第21話 接近①

 ― 接近 ―


 信長は、高見山から敵が移動したと聞くと、手を打って喜んだ。


 万一、本隊が敗走したときの備えとして、中島砦に5百残し、残りの兵2千で出陣することとなった。広正も当然、出陣組に入ったが、政綱は砦の守備兵となった。政綱は、信長の傍で整列する広正を見た。お互い言葉は交わさなかったが、目が合うと小さく頷き合った。


勝鬨もなく、とても2千もの兵がいるとは思えない程、静かな出陣であった。兵1人1人の動きは素早く、あっという間に信長本隊は砦から姿を消した。



 砦を出た織田家老衆は、すぐに違和感を覚えた。部隊は東に進んでおり、南方の大高城とは方向が違う。信長の目的地が分からなくなった。しかし、一度動き出した兵を止めることは不可能だった。ここは、だまって信長について行くしかない。頃合いを見て、できるだけ被害を少なく撤退する方法を模索していた。


 加えて、もう1つ違和感があった。ただの山道にしては、非常に行軍しやすく、軍馬でも問題なく進むことができたのである。


 信長の兵法の要は速度であった。これまで、信長は数に勝る相手と幾度となく戦い、勝利を収めてきた。小が大を制す為に、もっとも重要視していたのが、行軍速度である。その為に、兵の鍛錬はもちろん、道の整備も積極的に行ってきた。


 桶狭間山までの隠れ山道も、もちろん事前に広正へ命じ、秘密裏に整備させていた。それにより驚異的な速度で行軍が可能となっていた。信長本隊は、まさに風のように速く走り、まわりの草木と同化しているかのように静かだった。

 そして見事、今川軍に気づかれることなく、桶狭間山の麓近くまで一気に接近すると、いったん行軍を止めた。あまりの早さのため、信長が砦を出たとの報告も、義元にはまだ届いていなかった。


 家臣達は、目前の山の中腹から山頂にかけて陣取る部隊が、何者か分からなかった。木々の隙間から注意深く見ると、義元本陣の旗印が見えた。


『まさか、敵本陣?』


 誰しもが目を疑った。敵に気付かれることなく、こんな間近まで、よりによって敵本陣に接近できるわけがなかった。何が起こったのか分からず、神隠しに合ったか、狐につままれたかのような気分だった。


 ともかく、ここで不意を突けば、今川軍に一泡吹かせられる。敵大将を目の前にして、奮い立たない武士はいなかった。そして家臣たちは、改めて中島砦の信長の演説を思い出した。


『分捕りはするな。そのままにしておけ』


 すなわち、狙うは義元の首1つということだったのだ。もし大将首を獲れば、名誉と恩賞は思いのままである。信長本隊の士気は、否応にも上がった。



 馬上の信長は、家臣たちの目の色を確認すると、突撃の合図を出すため、大きく息を吸った。

 その時、唐突に下から広正の声がした。


「信長様お待ちを! もうすぐ大雨が来ます!」


 信長は、吸った息を飲み込み、天を仰ぐと、頬に一滴の雨粒が落ちた。

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