第4話


 彩峰凛は基本的に早起きだ。だが今日は大学初日ということもあり、いつもよりさらに早く目が覚めてしまった。枕元に置かれた木目調のデジタル時計の時刻は日の出間もない午前5時35分を指していた。カーテン越しに薄らと陽の光が見え隠れしている。


 アラームを設定した時間より大分早い目覚めだ。やはり初日ということで緊張があるのだろうか。

 何気なくスマホを開くと朝のネットニュースに並ぶのは芸能人の結婚報道だったり、事件事故といった有り触れた内容だ。


 スマホに映し出される幸福も不幸も、凛との関わりは薄く、特に気にも留めることなく指先一つで流れていく。それでお終いだ。


 大事なのは世界の行く末より己の行く末。今、凛にとって最も重要なのは数時間後に控えた新入生ガイダンスであり、大学初日なのだ。


 早起きしたからといってあまりもたもたしていると二度寝という甘い誘惑に囚われ、夢の国へと逆戻りする可能性があるので、完全に覚醒するためにもシャワーでも浴びるかと衣装ケースから着替えとバスタオルを取り出し、それらを片手に浴室へと向かった。


◇◇◇


 凛の住む部屋は八畳の洋間が2部屋とリビングダイニングにキッチンがつき、トイレと風呂は別。脱衣場もあり、なんと独立洗面台付きの2LDK。一人暮らしの物件としてはこの上ない好条件だ。

 元々ルームシェア向けの物件で本来二人で使う間取りに一人というわけだ。前の住人が越して行ってから中々入居者が決まらず、オーナーさんの意向で一人暮らし用として入居者募集をした結果、部屋を探す綾峰親子の目に止まった。


 オーナーさんからは友達とか彼女とか入居希望者が居たら是非連れてきてほしいと頼まれている。そのときは家賃も安くしてくれるそうだ。

 今のところ、あてはないが。心の隅に留めておく。

 ルームシェア───女の子との同棲または共同生活には憧れがある。             

 

 とにかく、まだ住み始めたばかりの家は引越しが完了して間もないため、まだいくつか開けていないダンボールが転がっており、家具などもあまりなく閑散とした印象となっていた。これから揃えなければならないものもあるだろうし、欲しいものも出てくるだろう。

 家賃や大学費用だけでなく、家具や生活雑貨の追加のために安くない仕送りをしてくれる両親には感謝しなければならない。


 凛の父はカメラマン、母は大学の研究員として共に忙しく、なかなか家族で過ごしたという記憶は少ないが、凛の希望は極力叶えてくれる優しい両親だと思っている。


 両親共にやりたいことに生きているタイプの人たちなので、常々好きなことを一つでいいから見つけなさいと教えられ、育てられてきた。

 これだと胸を張れることはまだないが、今日はそんな好きを見つけるための第一歩となる予定だ。緊張もするし、気合いも入るというものである。


 シャワーを浴び、スマホを確認すると6時を過ぎたあたり。ガイダンスが始まるのは9時なので、余裕を見て7時半には家を出たいと思いつつ、冷蔵庫から取り出したペットボトルの水を一気に喉へと流し込む。渇いた身体に染み渡る感覚にふうと小さく息が漏れる。


 「教科書なんかも買わないとな。あとは必修以外の授業も選んで、時間割も決めないと。時雨は……あんまり当てにならな気がするから、スミにでも聞いてみるか」


 時雨には悪いが、先輩で幼馴染の菫の方が頼りになる。

 凛はやらなければならないことを指折り数え、必要な事柄を頭の中で確認していく。


 外では車の行き交う音や鳥のさえずりが響きはじめていた。人々が起き出し、動き始める音。本格的な一日の始まりを告げる朝の喧騒が凛の耳にも届き始めていた。


◇◇◇


 割と余裕を持って家を出たはずだが通勤通学時間と重なり、最寄り駅である白崎駅はなかなかの混み具合である。白崎駅はさほど大きい駅ではないのだが、翔陽大学やその附属中高が近くにあるため利用客は多い。


 それに伴い、この時間はやはり混雑する。凛もまたスマホ片手に大学方面へと向かう電車を駅のホームで待っていた。


 一限目などがある時は一駅だけなので歩くか、自転車を買って通学したほうが楽かもしれない。通学方法についてあれこれ思案しているうちにバイク通学を思い浮かべた途端、昨日の出雲とのドライブの光景がよみがえってきたせいで少し頬が熱くなる。

