毛の治安が良い。
自然のアイラインが入ったような目。
整った鼻梁線。
魅惑の唇。
ちょっと古いけどフィービー・ケイツに似ているなと思った。外人くくりだ。
この子は外人のように綺麗な顔をしているんだ。
立村は視線を感じて、
「ん?」
と、一瞬で表情を変えてまるでかわいいコツメカワウソみたいな顔になった。
立村槙は天然の女優だ。
しかし家が貧乏だから高校を卒業したらすぐ菓子メーカーの田坂屋で働く事が決定している。しかも作る部署。
こんなに綺麗な顔をマスクで覆って工場で肉まんとかあんまんとかを延々と製造する道が決定しているのだ。
勿体ない。
もう演劇には未練がないのかな。
何だか非道く勿体ない話だなと思う。
俺は立村に演劇を辞めてほしくない。
また俺の演出する舞台に出てほしいと思っている。
アーケード。少し濡れた。弾む息。
俺たちはしばらく見つめ合ったまま何も言わなかった。
やがて槙の方からキスを求めてきた。
立村槙。
ああ俺の槙。
一生大事にするからね。
この想いは本当なんだ。
お別れの時間となった。
「またデートしよう」
と言ったら立村はまた、
「ん」
ってコツメカワウソっぽく返事をして三回手を振って電車で別れた。
それから俺は亀戸のピンサロ『イチャイチャ女学園』に行ってラムちゃんを指名して抜いてもらい、帰りに牛丼食って帰宅。
今日は日曜日だ。
昼から酒を飲んで久しぶりにピースを吸った。やっぱりオクタン価の高い煙草は美味しいな。
槙は俺に対してずっと敬語で話す。
もう慣れたけどなんかやだな。距離感が。
今日初めて自宅の俺専用の離れで立村を抱いた。
愛情があった。
深い愛情があった。
何回もした。
距離感を埋めたかったのもあったし、ずっと近い存在でありたかった。
彼女は初めてだった。
なるべく早く俺とはこういう事は済ませたかったらしい。
なぜかと尋ねたら、
「そういった段階を飛び越えてあなたとは恋人でいたいから」
と言われて訳分からなくてまるで未知の領域だなぁと思った。
そうか、恋人関係ってそういうものなのか。
立村を俺の高校に連れてきた。明らかに彼女だけ制服が違うのでドキドキする。状況がエロかったし、背徳的だった。
同級生の萩っちゃんに立村を紹介すると、
「え~!なんだよ~森川~他校と付き合ってんのかよ~」
と羨ましがられた。
そんなレスポンスを待っていたんだよ萩っちゃん。
そんな俺だが、最近では煙草をやめようかと思っている。お金が勿体ない。
例えばピンサロ単位で計算すると1ピンサロ指名なしで4000円としてマルボロだと16箱は買える。
ピンサロも煙草も金の無駄でしかない。
両方とも何だか自ら毒を摂取している感じがする。
母親の二の轍(てつ)は踏みたくない。
一時の享楽、カラダにも悪い。お金が勿体ない。
きっとこれより大事な悦楽は他にある。
もちろん立村槙の為に使うのだ。
こないだはクリスタルガラスのイヤリングを誕生日プレゼントに買ってあげた。
槙は俺より誕生日が一ヶ月早い。
二人で、東校舎と西校舎を繋ぐ渡り廊下の錆びたフェンスに寄りかかり、さっき購買で買ったグラタンコロッケバーガーを食べてから、立村を抱きしめてキスをした。
同級生の何人かがそれを見ていた。
千葉さんもそれを見ていた。
能面のような顔をしていた。
はー。なんか珈琲飲んでる時だけ生きてる感じがするのはなんだ。気のせいか。
立村と亀有銀座商店街にある行きつけの美味い定食屋に入る。
俺はメンチカツ定食、立村は野菜炒めとワカメの酢の物だけ。
「揚げ物ばっかですね。もっとこう、ホウレンソウのおひたしとか食べた方が良いですよ」
と言われた俺はどんぶり飯のご飯の中心に割り箸をグサッと垂直に突き刺して会話を続けた。
立村はそれを見てその綺麗な顔にいぶかしげな表情を浮かべた。
そうそう、これを見たかったんだよ。被虐?加虐?どっちでもいい。
俺は立村の彼氏なんだから。
箸はご飯の軟らかさに耐えきれず、ゆっくりとゆっくりと傾斜していった。
