これが僕らの青春です。
一二三楓
第1話
青春──────。
それは心とか魂とか、そういったものに宿る目に見えない熱量を表すのだろう。そんな仮想の熱が僕らを突き動かす。
『もしも、あの時もっとうまく出来ていたら』
そんな言葉が頭をよぎるときがある。
過ぎ去りし日々を思い、新たな焔が灯るのをただひたすらに待ち続けていた。
暦は春。
春の彩りを見るのが好きだ。澄み渡る空の色。彩り豊かな装いに身を包む人。冬に溜め込んだ灰色を振り払う軽やかな足音。跳ね回る色が視界を満たし、鮮やかに世界を彩る。
ある者は淡い期待を胸に、ある者は穏やかな日々を祈り、誰もが不安と希望が綯い交ぜになった奇妙な感覚を抱えながら挑む新生活。
かくいう自分もまた、新たな一歩を踏み出すことになるわけだ。特に感慨深いということもないのだが、あえて期待を持つのも悪くはない。そんな気分にさせる桜並木が目の前につづいていた。
桜舞い散る道を進んだ先に見えてくる
今日は私立翔陽学院大学の入学式である。
電車と徒歩で片道30分ほどの通学路。入学式に遅刻というのは些かというかかなり洒落にならないと早めの登校を選択したわけだが、電車、通学路、どちらも学生の姿はまだ疎らな時間帯だ。
早々と登校する新入生の顔は希望に満ち溢れている。眩しいと感じるくらいだ。だが、他の生徒から見たら今の状況だと凛もまた希望に満ち溢れたうちの一人に映るだろう。
だが凛自身は何事も時間厳守な優等生タイプというわけではない。環境の変化に特別希望を抱くタイプでもない。穏やかな日常を謳歌できればそれで構わないのだ。
「はぁ、早く着き過ぎたな。もっとゆっくり、くるべきだった」
早く着きすぎたことに後悔しながら入学祝いにともらった真新しい腕時計に目をやると、短針はを8の手前を、長針は6と12の間を指し示していた。まだ、8時にもなっていたいではないか。人波が疎らなわけだ。
入学式の開始は9時。会場である講堂に入れるのは8時半からだったという多少曖昧な記憶を辿りながら、掲示板の案内を確認する。
割と方向音痴だという自覚があるため、校内の地図を事前にみることができるのはありがたかった。早く着いた恩恵がこれだけというのもどうかと思うが、遅れるよりはマシだと割り切り、近くに佇む自販機へと向かい、小銭を投げ込んだ。
受験勉強の折にお世話になったブラックの缶コーヒーを選択すると、ごとりと音を立て出てきた缶を片手に自販機の隣に置かれたベンチへと腰を下ろした。
缶コーヒーのプルタブに指をかけながら、ふと空を見上げるとゆっくりと流れる雲が目に止まった。何の変哲もない雲の流れは非常にゆっくりしている。それを眺めながらコーヒーに口をつける。
「苦いな」
そんな言葉が零れた。
缶コーヒーなどどれも大して変わらないはずなのに今日はやけに苦く感じて仕方がない。これも変化のせいなのだろうか。入学式という節目に精神や味覚が若干影響を受けているのかもしれない。
凛は深くは考えず、そんな日もあるかと、一気に缶の中身をカラにし、ワイヤレスイヤホンを装着する。イヤホンから流れるお気に入りの曲。そして読みかけのラノベをバッグから取り出し、読み始めようとしたとき閉じた世界に異物が紛れ込み、ノイズが走る。
その「異物」は、ふいに凛の片耳からイヤホンを奪い取ったのだ。お気に入りの曲と趣味の時間を奪う不届き者に抗議しようと顔を上げると、奪い取ったイヤホンの片側を耳に当て、立つ女性の姿があった。
白いブラウスに黒いスカートというごくごくありふれたレディーススーツ姿だが、新入生にしては着慣れている感がある。その立ち居振る舞いから上級生だろうと当たりをつけた。
凛より少し低い160cm前後の身長。陽の光を浴びてキラキラと色が躍る艶やかなライトブラウンのふわりとしたショートボブの前髪を真ん中から左に編み込み、水色に光るピアスが両方の耳を飾る。明るい髪色とピアスの影響か、かっちりとしたスーツ姿にもかかわらず、堅苦しさをあまり感じさせない。綺麗より可愛いと表現した方が彼女の魅力は伝わりやすいだろう。
「いい曲ですね。私、この曲好きです」
柔和な表情を浮かべた女性は、イヤホンを耳から外すと凛にそっと優しく返却した。距離が縮まった瞬間、揺れる髪からふわりとシャンプーの良い香りが漂う。
女性は良い香りがするというのは本当だったのだと、思いながら渡されたイヤホンを受け取り、軽く頭を下げると彼女はもう一度微笑んだ。そして今度は入学式が行われる講堂の方を指差した。
「新入生の方ですよね。もうそろそろ講堂に入れますから、混む前に移動した方がいいですよ」
時計を見ると既に8時を回っていた。ベンチでぼーっと、していたら思いのほか時間が過ぎてしまっていたらしい。早く来たのが無駄になってしまうところだった。講堂を指し示し、移動を促す先輩にあたる女子生徒に素直に頭を下げた。
「えーっと、はい。ありがとうございます」
そこでふと、目の前の端正な顔になんとなく既視感を覚えた。どこかであったのだろうかと考えてみるが、思い出せない。