 昨日の自分はオトメ的なポジションで、出雲がイケメンすぎた。理想は逆だが。


 「バイトしてバイク買うか……」


 凛の独り言はホームへと進入してきた電車の音によってかき消され、誰の耳にも届くことはなかった。


◇◇◇


 大学に着く前に朝食でも買おうかとコンビニに立ち寄るとやはり混んでいる。学生にサラリーマン、さらにはよく分からないおっさんと店内は賑わっていた。

 人を掻き分け、なんとかサンドイッチ1つにコーヒーのボトルを確保してレジへと向かう。やはりというべきか2本のレジがフル稼働しているにもかかわらず、各レジに5人前後の列が出来ていた。今日はかなり余裕を持って家を出たからいいが、普段は厳しいなと思いつつ列に並ぶ。会計を済ませたころには8時を回っていた。


 大学に近づくにつれ、おなじ新入生であろう姿が見え始める。眠そうな者、緊張してそわそわする者、友達と談笑する者など、色々だが一様に表情は明るい。恋に勉強にと新生活のスタートにみなそれなりの希望を抱いているであろうことが伺い知れた。


 社会学部のガイダンスは学部棟の大教室で行われる予定だ。大教室は学部A棟の1階にあるらしく、すでに人が集まりつつあった。

 教室中央後方に席を確保した凛は、事前に配布されている資料に軽く目を通しておくことにした。


 ガイダンスでは大学に通う上での基礎的なことを説明してくれる。大学生活とはみたいなことから、必修科目や専門科目などについてや履修登録の方法についてなど具体的なことまでだ。


 そんなガイダンスのガイダンスのような内容を見ていると、誰かに肩を叩かれた。顔を上げるとそこには昨日、初めて出会い、行動を共にした加藤時雨の姿があった。


 軽くのつもりがつい資料に夢中になってしまったらしい。いつの間にか隣りに陣取っていた時雨にまったく気づかなかったのだ。


 「おっす。昨日ぶり。ちゃんと来て偉いな。うん」

 「おーす。よく遅刻しなかったな。いや、来ないかと」

 「まぁ、余裕」


 たった一日の付き合いのはずだが互いに自然とウマが合う。あいさつ代わりの軽口を叩き合い、他愛もないやり取りを繰り広げているうちに白髪混じりの50代くらいだろうの男性が姿を見せた。

 このガイダンスを進行する教諭らしい。騒がしかった新入生たちの視線が自然とその男性教諭に集まり、静かになっていく教室。社会学部新入生ガイダンスは時間通り開始された。


◇◇◇


 ガイダンスはつつがなく終了し、時間は昼へとさしかかろうかというところか。大教室を後にした凛と時雨は昼食の相談の真っ最中だった。


 「昼はどうする?学食はまだやってないしな。どっか食べに行くか。コンビニでも行くか」


 凛には特にこだわりはなかったが、さすがに家まで戻るのは面倒なので、この辺りで済ませておきたかった。


 「なら、うちの近くに喫茶店があるんだわ。見た感じ値段も学生向けでさ。そこ行ってみね?」


 確かに学生向けに商売してるお店なら値段も高すぎるということもない。まだこの辺りの地理に明るくない凛は、時雨の提案に乗ることにした。


 歩いて1、2分というところか。 辿り着いた喫茶店の看板には「カフェレストランmiya」とあった。

 白く塗られた外壁の所々に見え隠れするレンガ調のサイディング。そして緑化の一環だろうか。外壁を這うように絡みついているアイビーがレンガと相性がいいのだ。カフェの外観だけでもポイントである。

 扉にはOPENの文字がある。扉を開けるとまず目を引くのは廃材を利用して作られたであろうカウンター。所々に配置された観葉植物に、天井に設置されたシーリングファン。落ち着いた空間づくりがされ、何とも居心地が良い。

