葉桜の君に

佐藤令都

序章

 小学校の教室。新しいピカピカのコンパスを開いたり閉じたりしながら円を書いていた。

 なんとなく分かる。これは夢だ。

 学年主任の年配の教師が廊下を走って来る。

「葉太くん、今すぐ帰る準備して!」

 心音が五月蝿い。

 冷や汗とも言い難い脂汗が滲む。

 このくだりも何度目、何十回目だ。なのにあの日と焦りようは変わらなくて。

「先生、まゆは……?」

 今日もランドセルは持たなかった。勢い任せに教室の外へ。

「葉太くん、教務室へ……」

 言い終わらないうちに階下へ走る。この際授業中は静かにとか、廊下は歩きましょうとか、どうだってよかった。隣にいた年配教師の存在も然りだ。

 そう、気が動転していたんだ。あの日も。今日も。

 どうやって着いたか分からない病室にはたくさんのチューブを繋げられた少女が横たわっていた。

 思わず駆け寄る。雪のように白く儚げな小さな手を握る。

「まゆ! まゆ!」

 10歳に満たない当時のおれだってどういう状況かくらい分かっていた。

 苦しそうに喘ぎながら呼吸する少女はおもむろに人工呼吸器を外した。

「生まれ変わったらっ、ま……た、会いに行く……っから」

 突如咳き込み、ベッドにばちゃばちゃと液体が飛び散る。赤い血だった。

 けたたましく電子音が響き、白衣の大人が何人もおれの前でよく分からない単語を叫びながらまゆを助けようと動いていた。

 まださっきの手の温もりは残っている。

 切迫した空気におれは呼吸の仕方を忘れ、ただ呆然と眺めていた。──自分はこの場に居ないかのように。

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