どこかで会いましたかと、ナンパまがいの問いかけをする勇気は流石になく、立ち去ろうとした瞬間、その女子生徒は凛の真新しいスーツの裾をそっと掴んだ。
「入学おめでとう。りんりん」
耳元で囁かれた言葉。驚き、振り返る。視線の先で悪戯を成功させた子供のように口角を吊り上げる女性。その姿と幼き日々を共に過ごした少女の姿が重なり合う。歯車が噛み合った感覚。みるみる過去の思い出が奥底から湧き上がり、弾ける。抱いていた既視感の正体。凛は柄にもなく高揚し、気づけば懐かしい名前を叫んでいた。
「りんりんって。お前、スミか!!」
「うん、そうだよ。
嬉しそうに微笑む女性は間違いなく幼き日々を共に過ごした
「なんでここに?てか、俺がこの大学に入ること知ってたのか?」
状況に思考が追いつかない。いくつもの疑問が湧き上がっては、言葉になり損ねて泡となって消えていく。
「ふふ、積もる話もあるけど、もう行った方がいいよ。席が埋まっちゃうから。あとこれ、私のIDだから登録しておくこと。私は入学式のお手伝いがあるからまた後でね」
手を振りながら去って行く突然の再会を果たした幼なじみを見送るが、まだ信じられない。夢でも見ているようだ。カラになったコーヒーの缶をゴミ箱へと投げ入れる。放物線を描き、ゴミ箱に吸い込まれていったと思いきや空き缶がカゴの角に当たり、あらぬ方向へと弾き飛ばされていく。こうした変なところでリアルを感じる。やはり夢ではないようだ。飛んでいった空き缶を拾い上げ、あるべき場所へと押し込んだ。
にぎやかな声が響く講堂へと向かう道すがら、凛は菫のことを考えていた。「この再会は夢か」と、いう問いを証明する術を持ち合わせてはいない。凛はおろか、世界中の誰1人として持ち合わせてはいない。所謂「悪魔の証明」と、いうやつと同じだ。幼なじみとの突然の再会を夢と疑うより、現実と受け止めた方がはるかに建設的である。その証拠にこの手には菫のメッセージアプリのIDが書かれた紙がある。どんなに狐につままれたようでもこの紙切れには、これが現実だと、主張するだけの質量があった。
◇◇◇
講堂の入口で受付を済ませると空いている席に適当に腰を下ろした。空席もだいぶ埋まり、凛の隣の席にも腰を下ろす生徒が現れた。入学生の数分しか席は用意されていないのだから、埋まるのは当然なのだが、今まで空いていたところに人が来るというのはどうにも落ち着かない。
ちらりと横を見ると凛の隣に座った人物は静かに本を読んでいた。その人は飛びっきりの美人だった。容姿端麗。
大和撫子。そんな言葉が連なり、彼女を飾り立てる。なんというか今までに出会ったことのない美女の登場と入学式の会場となる講堂に満ちた独特の緊張感が折り重なり、掌がじわりと湿り気を帯びていく。隣の席の撫子さんを眺めていたいという欲求はあったが、あまり盗み見るのも失礼だと視線を正面に戻し、式の開始もおそらくそろそろのはずだと腕時計に目をやるとパタンと本を閉じる音がした。隣の彼女も式の開始の頃合だと感じたのだろう。
前の方のステージ上では手伝いに駆り出されたであろう上級生がマイクのセッティングを行っていた。いよいよかと、姿勢を正したとき、ふいに誰かが凛の肩に触れた。感触がしたほうにゆっくり視線を送るとさっきまで本を開いていた隣の席の女子の整った顔がそこにあった。
凛の臆病な心臓は一瞬にして心拍数を跳ね上げ、いつもの倍の血液を勢いよく身体中に押し出していく。叫び声をあげなかった自分を褒め称えたくなった。こんな衆目の場でみっともなく声などあげれば大学生活の終わりの始まりである。
そんな凛の心など知る由もない少女の囁きと菫とはまた違う爽やかなシャンプーと女性特有の甘い香りが混ざり合ったすごくいい匂いが凛の鼻孔をくすぐる。
「あなた、肩に糸くずがついているわよ。これ。今日は大学生活スタートの日だもの。身だしなみには気を使わなきゃ、せっかくのカッコ良いスーツが台無しよ」
糸くずを指先で摘むと息を吹きかけて飛ばして丁寧に肩を払い、凛の身だしなみ整え終わると満足げに笑顔を見せるとまた正面へと向き直ってしまった。
「あ、ありがとう」
男を魅力する甘い香りを残しながら元の位置へと戻った彼女に対して、凛がかろうじて絞り出すことが出来たのは消え要らんばかりの感謝だけで相手に聞こえたかは分からない。気の利いたセリフの一つでも囁ければ良かったのだが、色々と恥ずかしすぎて正面をみつめるだけで精一杯となっていた。女子への免疫が少ない自覚はあったが、凛にとっては「未知との遭遇」にほかならない。さながら、突如として現れた物体Xだ。いや、スペースホラーに例えるのはさすがに彼女に失礼だと、頭を軽く振り、余計な妄想を頭の中から追い出していく。
式の間中ずっと凛の鼓動は鳴り止まず、式の内容など一切耳に入ってこない。別の意味での春の訪れを期待する心と共に彩峰凛の新たなる「青春」がスタートした。
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