第4話 桶狭間②

 広正の屋敷は桶狭間の北外れにあった。当主である父、簗田政綱は若い時に、その小さな屋敷へ移り住んだ。


 元来、欲のない性格で、面倒見も良かった。そのうち周囲の土豪の信頼を得ると、まとめ役のようなことをする程にもなったが、相変わらず屋敷は小さいままであった。このあたりの土豪も百姓も度重なる戦のため、皆貧しい生活を強いられていたのである。


 また、政綱には兄がおり、名を簗田弥次右衛門と言った。


 弥次右衛門は、尾張の守護(将軍足利家より地域の支配権を任命された大名。戦国時代には形骸化していた)である斯波氏に仕えていた。下男ではあったが、学を好み、兵法を独学で学んでいた。


 その甲斐あってか、尾張の居城である清州城を信長が手に入れる際、策をもって大きく貢献し、九之坪城主となる大出世を果たしていた。そもそも、信長が家督を継いだ織田弾正忠家は織田本家ではなく、尾張全土を掌握しているわけではなかった。信長が清州城を手に入れることで、やっと悲願である尾張統一を、ほぼ達成したと言ってよかった。


 広正は、そのような活躍を見せた伯父である弥次右衛門を尊敬しており、しばしば九之坪城に通っては、兵法を学んでいた。広正の土豪でありながら感じられる知性は、このおかげかも知れない。



 広正が屋敷の前まで帰ると、見知らぬ武士が馬で去っていくのが見えた。門では、無精ひげを生やした政綱が、頭を掻きながら目を丸くしている。


「おぅ、帰ったか」


「いまのは?」


 広正は馬上の武士が去っていく方を目で追った。


「信長様の使いだ。もうすぐ、ここへお見えになるそうだ」


「信長様が?ここに来る?」


 首を傾げて考えたが、理由は皆目、見当がつかなかった。広正は、伯父のつてで、信長に何度か会ったことがあった。歳は広正と左程変わらないが、確固とした意志を鋭い目から感じられたのを覚えている。しかし、会話を交わしたことは無かった。


 ともかく考えてもらちがあかない。政綱は妻に屋敷の片づけを任せると、広正と一緒に門前で待つことにした。



 暫くすると、馬を急き立てる大きな声が聞こえた。


「間違いない、信長様だ。本当に来られた…」


 信長の声は大きく、良く通る声で知らされていた。そのため、遠くにいても確信できたのである。


 広正と政綱は、頭を下げたまま待った。すると間もなく、目の前に馬の足が現れたかと思うと、その足が止まらぬうちに大声が降ってきた。


「そう畏まらなくて良い! 顔を上げよ!」


 見上げると、馬上にその姿はあった。


 髪は伸ばし放題のまま、後ろに括り、上半身は褐色の肌がむき出し、袴は丈の短い半袴だった。だらしのない恰好とは反対に、周囲を圧倒する威圧感は相当なものだったが、このとき信長は、まだ26歳の若者であった。

共の者は見当たらず、1人で来たようだった。


 信長は、馬を降りることなく話を続けた。


「弥次右衛門の弟と言うのはお前か。弥次右衛門から聞いたぞ。この辺り一帯に明るいそうだな」


「はあ、桶狭間は庭のようなものなれば」


「では、地図を作れ。できるだけ詳しくな。また来る!」


 信長は馬を反転させると、そのまま走り去ろうとしたため、広正は慌てて止めた。


「信長様お待ちを!もうすぐ大雨が来ます。何もありませんが中でお休みください」


「弥次右衛門の甥だな。覚えているぞ。気遣いには及ばん。雨もまた良し!」


 背を向けたまま、そう答えると、山の向こうまで届きそうな掛け声とともに馬を蹴り、あっという間に姿を消した。


 まさに嵐のようだった。広正は、まだ頭の整理が追いつかない。ほとんど接点のない自分を覚えていてくれたことに驚いたが、何よりも嬉しかった。そして、家臣を大事にする信長らしいとも感じていた。



 呆然とする簗田親子を後にし、信長は居城である清州城へ馬を走らせていた。ふいに、大きな雨粒が頬に当たったかと思うと、滝のような大雨が視界を遮断した。


『これ程とは。簗田の屋敷で待つべきだったか』


 馬を止め、勢いが収まるまで、雨に打たれるしかなかった。若干の後悔はあったが、新しい発見に口元が緩んでいた。

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