俺には。心が。ない。
房を冷やす房を暖めるその中枢に私がいる。臨検開始。濡れ場流線形。やましさたっぷり天使とデート。サスペリアな未来とは。遠泳。歯に衣着せぬ着衣せぬ。ナイトオブザ避妊具セット。剥奪権。無料だとヨボヨボの主治医です。スプッロド式マクサ標商録登。原田と叔父と伯父。除菌。必聴村八分。マグマ大使を呼んだら的場太一が来た。レコメンデーション。阿呆草物語。カタルシス桃源郷。津嘉山競馬場。携行食糧。眼差しはいつも下から。ニコチン定食。暁の出撃。鈍色。特撮。ターニングポイントカード。まさかの田子作。魔羅。課長補佐志摩工作。全力脱毛太夫。赤いきつねと緑のヒロシ。インスタントハイウェイ。無反動砲無鉄砲。おどける経団連をどける。羅生門。ミルフィーユ卒塔婆小町。また夜にやって来る母。明転。
俺は劇団新エマニエル夫人に出演する事になった。
劇団主宰の坪内は、斜に構えた演技の出来る若い俳優を探していた。連盟祭も観に来てくれたらしい。こっそりと。
脚本・演出を手がける坪内は24歳の痩せた金髪の男だ。
自分のちっぽけな劇団の活動の他、時折蜷川演劇や短編映画に出演したり、東京国際映画祭の舞台イベントを演出したりとお門違いで分不相応な事をしている。
坪内は芸名で、本名は堀川と言う。
劇団形式にしているが、メンバーはその都度入れ替え制にしていて固定の劇団員はいない。
でも坪内さんが気に入れば、何度か出演の機会は与えられるようだ。
劇団旗揚げの時は坪内さんは本名で活動していた。
だから古いエマニエルのメンバーは坪内さんの事を堀川をもじってホーリーさんと呼んでいる。
俺は坪内さんと呼んでいる。
そんな劇団新エマニエル夫人の通算第5回公演「本を読むエマニエル夫人」に出演する事になった。
脚本は稽古開始の一ヶ月前の顔合わせの段階で完成稿を渡された。
速い。
坪内さんいわく、
「俺は小劇場界イチ筆が速い」
のだそうだ。本当にそうかもな。
それより重要なのは脚本の内容だけど、本も面白かった。
稽古場で活躍している俺の姿を立村に見せたくなった。
「稽古見学者大丈夫ですか?」
と坪内さんに聞くと全然大丈夫とOKが出た。
スマホってあったんだっけ。余裕でまだないな。あったらオーバーテクノロジーだ。
メールがカタカナひらがなぐらいしかろくに打てない“ケータイ”しかなかった。
俺はそれで連絡を取りたかったが、立村は貧乏なので携帯電話を持っていなかった。黒い色のポケベルとかも持っていなかった。
なので連絡先はいつも彼女の家電だった。
「再来月に新エマニエル夫人て言う劇団に出るんだ。面白いと思うから来てくれ。その前に稽古場に顔を出すといいよ。勉強になると思うよ」
「分かりました。森川くんが頑張ってるとこ見たいな」
「他の役者とのレベルの違いを見せてあげるよ」
「うん。楽しみにしてますね」
その後はいつものようにお互いの近況を話した。
俺の方はいよいよ母親の死期が近い事。
立村は先日、菓子メーカー田坂屋の短期研修を受けた事など。
今夜夢に槙が出て来たらいいなあ。プロポーションのいい裸の姿で。
抱きしめたい。
朝。槙の夢は見なかった。意識しちゃうと駄目だねどうも。
通学。自転車置き場に自転車を置いて、学校の下駄箱を見たら中に手紙が入っていた。
トイレで開けたら、
「殺したい。でも大好き。by T」
と書いてあった。
多分、十中八九、千葉さんだろう。
授業中もチロチロと濡れた瞳でこちらを垣間見ているのがよく分かる。
突き刺さる視線。
雨の日の犬みたいな目で俺を見やがって。
ウザったくて仕方ないので茶道部(兼部している)の部室の和室に連れて行き、鍵をかけて窓のカーテンを全部閉めてセックスした。
畳だと膝が擦れて痛い。
千葉さんがどんどんどんどんかわいくなっていく気がするが、それは俺と千葉さんの間にだけ介在するくだらない共同幻想で、俺の彼女は立村槙だけだ。
