第1話
……ぴ、ぴぴぴ、ぴぴぴ
枕元でスマホのアラームが鳴る。
いつの間にか濡れていた目元を拭い、ほっと息を吐いた。
──ほら、やっぱり夢だった。
寝起きのクセにやけにはっきりした頭で思った。
「……新学期なんだけどな」
“まゆ”は当時のお隣さんで幼馴染の女の子だ。名前を、
生まれた時から一緒に育って、何をするにも俺とまゆは2人で一緒だった。
住んでいた団地の近所にあった公園で遊ぶのが好きだった。1本の桜の木とブランコしかない小さな公園で日が暮れるまでよく遊んでいた。小学校に上がるまでは。
まゆに病気が見つかったのは卒園式の前日だった。
その日も俺はまゆといつもの公園でブランコをして遊んでいた。お昼過ぎのよく晴れた日で、桜の蕾は開花を心待ちにしていた。俺とまゆは明日の卒園式や小学生になったら、みたいな話をしていた覚えがある。
「ようちゃん、小学生んなったらさ、いっしょに学校いこうよ」
「もちろん! 同じクラスだったらいいよね」
「入学式までに桜咲くかな」
「小学校の近くの桜ぜんぶ咲いたらきれいだろうね」
「うん!」
まゆは桜色のほっぺたを更に赤く染めた。
「まゆはほんとにお花が好きだね」
「桜のお花がいちばんすき!」
3月の春と呼ぶにはまだ早い冷たい風が吹いた。
まゆはコホンとひとつ咳をした。
「まゆ、風邪ひいたの?」
「ううん。ちがうよ」
首を横に振った。無理して強がっている様には見えなかった。──が、チクリと胸に刺さるものがあの日はあった。
「今日はもう、おうち帰っておやつ食べよ」
「でも、まゆ、まだようちゃんとあそびたい」
「短い針が3になったら帰ろ」
「それならいいよ!」
……結局のところ、ふたりで公園を出たのは“ゆうやけこやけ”の音楽が流れ始めた5時だった。
「3じゃない。5になってる!」
「いそげー!」
ぽてぽてと走って夕暮れの住宅街を抜ける。
繋いだ右手がいつもより温かかったのが気の所為で無かったことと知ったのは翌日だった。
団地のすみっこにある階段を駆け上る。3階の左側から5番目と6番目の扉を開けて「またあした」。
いつもどおりだと思っていたんだ。あの時は。
翌日の卒園式にまゆは来なかった。
淡いピンクのワンピース。彼女の姿は式が始まっても、終わった後もおれの前には現れなかった。
「葉太、早く中入ろ? 卒園式始まっまちゃうから」
「おかあさん、まゆはまだ来ないの?」
「まゆちゃんお休みだって。お熱出ちゃったみたいよ」
「……でも」
ほら、早く行くよと手を引かれて最後の保育園へ。
3月の終わりの園庭に冷たい花弁が舞っていた。
「卒園式はおかあさんに髪の毛ふたつに結ってもらうの」と楽しみに待っていたのに。
先生に呼ばれた「冬野真雪さん」の返事も聞くことは出来なかった。
「おかあさん、まゆのお見舞い行っちゃだめ?」
「お見舞いって一緒に遊べないのよ?」
「……行っちゃだめ?」
母は呆れたようにおれの頭をくしゃくしゃに撫でた。
「仕方ないわね。プリンでも持っていこうか」
「うん!」
卒園式の後、おれとおかあさんはコンビニでプリンを2つ買った。まゆとおれの分。「遊べないからいっしょに食べる」と我儘言って買ってもらったおれのプリン。
車が止まって、おかあさんにドアを開けてもらうと団地の階段を1人で駆け上がった。コンビニのビニール袋を大事に手に持って。
305号室。うんと背伸びして呼び鈴を鳴らす。ぴんぽーんと間抜けな音がした。
ドアの向こう側からは物音が何もしなかった。まゆもおばちゃんも出てこなかった。
もう一度鳴らした。ぴんぽーん。
やっぱり誰も出てこなかった。
肩で息をしている母が背後から声をかけた。
「お医者さん行ってるみたいだね」
「……まゆ いない」
「明日また来ようか」
「……うん」
隣のドアの鍵を開けてもらう。入る前にまゆが帰ってきてないか階段の方を見た。1人の女性が上がってきた。視線が交差した。……おばちゃん?
「ようちゃん……」
おばちゃん、まゆの母親はこちらに駆け寄った。
──目が赤い。
まゆの姿を探してキョロキョロしていたらぎゅっと抱きしめられた。まゆと同じ匂いがした。
「ごめんね、ごめんね」
おばちゃんはおれを力一杯抱きしめ、ごめんねの言葉を繰り返して泣いていた。
大人が泣いている姿が初めてだった。よくわからないままおれは抱きしめられていた。声のかけ方も、慰め方も知らなかったから。
──知っていたのは“悲しい時は人は泣いてしまう”というたった1つの事実。それだけだったんだ。
ごめんね、ごめんね……。
雪は変わらず静かに降っていた。膨らんだ桜の蕾を覆うように、ただ静かに降っていた。
“ゆうやけこやけ”と一緒に帰ってきたまゆは熱があった様だ。症状は微熱のみ。はしゃぎすぎて風邪を引いたんだろうとまゆの母親は軽く受け止め、いつもより早めに床につかせた。翌朝には治っているだろうと。
その晩、まゆは高熱を出した。咳が止まらず、飲み物も全て吐き出してしまう始末だった。
夜間診療の病院に彼女の母親は慌てて連れて行った。まゆは肺炎だろうと診断された。入院が決まった。
翌日、行くはずだった卒園式。
朝になっても彼女の症状は良くならなかった。いや、むしろ悪化していた。大きな病院に運ばれ、精密検査が行われた。医師は結果に重たい口を開いた。
──呼吸器の病。名前も付いていない先天性の難病。5年生存率は3パーセント以下。10歳まで生きる事はとても難しい、と。
4月になって桜が咲いた。その日からおれは毎日放課後まゆの病院に通った。ランドセルにお土産話を詰めて。3年、4年近くと言った方が正しいかもしれない。
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