 ランチでもデートでも普段とは違った時間を過ごすのに最適なお店だ。


 店に入るとロマンスグレーといった雰囲気の五十くらいのマスターが笑顔で声をかけてくれた。


 「いらっしゃい。お好きな席へどうぞ」

 「カウンターでいいよな?」

 「あぁ」


 凛と時雨は促されるままに空いているカウンターに腰かけた。

 するとレモンの香りが爽やかなレモン水が2人分グラスに注がれ、おしぼりと一緒に2人の前に置かれた。


 凛と時雨以外にはまだ誰もいなく、聴こえてくるのはマスターの足音とゆったりと流れるカフェミュージックだけだ。


 「こちらが今日のランチメニューです。決まったら声をかけてください」

 「ありがとうございます」

 「あざっす」


 笑顔でメニューを手渡してくれたマスターにお礼を言って、二人はメニューを開く。

 どうやらこのお店はイタリアンがメインらしい。パスタやドリア、ピザなど定番的なものが並んでいた。


 今日のおすすめは魚介メインのペスカトーレとボンゴレ・ビンゴだ。

 他にもナスとひき肉をメインに唐辛子の効いたアラビアータ。

 チーズとベーコンを黒胡椒で仕上げたシンプルなカルボナーラ。


 メニューに載る料理の写真はどれも美味しそうで目移りしてしまう。値段は780円から900円くらい。学生の懐にも優しい良心的な価格設定にマスターの愛を感じる。


 「時雨は決まった?俺はおすすめのペスカトーレにしてみるわ」

 「うーん、悩むな。カルボナーラもアラビアータも美味そうだし」


 時雨はかなり悩んでいた。その気持ちは十二分に理解できた。本当にどれも食べてみたくなるのだ。密かに通うことを心に決めた凛はスマホをいじりながら時雨が決まるのを待つ。


 「決まった。すみません。注文お願いします」

 

 悩み抜いた末に時雨が選んだのはカルボナーラだった。食後のコーヒーと共にそれぞれ注文を済ませてからメニューをマスターに渡すとにこやかにそれを受け取り、料理のために奥へと去っていく。

 その背中を視線で見送りながらレモン水の入ったグラスに口をつけると爽やかな清涼感が口いっぱいに広がり、鼻へと抜けていく。

 一息ついて店の雰囲気に浸り、二人が暫し無言の時間が流れていくのを楽しんでいると

 厨房の方から何とも食欲をそそる良い匂いが漂い始めたではないか。きっと料理が完成したのだろう。そう思っていると案の定、マスターが料理を持って奥から戻ってきた。


 まず出てきたのは凛の注文したペスカトーレだ。まず驚いたのは量だ。目の前に出されたパスタは1.5人前くらいはある。まだまだ食べ盛りの男子にとって安くて、量が多いというのはこの上ない喜びだ。イカやエビといった魚介とパスタが真っ赤なトマトソースを纏い、これでもかと旨み成分を放出している。トマトと魚介の香りが脳天に突き刺さる。


 時雨のカルボナーラもまた、間もなく運ばれて来た。カリカリに焼かれたベーコンとパスタに絶妙に絡むチーズに、真ん中を飾る半熟卵。それはもうカロリーの暴力に他ならない。他ならないが、何するものぞ。食べ盛りの10代男たるものカロリーなどに屈しはしないのだ。

 時雨はお好みで使うパルミジャーノを豪快にかけていく。正解だ。元々のチーズにプラスされたパルミジャーノが一気にテンションを上げていく。

 我慢の限界とばかりに二人はフォークを手にとり、一気にパスタを巻きとると口に放り込んだ。


「「うっまー」」


 もう声を出さずにはいられなかった。

 暴力的なのはカロリーだけではなかった。ふたり共々、一口、また一口と口に運ぶ度に広がるパスタの複雑な旨味に夢中になっていく。

 音を立てて食べるのは本来、マナー違反だが今はそんなことを気にしていられない。ただただ、一心不乱にそれぞれのパスタを味わい尽くすのに注力する。時折レモン水を口に含み、味をリセットしながら何度もだ。

 味について互いに語るのは後でもできる。

 今はただ出された料理を楽しんでいたかった。正直、ここまで本格的なイタリアンを学生向けのお店で楽しむことができるとは思っていなかった。

 

 ひたすらにパスタを頬張る二人。

 それを眺めるマスターの目には自分自身への料理への絶対的自信が垣間見えた。

 美味しくて当然という自信だ。

 気づけば大盛りのパスタはあっという間に消えてなくなっていた。

 

 ランチを堪能した凛と時雨は、食後のエスプレッソコーヒーを味わいながら、絶対にまた来ようと誓い合った。美味い、安い、オシャレと三拍子揃った喫茶店miyaに。


 イタリアンがメインなだけにコーヒーも本格的なエスプレッソだ。非常に濃く、奥深い。イタリアでコーヒーといえばエスプレッソなのだとマスターが教えてくれた。

 コーヒーといえば缶コーヒーとインスタントしか飲んだことのない凛たちにはコーヒー豆から焙煎するという手間をかけたコーヒーはとても新鮮だ。豆の種類や焙煎方法など奥が深いが、まだまだ若い二人には未知の世界なのだ。


 そんな素人の凛たちでも今、口にしている香り高いコーヒーが美味いと感じることはできる。苦味と酸味の調和が舌を楽しませ、食後の蕩けた感覚を引き締め、脳を覚醒させてくれる。


