この名前を英語にしてくれないか?
自分のデスクで資料を整理していると、先輩が嬉々とした顔でこちらに歩いてきた。彼はいつも僕が帰国子女であることを理由に英語関係の疑問を投げてくる。今日もその類だろう、と直感的に察していた。
「君、この名前を英語にして欲しいんだけど」
「名前を英語に、ですか」
名前を英語にする、という言い方に違和感を抱いた。どちらかというと、英字で書き写してくれということなのだろう。
先輩は頷いた。
「今度の企画会議の発表者が、社会部の山田太郎君で彼の名前を英語にして欲しいんだ」
「社内の企画会議でしたら、日本語で良いのでは?」
先輩は分かっていないなあというオーラを出しながら、首を横に振った。
「それでは社会部の
「はい?」
「だから、
「良くわからないんですけど、とりあえず名前を英語にすれば良いんですね?」
先輩は頷いた後に、怪訝そうな顔で僕を凝視した。
「君、本当に帰国子女かい? これくらいの
「あぁ、えーっと、はい、もうちょっと勉強します」
ちなみに僕が幼少期に居たのはロシアだ。だから、僕も本来は英語が得意なわけじゃない。インターナショナルスクールに通ったわけでもないからだ。勉強は13歳まで現地校と日本人学校で受けた。だから、ロシア語の方が直感的に分かる。
マウントを取って、満足げな先輩をよそに僕はデスクの上にある広幅付箋を一枚とって、ボールペンで「Tarou Yamada」と書く。そして、それを先輩に渡した。
しかし、先輩はそれを僕の肩に貼ってきた。腕を組んで不満げなご様子だ。
「違うよ、私は英語にしてくれって言ったんだ」
「えっと、ちゃんと姓名の順は逆にしましたけど」
「それだけじゃ、英語にはなってないだろう?」
「あの、確認したいんですけど、ラテン文字に転写してくれっていうことですよね?」
先輩は後頭部を掻きながら、「あー」と腑抜けた声を出した。あくびをしながら。
「そういう難しいのは良く分かんないから、とりあえず英語にしてよ」
「はぁ、分かりました。それじゃあ」
僕は付箋をもう一枚取る。それにボールペンで今度は「
「なにこれ? 良くわかんないからもっと分かりやすいのにしてよ」
「分かりやすいの、って何ですか」
「ディス・イズ・ア・ペンみたいな誰にでも分かるやつをさ」
「じゃあ、日本語を使えばいいじゃないですか」
「君さあ、話がわからない人だねえ。それだと、社会部のプレゼンスが――」
「あーもう、良いです!」
僕は三枚目の付箋を取った。少し苛立っていたこともあって、力んで付箋の端にしわが付く。そこにボールペンで「John Felderberg」と書き込む。「john」はありがちな名前、Felderは畑、Bergは良く分からないけどアメリカ人の苗字に良くついている奴だ。
半ばやけくそで書いた名前を先輩に突き出す。すると、それを見た先輩の表情は先程までの悩ましげなものから、明るいものへと変わった。
「そうだよ、これこれ! やれば出来るんじゃないか!」
「えっ」
「ありがとうね! 助かったよ、これで
「えぇぇ」
先輩は嬉々として付箋をポケットに入れると何処かへ去っていった。ただそこには静寂だけがあって、僕は一体何が何なのか良くわからなくなってしまった。
数日後、社会部の山田太郎君の企画会議が大成功を収めたことで僕の頭が更に混乱したことは言うまでもない。
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