たとえ千葉さんがこの先俺の為に愛情弁当を作ってきても、他の余計な女は面倒見切れない。
でもまたセックスはするだろうなぁ。
するなぁ。
連盟祭が終わってから四ヶ月が過ぎた頃、足立商業高校の宮嶋志保から電話が掛かってきた。
「こないだ彼氏に振られて寂しいの。ちょっと付き合ってくれない?飲も?」
と言われた。
興味はあった。
宮嶋はおっぱいが大きい。Fカップぐらいある。千葉さんより大きそうだ。
連盟祭の稽古の時に薄着になった時にすごく目立った。誰にも言わなかったけど。
あああの時宮嶋がふくれっ面でいたのはそういう事だったのかとも思った。
でも悪い女だよな。
俺と立村が付き合っているのはあの時のメンバーはみんな分かっていた事なのにな。
亀有に呼んで、まあまあ高いイタリアンワインを出す店で飲んで、実家の俺専用の離れで宮嶋志保を抱いた。
彼女は抱かれながら、
「好き!好き!」
を連発していた。
俺はその都度萎えた。
淡々と仕事のように抱いたし愛情はなかった。
あと宮嶋はワキガだったので二度目はないと思う。
裸のまま、もう会わないと告げたら宮嶋は泣いて抱きついてきた。
よせ。
ワキガが伝染る。
「君にはもっと、俺よりもっと素敵な奴が現れるよ。素敵な。きっと君に似合うような、素敵な。そうだよ、あれだよ、素敵な出会いがきっと待ってる。素敵な男がきっと君を素敵にしてくれる」
とかいう素敵を連発する全然素敵じゃない陳腐なセリフを言ったら宮嶋は馬鹿なのか泣きながら納得したらしく、大人しく服を着て涙で崩れたメイクはそのままで、独りとぼとぼと帰って行った。
駅に送りはしなかった。
♪食べて美味しいカトキチの~冷凍讃岐うどん~。
立村が明日来るんだ。当時はファブリーズはまだなかったから印度のお香を焚いて事後の匂いをごまかした。
「将来、新しいビジネスを考えているんです」
と立村は言った。
「クッキーとかマカロンとか。焼き菓子を私が作って、パソコンで受注して宅配ですぐに届ける形なの。それだとそんなに従業員もいらないし……」
俺はすぐに否定した。
「資本金はどうするんだ?誰が貸してくれるんだよ、そんなビジネスアイデアに」
「そうなんですけど……」
「俺が貸してやってもいいけどね。でも返済を巡って俺たちの関係がこじれちゃうのは俺嫌なんだ。分かるだろう」
「……ん」
「そんな事始めないで俺と一緒に暮らさないか?家賃はただでいい」
「んん」
「ね。二人で暮らそうよ。楽しいよ。かわいい小鳥とか飼って」
「んん。ん」
俺たちはそんな会話をしながら喫茶店でホット珈琲を飲んでから板橋区にある公民館に行った。
劇団新エマニエル夫人の稽古場だ。
芝居は六本立てのオムニバス構成になっている。
俺は二本目と五本目の芝居に出演する。
昼は役者、夜は渋谷のチーマーをやっている男の役だ。
他のエマニエルの俳優メンバーを意識して、いつにもまして熱演する俺。
ヤクをキメてシェイクスピアのロミオを演じるチーマー役を演じる。多重構造だ。
稽古場の端っこで体育座りして見ている立村の反応が気になる。
ジュリエット役は文学座出身の俳優さん。三十歳の男の人。
俺はハイテンションでセリフを叫んだ。こめかみの血管が切れそうだ。
だが坪内さんは表情を曇らせた。しきりに煙草を吸っている。
今日はダメ出しが一切ない。
それがかえって怖い。
灰皿が山だ。
何だよ。何がいけないんだよ坪内さんよぉ。
稽古が終わってその日の打ち上げとなった。
板橋駅のガード下にある中華料理屋、桂林で打ち上げる。
坪内さんはエロいので立村の隣に座った。本気で狙っているようだ。
この男は何人もの小劇場界の女優や裏方を食っていて、エロくて悪名が高いんだ。
「槙ちゃんさぁほんと色が白いよね」
「あ、はぁ」
「髪形もいいね。ショートカット似合うのってほんとの美人なんだよ」
「え、そうなんですか?」
「うん。綺麗な女優さんは自信があるとショートにするんだよ。槙ちゃんだったらうちの劇団の主役張っても充分いけるよ。スター性があると思うんだ。よかったら次回公演出る?また今年秋にやるから」