 「ふ〜、満足。夜は賢人会の新歓にいくだろ?」

 「あぁ、行くよ。せっかく入ったんだからな。そりゃ行くとも」


 夜には昨日参加を決めた賢人会なる奇妙なサークルの新人歓迎会が予定されている。サークルの先輩たちとはすでに顔合わせをしているので、それほど緊張することもないだろう。


 「しかし、賢人会は異常に女子のレベルが高いよな。優亜先輩も菫先輩も可愛かったし、鷹藤先輩も美人。おまけに彼方ちゃんだろ」

 「勝ち組ってか?先輩たちも彼方さんもあんな美人なんだから男もよりどりみどりだろ。彼氏の1人や2人いると思うけどな」

 「それなー。まぁ外見も大事だが、中身が伴わないと上手くはいかないわけだが……」


 遠い目をした時雨はコーヒーを一気に煽った。

 まだまだ短い付き合いだが、いつもの調子と異なることくらいは分かる。何か女性関係における苦い経験があるのかもしれない。


 確かに美人な先輩や同学年の娘と早々に知り合えた点では運がいいかも知れない 。男たちが放ってはおくわけがない。あんなに可愛いのに彼氏がいない方が不自然なくらいだ。

 凛も菫との再会には運命を感じたし出雲との出会いに甘酸っぱい展開を期待をしなかったわけではない。


 「これから賢人会の誰かといい感じになれるかもしれないぞ。賢人会以外にも出会いはあるだろ。同級生もいるしな」


 時雨の言う通り、出会いは増えていく。

 同じ学部の娘や他学部の娘とも授業で一緒になるだろうし、これからバイトもきっとすることになる。自ずと人の輪は広がっていく。積極的に多くの人と交流を持つことができるかは、人付き合いが苦手な凛にとっては課題だ。


 「そろそろ行くか」


 至福の時間を提供してくれたマスターにお礼を言ってお会計を済ませるとマスターの笑顔に見送られ、カフェレストランmiya を後にした。

 

 大学に戻る道すがら、ふたりは、「カフェレストランmiya 」の話で盛り上がっていた。

 二人をもてなしてくれたマスターの心遣いは本物だ。多くの学生を相手に商売をしているのだろう。次に来店しても顔を覚えてくれているとは限らない。それでもきっと凛も時雨もこの店に通うだろう。1人でも2人でもはたまた別の友人や先輩とでも。

 

 「また来ようぜ!」

 「あぁ。一緒に来よう」


 良い出会いがさらに良い出会いを呼ぶのだなと凛はニカッと笑う時雨を見る。

 単なるランチの約束なのに、凛にはとても尊いものに感じられた。


◇◇◇


 夜まで特にやることもなかったが、時雨は一旦家に帰ると言うので途中で別れた。思いのほか長居をしてしまったようで、もう午後2時にさしかかろうかという時刻。


 どうしようかな。一旦俺も帰るか。と悩みながら、とりあえず大学方向に歩いていくと、ちらほら学生の姿がある。他の学部もガイダンスをやっていたはずなので、そのあとも残っていた生徒たちなのだろう。

 早いところは部活動やサークル活動をはじめているのかもしれない。


 そんな生徒たちの姿を横目に通り過ぎていくと、ポケットの中のスマホが鳴った。


 立ち止まり、スマホを確認すると菫からで今日の新歓に関する内容が送られてきていた。


 「今日の新歓は6時から大学駅近くのお店でやるよ。1年生の参加費は二千円です」


 メッセージとともにお店の情報を記載したURLが添付されていた。菫が歓迎会の幹事なのだろうか。それとも、幼なじみだからと連絡を頼まれたのかもしれない。


 「了解、連絡ありがとう。楽しみにしています」


 簡単に返信しておくとまたメッセージが届いた。今回のメッセージは私的なものだった。


 「りんりんの家ってどこらへん?私は白崎なんだけど。出来きたら新歓前に少し話したいなって。すっごい、久しぶりに会ったのに昨日はあんまり話せなかったから」


 「俺も白崎だよ。それなら白崎駅で待ち合わせしようか。何時位がいい?」


 今度は少し返信までに時間がかかっているらしい。一度スマホをしまい、駅へとまた歩き出す。


 桜舞い散る大学前の道。幼なじみとのやり取りに刺激されたのか、懐かしい気持ちになる。

 菫とは小学校以来だが、よく気づいたものだ。凛は小柄だが小学生のときよりは、背も伸びているし、声や体型も変わっている。実際、凛の方は菫が名乗るまで気づかなかった。よく一緒に遊び、風呂を共にしたこともある。あのやんちゃな少女があんな美人になっているとは、ましてや再開するなど夢にも思わなかった。


