第2話 まえがき②

 ・なぜ、今川義元は尾張を攻めたのか


 一昔前は、京都への上洛が目的と言うのが定説であったが、現在では否定されている。食料不足による領土拡大政策、伊勢湾商業圏の獲得、尾張そのものの併合など諸説がある。


 しかし、今川義元は尾張に侵攻するため、息子に家督を譲り、1年もの間準備に集中し、国力の限界まで徴兵して大群を動かしたのである。そうまでして、成し遂げたかった本当の目的とは何だったのだろうか。



 ・今川義元は油断をしていたのか


 義元は大軍に慢心し、油断していたとの説もある。


 しかし、海道一の弓取り(東海道一の武将:当時、弓矢は武士の象徴であった)とまで言われた武将である。信長の奇襲を、まったく想定していなかったのだろうか。


 さらに前述の通り、尾張侵攻には並々ならぬ執念を感じる。その義元が油断をするだろうか。油断をしていないとすれば、なぜ本陣の兵を少なくしたのだろうか。



 ・正面攻撃か、迂回による奇襲か


 信長は見事、義元本陣の襲撃に成功するが、その進撃ルートに関しても、諸説あり度々議論になる。


 以前は、迂回奇襲説が定説であった。信長は進軍の際、大きく迂回して義元本陣の側面を突き、奇襲に成功したという説だ。


 しかし、迂回する程の時間は無かったと考えられ、現在では正面攻撃の説が有力となっている。仮に正面からの攻撃であれば、倍以上ある義元本陣を、瞬く間に突き崩せただろうか。少しでももたつけば、周囲から援軍が到着し、囲まれてしまっただろう。



 ・信長の勝利は雨に助けられた幸運だったのか


 合戦当日、大雨が降った。そのおかげで信長は義元本陣に気づかれることなく接近し、奇襲が成功したとの説もある。


 しかし、信長が絶体絶命の戦いに、降るかどうかも分からない雨を頼りにした、場当たりの作戦しか用意しなかったのだろうか。義元が攻めてくることは、かなり前から分かっていた。戦に備える時間は十分にあったはずである。


 信長は、祖父と父が成しえなかった尾張統一を若くして実現し、その後天下統一の礎を築いた程の人物である。運任せの作戦のみで戦いに望むとは考えにくい。



 ・簗田政綱とは何者だったのか。なぜ、一番手柄だったのか。


 合戦後、政綱には沓掛城が与えられた。それは、義元の首を取った毛利新介を凌ぐ破格の恩賞と言える。


 しかし、信長公記には、政綱が何をしたのか一切の記述がない。しかも、それ程の活躍をする有能な武将にもかかわらず、桶狭間の戦い以後、政綱の名前は歴史の表舞台には出てこないのである。


 まさにこの戦いの中で、もっとも謎に包まれた人物と言える。



 これらの謎について、物語の中で答えを見つけていきたいと思う。なお、本書は、信長公記に記載されている内容に忠実に沿いながら、足らない部分を補う形で物語を進めていく。

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