曲の母

@simaumauma

第1話

「なんかさ、中身がないんだよね。音はいいなって思うんだけど、それだけ。心に響いてくるものがないの。」

「はぁ。すみません。」

「人生経験足りてないんじゃない、君。とにかく、この曲じゃコンペ通らないから。審査始まってないけど、もう電話するのも面倒だから今言っておくね。不採用です。君の曲。」

 そう言って目の前の男は席を立った。こんなことなら電話で聞けばよかった、と思ったが、そもそも事務所での連絡を指定したのは自分だったと思い返す。今回はそれなりに時間をかけたし、手ごたえも十分あった。てっきり採用かと勘違いして、のこのこやってきた僕が悪い。突き返された楽譜のオタマジャクシが、ゆらゆらと揺れているような気がした。





 自分には感情がない、と考える時がある。どこか遠い昔に落としたのかもしれない。しかし、どこで落としたのかが分からないし、何を落としたのかも分からない。だから結局今はない、ということになる。何度目か分からない議論も結末に達したところで、目的の赤い看板が見えてきた。

パン屋ともカフェともつかないこの店は、僕が唯一ひとりで行きたいと思える店だ。パンは欲しいものを自分のトレーに載せて会計する方式で、僕はいつも最後にアイスコーヒーをつける。おなじみのパンたちを物色していると、前に並んでいる少年が何やら不穏である。

 「一度取ったものは戻しちゃいけませんよ」

僕はカツ屋のおじさんになりきって言ってみる。当の少年は、「イーッ!」と歯をむき出しにして威嚇の顔。そしてあろうことか、トングの先のアンパンを自分のパーカーのポケットにすっと入れ込んだ。俺はその出来事の意外さにあたふたして、とにかく周りを見回した。幸か不幸か、このアンパンの事情を知っているのは僕だけのようだ。

「おい、パンを出せ」

僕はこっそり少年に耳打ちする。

「いやだね。どうしようとおれの勝手だろ?」

勝手なわけあるか。こんな奴のせいで僕の行きつけがつぶれたりしたらどうしてくれるんだ。そうこうしているうちに、会計はすぐそこまで迫っていた。

「金がないなら貸してやる。だからパンをトレーに載せろ」

「イーーッだ!」

ついに彼の会計が来た。彼はトレーをレジの横に出す。と同時に、僕もトレーをその横に出した。少年がこちらを向くより早く、僕は言葉を発した。

「会計一緒でお願いします。あ、あとアイスコーヒーひとつ」

顔見知りの店員はうなづいて、パンの個数を数え始める。僕は最大限父親のふりをしながら、顔をしかめて言う。

「おい、さっきふざけてポッケに入れたアンパンも出せ」

少年は観念したようにアンパンをわしづかみにして、なぜか僕のトレーに載せる。

僕は店員に謝って、会計を済ませる。レジを操作しながら彼女は口角をあげて言った。

「お子さんいらっしゃったんですね。いつもお一人だから。」




トレーを置いて逃走しようとした少年をがっちりつかんで、カウンター席に座らせるのは一苦労だった。この席は通行人の様子が上から観察出来て、とても楽しい。しかし今は、おかしな形になった目の前のアンパンが気になって、それどころではない。僕はコーヒーをすすって、一息つこうとする。

 「いつもやってるのか?」

少年は答えない。

 「ご両親は知ってるのか?」

自分の言葉ながら、なんだか尋問のように聞こえてきた。答えない少年がドラマで見た黙秘権を押し通す容疑者に見えて、なんだかどうでもよくなってしまった。

「ああ、もういいわ。ただし、このアンパンはお前のだからな」

アンパンを隣にうつす。すると、容疑者(未遂だが)はぶつぶつ何かを言い始めた。

 「あいつら、あいつらがわるいんだ。あいつらが放っておくから…」

 「なに?いじめられてんの?」

 「ちげぇよ」

 「じゃああいつら、って誰だよ」

 「くそババアとくそじじいのことだよ。あんたが聞いてきたんだろ」

どうやら反抗期真っ最中のようだ。この時期、というのは誰にでも多少あるようだが、少なくとも僕にはあったように感じられない。

 「なんでそんなに嫌ってるんだ」

 「あいつらが家にいないからだよ。ご飯作らないし。特にじじいは最低のゴミだ。家族より仕事が好きなんだ。金だけ残して死ねばいい」

なんでも有名人の知り合いがたくさんいるらしく、その飲み会に毎日行って、帰りはいつも寝たあとらしい。

 「父親に死ねはおかしいだろ。死んだらお前はこうやって店でパンも食えなくなるぞ。」

僕はそう言ってレーズンパンに取り掛かる。これは僕の一番のお気に入りで、ほのかに香る洋酒がまたうまい。

 「父親に養ってもらってるんだろ?十分じゃん」

父親の偉大さは知っているつもりだ。特に金銭面においては。

そう、僕は知っている。いまだに偉大な作曲家であった父の金で生活している僕には痛いほどそのありがたみが分かる。そのことはこいつには黙っておこう。

 「あんたはどうなんだよ。親の事好きって言えるのかよ」

 「もちろん。胸を張って言える。」

父については僕の記憶はない。傑作と母と僕を置いて先に逝ってしまった。

 「うーわ。キンモ」

 「俺は少し音楽の才能があるらしいんだが、それは全て母のおかげだと思っている。今でも完成した楽譜を見てくれて、いつも「いい曲ね。これなら大丈夫よ」なんて褒めてくれるんだ。感謝してもしきれない」