 そんなふうに時間の流れを感じていると駅に丁度着いたタイミングで菫からの返信が届く。小刻みに震えるスマホを取り出し、メッセージを確認すると待ち合わせ時間が書かれていた。


 「午後4時でどうかな。これから準備するから。大丈夫?」

 「了解。4時に白崎駅ね。一人でお店いくよりも菫が一緒の方が緊張しなくて済むから誘ってくれて助かったよ。ありがとう」

 「どういたしまして!じゃあまた後でね!」


 菫との待ち合わせ場所と時間が白崎駅に決まったので、一旦帰宅して家で時間までゆっくりすることに決めた。

 駅のホームは混むにはまだ早く、閑散としている。朝とは打って変わってホームで電車を待つ人の数は疎らだった。おそらく夜もう一度来る頃には帰宅時間と被るのでそこそこ混んでいるのだろう。


 ホームに響く電車の到着を知らせるアナウンス。凛は帰路に着いた。


◇◇◇


 菫はいつになく上機嫌だ。鼻歌交じりにシャワーを浴び、久しぶりに再会した幼なじみとの約束を思い返す。懐かしい記憶が込み上げ、はやる気持ちが全身から滲み出ていた。


昔は一緒にお風呂入ったな。今はさすがに無理かな。


 昔より女性らしく変化した身体。時が経ち、関係がどう変化しているのかをまだまだ正しく判断できていない。

 昔のように仲良く出来るのだろうか。

 失われた時間を埋めることができるのか。

 それだけがちょっぴり不安だった。


 「ふへへ」


 だが昼間の再開のことを思い出すと自然と頬が緩む。先程までの小さな不安など嘘のように霧散し、だらしない声が漏れ出てくる。


 菫は年齢こそ凛の一つ上だが、お互い家が近所で親同士の付き合いがあったため、よく一緒に遊んでいた。凛は大人しく、菫が引っ張っていくのがお決まりのパターンだ。兄弟のいない菫にとって凛は可愛い弟であり、初めて仲良くなった同年代の男の子。思春期を迎える前ということもあり、何も気兼ねなく遊べる友達の凛。いつも菫の傍には凛がいてくれた。

 親の仕事の都合で引っ越してからは関係が途絶えてしまったものの、菫は決して彩峰凛という少年のことを忘れることはなかった。


 入学式の日。大きく成長していても、ベンチに座る男の子がずっと一緒だった幼なじみだとすぐにわかった。すぐに懐かしさが心の底から込み上げてきた。

 自分でもちょっと可笑しいと思うが、運命的なものを感じずにはいられなかった。偶然が重なっただけだとしてもだ。

 忘れられていたらと、一瞬思いはしたが声をかけることに躊躇いはなかった。

 そして思った通り、幼なじみのりんりんは昔のようにスミと呼んでくれたのだ。

 まさか同じ学部の後輩で、同じサークルというのはさすがに予想できなかったが。再開は言葉で上手く表現できないくらい嬉しくてたまらなかった。


 そんな幼馴染と二人きりで久々に会う約束をとりつけたのだ。

 身支度には、いつも以上に気合が入る。

 フローラルな香り漂うお気に入りのボディソープでいつもよりも念入りに時間をかけて身体を洗い清めていく。

 昔よりも大分落ち着き、女の子らしくなったと自分では思っている。今の自分を見て凛はどう思うだろうか。

 想像するとやっぱり恥ずかしい。それでも乙女たるもの準備を怠るわけにはいかない。


 身体の次は髪だ。シャンプー、トリートメント、コンディショナーの順番に丁寧に洗っていく。

 シャンプーで汚れや余分な油分や皮脂を洗い流し、トリートメントは髪の毛1本1本に染み込ませるように指で梳く。最後にコンディショナーで髪の毛の表面を艶やかに保っていく。

 しっかりと洗い流すと水を含んだライトブラウンの髪が光を反射しててらてらと輝いてみえる。

 髪を洗い終えるとシャワーで身体を流し、シアバター入り保湿効果抜群の入浴剤を入れた乳白色に染まる湯船にゆっくりと身を沈めていく。

 程よい熱に包まれてじわりと疲れがお湯に溶けていく。

 安らぎの一時に漏れる吐息。

 浴室に響くハミング。弾むメロディー。

 口ずさんだのは桜舞う春模様を切り取った美しく色褪せない名曲で菫が大好きな曲だった。

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