第8話 想い
「ふふ、そんなことありましたね」
知奈美はそう言ってほほえんで、懐かしそうに目を細めた。
二人で映画を観たあとなのに、映画の話題ではなく、猫の話題で盛り上がったのは、ごく普通のノラ猫が道端で丸くなっていたからだった。知奈美はその猫を見つけると、小走りするように近づいていって、頭や背中を撫でていた。優しい横顔のその姿が、小学生時代の彼女と重なって映った。
「結局、あの猫に名前つけなかったんだよな」
「そうなんですよね。なんで名前つけなかったんだろうって、すごく後悔したんですよ」
そのあと彼女からの提案で、猫を埋葬した公園に行ってみることになった。午後一番の上映が終わったばかりだったので、まだ時間は充分だった。距離もそう遠くはないが、歩くにはしんどいほどに離れているのでバスに乗った。乗客はほとんどいなかった。
「猫に触れたことがそんなに嬉しかった?」
「えっ、どうしてですか?」
「そんな顔してるよ、さっきから」
窓際の席に座った知奈美は、はにかむように笑って「違いますよ」と言った。
「わたしのこと、ちゃんと覚えててくれたんだな、って。五年も前のことなんて、普通、忘れちゃうじゃないですか」
「ああ……まあ、そうだな。他に覚えてることなんて卒業式くらいだし」
「……それって、わたしのこと、卒業式と同じくらい特別だったっていうことですか?」
知奈美は盗み見るようにこちらに目を向けながら、心なしか紅潮した頬で首を傾げた。わずかに開いた窓から入ってくる風が、彼女の長い髪を揺らしている。甘い香りが鼻をくすぐった。
「そういうことになるのかな」
俺は否定しなかった。耳たぶが次第に熱くなってくる。
「わたしのこと好きでした?」
冗談っぽい言い方ではなく、なにかを期待するような含みがその一言にはあった。
「好きっていうか……」
反射的に言いかけて、言葉に詰まった。目をそらして窓の向こうを見る。もちろんそんなところに答えは書いてない。
「そうだな、好きだったよ。あの頃はな」
語尾を強調したのは単純に照れ臭いからだった。あの頃は子供だったからとか、本当はもっと色々な言葉でフォローというかカムフラージュしたかったが、うまく言葉が出なかった。
「わたしは今でも好きです」
俺は思わず知奈美の顔を凝視した。彼女の瞳は今にも零れそうなほど潤んでいた。
突然、知奈美が身を乗り出して、その次の瞬間には目の前に彼女の閉じたまぶたがあり、唇には不思議な柔らかさがあった。
キスされている。頭が理解するのに少しかかった。
驚いて後ろに避けると、ほとんど同時に次のバス停のアナウンスが流れた。
「ごっ、ごめんなさい」
我に返ったかのように、知奈美は慌てて姿勢を戻した。膝の上で固く両手を握って、耳まで赤く染めていた。
「いや……別に……」
それくらいのことしか言えなかった。頭が熱かった。
なにも考えられなかった。今でも好きです。そしてキス。ただその唇の感触だけがはっきりと残っていた。
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