「でも私四月から就職するんです。だから稽古が」
「ああ大丈夫。時間とかいっくらでも考慮するから。いっくらでも。うち社会人の人もやってるし」
「そうなんですか?」
「でも本稽古が始まる前に二人だけで抜き稽古してみようか」
「……はぁ」
「うん。抜き稽古で坪内メソッドを予め伝授しておくよ。ね?二人だけで。大事だからねそれ。やーほんと指が綺麗だよね。シラウオみたい。食べた事ないけどシラウオ。触っていいかな」
と言って坪内の奴は立村の手の先に指を絡め始めた。
ぬらぬらと。
熱帯雨林の蛇のように。
立村の眉が困っている。
俺はいたたまれなくなって勢いよくジョッキ生をカラにして坪内を牽制した。
「やめてくださいよ」
「あ?」
「坪内さん彼女二人もいるじゃないすか」
「いるよ。何が?」
「ダメじゃないですか」
「だから何が?」
「彼女いたらダメじゃないですか」
「いるよ。何が?」
「やめてくださいよそういうの」
「いるよ。だから何が?」
「人のもん欲しがんないで下さいよ」
「やだ。欲しい。だってかわいいもん槙ちゃんすげー」
「ふざけんなよマジでっ!」
「なにタメ語なの?あ?お前やめる?」
「はい?」
「お前やめちゃうか?」
「日本語変ですよ」
「うるせえよ。だいたいさぁ、高校演劇でちょっと上手くてチヤホヤされてんのかもしんないけど、天狗になりすぎなんだよお前は。そんな自意識だけの下手くそなダサい役者とかいらないから。悪いけど。お前の演技はイケてないんだ、高校演劇止まりなんだよ!エマニエルはレベル高いんだ。ダサい役者はいらないんだよ正直!俺が何か言っても、お前積み上げていかないじゃん理解出来なくて。芝居の反射神経弱いんだよ。そういうの一切ダメ出しが無駄になるんだよ。稽古にならねえだろ!稽古は積み重ねなんだよ!毎回の稽古で絶えず堅実でしかもトリッキーな演技を提出しなきゃならない。それが俳優なんだよ!俺は蜷川さんの舞台でもそうやって闘ってきてるんだよ毎回!お前はなぁうちのメンツだと二軍にも入れないような補欠なんだよ。代わりはいっくらでもいるからな!いっくらでも。お前みたいなタイプの俳優気取りで実は何にも出来ない奴なんか俺全っ然いらないから。全っ然!今の奴らほーんとみんな中途半端な。素人考えで何かやろうとするからだよ。演劇は甘くないんだよ!ストレスだけ与えるような使えない若僧の持ち札はいらないんだよ俺は!明日からお前来なくていいからなマジで!」
これが蜷川仕込みの言葉の灰皿というものなんだろうか。
面と向かっての悪口というものに耐性のあまりない俺は衝撃と怒りと虚しさを同時に覚えた。
「……分かりました。クビという事ですね。分かりました。分かりました……。公演の成功を祈ってます……」
「あん。お前キャスティングしたの間違ってたよ。それだけは謝る。ごめんな」
「や、そういうのいいです。逆に残酷です」
「あん。まあな。それが俺」
店を出た。
立村にこんな姿を見せるはずじゃなかった。
何なんだよこれは。
この結果は。
降板。
初めての事だ。
悔しい。
恥ずかしい。
恥だ。
恥でしかない。
汚点だ。
無念だ。
無念という言葉の意味を今、初めて知った気がする。
俺は精一杯気を張って立村に、
「ごめんな槙。ははは。はー。……芝居、降ろされちゃった。観に来てほしかったんだけどな」
と言った。
立村はすごく気を遣ってくれて俺からは少し距離を取って、
「ドンマイですよ、森川くん。だってあんなとこ出ない方がよかったですよ、演出家があんなんだったし。坪内最低」
と無理に微笑みながら言ってくれた。
亀有に帰る電車の中で俺と槙は無言だった。
槙は何かを考えてくれていたのかもしれないけれど、俺は降板の事しか考えられなかった。
坪内はきっと異常者だ。
異常者は誰も逃げられない無人島に集めて、ジェイソンとフレディとレザーフェイスをほぼ同時に投入すればいいんだ。