これは本心からの言葉だ。音楽の道を歩くには相当な金がかかる。そこに僕を送り出してくれたのは、間違いなく母だった。感謝という感情は今でも示しているつもりだ。

「ちょっと待って。あんた無職なのかよ」

「音楽家っつってんだろ」

「じじいがさ、自称音楽家ってのはろくなもんじゃねぇなんていつも言ってるよ。無職と一緒だって。」

あ、ばれた。なんだかこいつ話していると調子が狂う。自分が何か違うもののようだ。ぼくは吐き捨てるように言う。

「今度この店でなんかしたらマジで警察に突き出すからな」

鳴き声を発しながら威嚇するショッカーを置いて、僕は店を後にした。





再会はすぐだった。いつものようにボロクソに言われた僕の前に、彼は現れた。

「またアンパンおごってよ、無職」

「無職って呼ぶならたかるなよ…。だいたい貸したアンパン代返すのが先だろ」

僕たちは一週間前と全く同じパンを買い、全く同じ席に座った。僕は隣でアンパンを食べる少年に、突然頼みごとをされた。

「あのさ、買い物行かない?」

「嫌だね。俺は今機嫌が悪いんだ。家に帰って仕事しないと収まりそうにない」

仕事、というよりも、ストレスをピアノに叩き込むだけではあるが。

「隣のショッピングモールだからさ。仕事より気分転換になるかもよ」

少年はいつになく真剣だ。これでは僕の方がごねているガキみたいだ。

「何も買わない、って約束なら、いいぞ」

「うっし。じゃあ行こ」

僕はせがまれるまま、残りのパンを詰め込んで、店を出る。外から隣のモールを見ると、その高さに目がくらんだ。まるで要塞のようだ。週末には家族連れであふれかえるが、今日は平日だ。立体駐車場のパネルにも、「空」の文字が光っている。僕たちは大きな自動ドアをくぐり、中へ入っていった。




モール、というのはよくできている。どんな年代層の客が来ても楽しめる店のラインナップである。コンビニにはいろいろな商品がならんでいるが、モールには色々な店そのものが並んでいる。先ほどアイスクリームを少年にも買ったが、僕も食べたかったのでノーカウントだろう。あんなに真剣にせがんでいたのはこのためか、と彼の笑顔を見て思った。

ふとだらだら歩いていると、見慣れた黒い楽器が見えてきた。その楽器屋は父の代から僕の家にピアノを卸している。彼らにとって僕は「太い客」ってやつだ。ここの店長は毎年顔写真付きの年賀状を送ってくるから、顔は知っている。

 「あ、ピアノじゃん。おっさんなんか弾いてよ。音楽家なんでしょ」

この扱いは正直慣れている。たぶん小学校から同じ扱いを受けている。展示用のピアノで何曲弾いたか分からない。たいていその時はやりのJPOPをやれば、みんなが幸せになる。この時は、とある朝ドラの主題歌を少し弾いた。店長がわざとらしく拍手している。どうやら相手も僕の顔を知っているようだ。僕はリクエスト主の顔をうかがった。

 「そうじゃなくてさ。弾いてほしいのそんな曲じゃないんだよな」

僕は彼がなぜ満足しないのかわからなかった。怒りはこういう時に起こるのだろうか。少しムキになった。指をしっかりとほぐしてから、リストのラ・カンパネラを奏でる。あの店長、意外にも商品を大切にしているようだ。指が良く沈むし、音もよく伸びる。目の前の少年はぼーっとしていて聞いているのかすら怪しいが、まあいいだろう、とも思った。音楽は自己満足の一つだ。

 「あのさ、無職じゃなかったんだな」

 預けておいたリュックを差し出しながら、少年はそう言う。

 「いや、無職だよ。ずっとな」

僕は首を振る。そう、無職だ。生まれてからずっと。僕の曲は、どんな人の琴線にも触れないし、金銭にもならない。

 「そろそろ帰るか。端から端まで歩いちまった」

 「いや、ラスト、端の店に行こうよ。あと、お願いがあるんだけど…」

僕はその後、パン屋でした少年との約束を破った。彼が毎日、ピアノの練習をしたいと言い出したからだ。しかもあの楽器屋で。店長には怪訝な顔をされたが、少年の純粋な笑顔にほだされたようだ。だから僕は、練習曲の本を買ってやった。ひいき目なしで、この本はまとまっている。また上達したら、上のレベルのを買ってやればいい。裏表紙にいる父の顔を見ながら、僕はそんなことを考えていた。

 

 