電車は揺れた。
手を繋いだ。
俺は高校を卒業した。
もうすぐ死ぬ母の見舞いに立村を連れて行く。
死ぬ前に、綺麗な彼女を見せておきたかったんだ。
亀有第三病院三階の個室。
精神病でなく、胃ガンの方の入院だ。
でも鉄格子のある病室に隔離する必要性も同時にあった。
相部屋を母は嫌がった。
「他の病人に殺される!」
とか常に言っていた。
薄い白い病衣を着た母の細い腕と胸からは合計四本のチューブが何かの機械に繋がれていた。胸ははだけていた。
髪はボサボサで、あちこちカラダをかいていた。
蟻走感があるのだと担当の医師は言っていた。
母は立村の事を一切視界に入れずにいた。
こないだ来た時よりもまた更に痩せていた。
もうすぐ確実に死ぬ。
「これ田坂屋の店舗で買ってきたんです。お口にあ」
「いらないよ!こんなもんっ!人の気持ちも知らないでよぉっ!」
母は起き上がって、立村が言い終わらない内に彼女からケーキの入った箱をひったくって病室の壁に叩きつけた。すごい力とスピードだった。
母はレトリックじゃなくて本当に般若の顔をしていた。
「……て、社会に出たら言われるんだよ。覚えときな小娘!」
とか訳の分からない事を母は言った。
「かわいいかわいいうちの息子をたらし込みやがって、このバイタが!」
そう言われた立村は二の句が継げず、泣きそうになっている。当たり前だ。
照明が明る過ぎるんだ。
この中にいたら、ますます狂気に拍車がかかるだろう。
広い病室が母の狂気の威圧感で非道く狭い空間だと錯覚する。
もうこの狂人とコンタクトを取るのは無理なのかもしれないな。
俺は立村の肩を抱き、
「さよなら。母さん。もう二度と来ないから」
と母に告げた。
弱い人だ。
非常に。
俺は受け止められなかったんだ、あの時。
帰り道二人で無言でゆっくりゆっくり散歩していたら、近所の公園に貼り紙がしてあった。
「ネコにエサをやるな」
と攻撃的な赤い字で記されてあるのだが、明らかに違う人がその後書き足したのだろう、黒マジックで、
「ら美味しいのをね」
と書き足してあった。
「ネコにエサをやるなら美味しいのをね」
と書き直された一文。
善意を感じた。
病室の事は一刻も忘れたかった。
俺は餓えていた。槙に餓えていた。
彼女を抱きたい。
でもなかなか抱かせてくれなかった。
喫茶モゾビーに入って「気まぐれマスターの更に気まぐれ珈琲」を二人して注文した。
砂糖を入れなかった。味の邪魔をしたくない。
苦みの中に自らを追いやると、いっそ世の中がクリアに感じられるような気がした。
会話が全く続かない。
カラオケボックス。
通信カラオケに切り替わったばかりの頃だ。
俺はシド・ヴィシャスのマイウェイとかそこら辺の曲を唄った。
立村は一切唄わなかった。
面白くないので胸を揉もうとしたら、
「やめて下さい!」
と言われて本気で拒否された。
狼の眼をしている。
とても綺麗な子なんだなと思って改めてこの子に恋した。
その時、槙は何か、重要な何かを伝えたがっている感じがした。
後々考えたらそれは気のせいじゃなかった。
はー。なんか珈琲飲んでる時だけ生きてる感じがするのはなんだ。気のせいか。
という事も最近はなくなった。
毎日が楽しい。
槙がいるから。
今日も槙とデートだ。大学の入学式を四日後に控えている。
入学したら校舎にも連れて行って見せびらかしてやろう。
サークルにも連れて行く。みんな羨ましがる。
あんな美人すごく目立ってしょうがないからな。
亀有駅に迎えに行く。
槙はもう来ていた。
今日どこ行く?と聞く前に槙がこう言い放った。
「森川くん……この前、宮嶋志保さんから電話がかかってきたんだけど」
この時点で悪い予感がした。俺は何も言えなかった。
「彼女が言ったの、あたし森川チロくんと寝ちゃった、ごめんねって。盗っちゃったって言ったの」
まだ俺は何も言えなかった。宮嶋。あの女。復讐のつもりかよ。
「何なの?」
まだだ。何も言えない。
「道具なの?私」
「いや」
「……何なの?」
「道具じゃないけど。宮嶋ちゃんと寝たのはあれだけど、そこは自由で」
「ハア?」
「や、自由って言うか自由で。そこは槙といない俺の時間だから自由って言うか。でも全然、槙と比べて全然よくなかったよ宮嶋ちゃん」
5メートルほど離れたところにバイクを停めた男がいてチラチラこちらを見ているのが少し気になった。
「認めるんですね?認めたんですね?」
「もう一人いるけどね」
「何が?」
「もう一人いるけどね」
「だ、何が?」
「もう一人。セックスフレンド。千葉さんていう子」
「……最ッッッ低」
そう言って槙は、俺が誕生日にプレゼントしたクリスタルガラスのイヤリングを両方とも耳から外して地面に強く叩きつけた。
イヤリングは簡単に粉々になった。
俺はもう何も言わない方がいいなと思った。
「分かりました森川くん……でも、これだけは言わせて下さい……あの……てめえ金魚の腐った臭いがプンプンすんだよ!自分のツラ鏡で見た事ねぇのかよ?やべーぞ!煙草と珈琲の飲みすぎで胃がやられてんぞお前!死相浮いてんぞ、浮きまくりかよ?おめえとなんか一緒に暮らすわけねえだろボケ!てかあたしが新しいビジネスやろうとすんのに金貸さねえのかよケチなゴミクズ野郎!一生死ぬまで中途半端な演劇ごっこでもしてろやボケ!チケットノルマにおびえて下卑た鼻の穴いじって病気になれ馬鹿。演劇ばっかやって将来つぶしのきかない人間になってのたれ死ね馬鹿!馬鹿じゃないの?とにかく臭ぇんだよおめえは。普段何食ってんだよおめえは?内臓全部やられてんのと違うか?近寄るな百姓。この性病野郎!へったくそなセックスしやがってよぉっ!今まで我慢してやらしてやったけどおめえの粗チンにはもうウンザリなんだよ!お前はなぁっ、あたしにとってただの迷惑なストーカーなんだよ!それ分かってねーのかよ?このボンクラ頭、下水処理部落野郎、汚物処理班!おまけにあんな行きたくもねえ病院まで連れて行きやがってキ〇ガイのババアに会わせやがってよぉっ!マザコンのオカマかてめえは?ミイラ化した母親の死骸と一緒にシミ付いた汚ねぇ布団で寝てろ馬鹿!お前もキ〇ガイか?お前キ〇ガイかよ!?アシッド臭えんだよ百姓、死ねよ!!心の無いケダモノ!死ねっ!それかお前なんか永遠にみじめったらしくジジイまで生きてこの世の地獄をとことん味わえ馬~鹿っ!」
それだけ言うと立村槙はツカツカ歩いて、さっきから話を聞いていた感じのライダースジャケットを着たハタチぐらいのバイクの男に近寄り、彼からフルフェイスのヘルメットを受け取ってバイクの後ろに乗った。
男が心配そうに言う。
「槙ちゃん、終わった?」
「うん。全部終わった。行こう」
槙を乗せたバイクはすばやく俺の前から走り去って行った。
それから俺はコンビニに寄って缶珈琲とカレーパンを買って実家の離れで何も考えずカレーパンを食べている。
涙とかいう名前の液体が出て来る気配は全くなかった。
多分もう少し先だろう。
ただ何も考えず。
アムアムと咀嚼(そしゃく)音だけが聞こえる部屋で。
巧言令色小ライス。尼僧侶。しみったれブルース。あかんたれブルース。だからこそブルース。ハサミで斬った電卓僕は音楽家。ぶっ飛ばしマンモス。小野間トペ八十九歳。半信半疑散歩道。繭スープ。スト決行中ゲバ進行中。スパイかと思ったがただの猫だった。薪能。北斗弦楽四重奏曲。鵺。合法的な磊落。天井桟敷最前列。ここから先山田の領域。真夏の夜のアレ。第三次ヨイトマケ公民権運動。不確かな確信。濁点。新内流し。涅槃出現率。敗血症ルクセンブルク。誤差。ワンダとダイヤと優しい大陸棚。それはガチャピンの腕のボツボツ。エトセトラ。エトセトラとエトセトラ。終演。終焉。俺世界バラシ作業開始。俺死にたい俺死ぬ。急げ。バラシ終了。
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