ずいぶん前のことを思い出した。少年と出会ってから一年が経っていた。席についてから開演のブザーが鳴り響くまでのこの時間は、この世で最も落ち着く時間だ。

スポットライトが光り、司会の女性を明るく照らす。あの光は相当熱い。よくあの正装で進行できると感心する。

「これから、第二十回、…」

ここからは会長や審査員の挨拶がつづく。僕は自分の教え子の緊張している姿を思い出した。


「まるで五月のプールの授業みたいだ」

「なんだよそのたとえ。いいから行ってこい。入りだけ、だぞ、考えておくことは」

「うるせぇな。プロに毎日教わって賞取れなかったらはずいだろ。やってやるよ」


僕はプロでも何でもない。今でも自分の曲が世間に出ることはないし、楽譜は毎月持って帰らされる。今日もその帰りだ。いつもは堪えるプロデューサーの暴言も、今日はこの発表会のおかげで右から左へと抜けていった。今日のコンクールは課題曲一曲のみで、少年とともにその一曲のみを練習してきた。ピアノのコンクールにおける課題曲というのは、運営が決定する十曲くらいの楽曲である。その中から発表する一曲を選べばいいわけで、それさえ究めれば一年でも形にはなる。

序盤の発表が始まっている。少年の予定している曲を演奏する者もいたが、彼とあまり差はない。ワクワクしながら何曲か聞き終えると、休憩に入った。目当ての発表者はどうやら次の部であったらしい。緊張して損した。僕は会場の外に出て、近くの椅子に座り、水を飲もうと鞄を開ける。ふと、手が滑って、さっき乱暴に詰めた楽譜が散らばってしまった。慌ててかき集める。あぁ、やってしまった。むしゃくしゃしていてファイルに入れなかったのがいけない。周りにお礼を言いながら、手にまとめて持つ。ふと顔をあげると、遠くで少年が笑っているのが見えた。

 会場から照明が消えて、再び発表が始まった。休憩後二番目だった少年は、今頃ステージのわきで震えていることだろう。僕はじっくりとその時を待つ。黒のジャケットを羽織った少年がステージに出てくる。お辞儀をし、椅子を引く。椅子の合わせ方は、教えた通りに。そして一番の課題である、入りの音に耳を澄ませる。

 「アッ」

ふと、声が漏れる。幸い、思っていたよりは響いていない。しかし、少年の音は、僕が教えた音ではなかった。ここ半年、彼を教えながら、横で作っていた曲。彼が弾いているのは、僕の曲だった。

 「おいおい」

もちろん、彼が弾いている曲は誰も知らない。審査員は裏で困惑していることだろう。会場もざわついてきた。ただ一人、僕だけは、心のなかがすぅっと晴れていくような快感を覚えていた。女装して街を歩いているような、そんな感覚だ。

 ふと、視線を手元に落とす。そうだった。今僕がつかんでいるのは、今会場に漂っている謎の曲の楽譜だ。見ながら聴くのもおもしろい、と一人考え、楽譜をめくる。

「あれ?」

今度は抑えきれていなかったのか、前列の婦人が振り返る。そんなことも気にしていられないことが、僕には起こっていた。楽譜が、僕の作った曲と違う。僕が知っているのは、今少年が弾いている曲であって、この楽譜の曲は全く別物である。こんなことがあっていいものか。しかし毎回、コンペ用の封筒に入れるときは、しっかり確認している。ふと、今日の朝した会話が浮かんできた。

 「ちょっと見せてごらん、竜成。」

母か。その事実に気づいて、僕は笑ってしまった。こんな面白いこと、笑わずにはいられない。今まで出してきたのは、勝手に母親が改変した曲だったわけだ。僕はそこで思考を止め、耳をそばだてる。ざわつきが収まったホールに、僕の曲が響き渡っている。石を彫刻刀で掘って作品が現れるように、音を出すたびに形が変わるように、一音一音力強く鍵盤をたたく彼の弾き方が、僕は好きだ。あぁこれは、僕の弾き方と似ている。だからかな。発表が終わり、少年が礼をしたとき、確かに彼がショッカーの顔をするのを、僕は誰よりも大きな拍手で応えた。






場所はいつもの、パン屋。発表会からは半年が経ち、僕は本格的に彼の講師になった。今日は二人とも珍しく、ハンバーガーを頬張っていた。

 「やっぱたまにはバーガーだよなぁ。このエビがたまらん」

 「でも手が汚れるじゃん。」

 「やかましいわ。一生アンパン食ってろお前は。」

 「それって一生奢ってくれるってこと?プロポーズ?キモイんだけど。」

僕たちはいつも通りの会話をしながら、眼下の交差点を見下ろす。いつ見てもここの景色はパンをうまくする。

 「そういえばさ、おれの親父が言ってたんだけどさ、「担当の作曲家がやっとまともな曲書くようになった。才能はあるのに怠けた音ばっかりだったけど、最近ましになってきた。こりゃ売れるな。」って。あんたもそろそろ曲作んないとやばくない?うちの親父紹介しようか?」

僕は一瞬理解が遅れた。思考が追い付いてすべてを把握したとき、僕はコーヒーを吹き出しそうになった。世界は狭いものだ。

「お前の親父に、担当にはもう少し優しく接してくれ、って言っておいて」

僕は少年の頭を小突きながらそうささやいて、レーズンパンに取り掛かった。





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