紫陽花

 しとしと、しとしと。

 今日も空からは控えめに、けれど休むことなく音を奏で続ける機械仕掛けのピアノのような雨が降り続いている。

「やや、今日もいい雨ですな」

「カタツムリさん。ええ、本当に。今年はとても過ごしやすいですね」

 アジサイの葉の上でカタツムリは気持ちよさそうに首を伸ばした。

「でもなんだか今日はこの後晴れそうな気がします」

 ビルに切り取られた小さな空を見てアジサイは言う。

「この角度だとなかなか見えにくいですけどねえ」

「僕なんかはこれくらい陰ってた方が過ごしやすいもんですわ」

 カタツムリはけらけらと笑った。

「まあ私も陽の光は後ろの兄弟が充分に浴びてくれているので不便はしませんね」

 わさわさと体を揺らして雨粒を少し落としながらアジサイは言った。

 雨粒はアジサイの青い花びらの上をころころと転がり落ち、足元の水たまりの中へと次々にダイブしていく。

「や、気持ちよさそうだな。僕も真似したいものであるな」

 上目遣いにアジサイを見たカタツムリをアジサイは窘める。

「去年やったらカタツムリさん、危うく溺れかけたじゃないですか」

「おや、そんなこともあったかな。いやー、あのスリルを味わうのもまた一興ってね」

 全く反省する様子のないカタツムリにアジサイは苦笑する。

「見ているこっちの方がひやひやしましたよ」

「若いうちは冒険するもんだとどこかの偉い人が言っていたよ」

「あれは冒険というよりもはや入水自殺です」

 アジサイが本気で心配しているのをわかっているのかいないのか、カタツムリは声を上げて笑った。

「や、おふたりさん」

 アジサイとカタツムリが声のした方へ目を向けると緑色のアマガエルが水たまりの中をすいすいと泳いでやってくるのが見えた。

「カエルさん、こんにちは」

 カエルはぴょん、と軽快にアジサイの葉の上に飛び乗るとふるふると体を振った。カタツムリがその飛沫を気持ちよさそうに受ける。

「やあやあ。ところでおふたりさんは虹というものを見たことがあるかい?」

 唐突なカエルの質問にアジサイとカタツムリはきょとんと首を傾げた。そんな二人に構うことなくカエルは続ける。

「おいらもこの前初めて見たんだけど、ありゃあ見事なもんだった。空にカラフルな橋が架かっているんだ」

「それは興味がありますね」

 アジサイの言葉にカタツムリも同意する。

「でもここからだと空があまり見えませんからね」

 三人で空を見上げた。まるで猫の足跡のように小さな空。まだ見たことのない虹に想いを馳せてアジサイとカタツムリがため息をつくとカエルが「よっしゃ!」と言って立ち上がった。

「おいらが虹、ここに持ってきてやるよ。ちょうど今日、三丁目の沢のザリガニが虹が出そうだって言ってたんだ」

「本当かい」

 カタツムリが嬉しそうに言う。

「でも大きな橋だったのでしょう? 一人で運ぶのは大変ではないですか?」

 アジサイの言葉にカエルはむむ、と腕を組んだがすぐに笑顔になるとこう言った。

「ちょっとなら大丈夫だろ」

 じゃあちょっくら言ってくる、と手を振ったカエルをアジサイとカタツムリは見送ると虹について話を弾ませた。

「空にカラフルな橋を架けるなんて誰がそんな手の込んだことをしているのでしょうか」

「それに虹は神出鬼没だってカエル君が言ってたねえ」

「ええ。ザリガニさんが虹の見える日を占えるんだとか」

「僕、一度でいいからその虹とやらを渡ってみたいなあ」



「カエルさん、戻ってこないねえ」

「もう三日経ってるし、忘れているかもしれないですね」

 カエルが虹を持ってくると宣言してから梅雨の晴れ間が続き、今日は久しぶりに雨が降っていた。

「どこかで事故に遭っていたりしなければいいのですが……」

 アジサイがそう案じたとき、聞きなれた声が遠くから響いてきた。

「おおーい、おふたりさあああん」

 勢いよく駆けてきたカエルははあはあとアジサイの葉の上で息を整えると両手を前に合わせた。

「ごめんよ。おいら約束を守れなかった。あの後ザリガニの言った通り虹が出たからそっちに向かって走っていったんだ。でもどんなに走ってもたどり着かなくて、そしたらだんだん虹が薄くなって、消えちまった」

 最後の方は虹が消えていくのと同じように寂し気にカエルは言った。

「そんで、必死に追いかけてたもんで気づいたら知らない場所だったから戻ってくるのに時間がかかっちまったんだ」

「いえいえ。私たちのためにそこまでしてくれて、すごく嬉しいですよ。ありがとうございます」

「そうだよ。それに、カエル君が無事で何よりだ」

「おふたりさん……」

 その後はカエルの冒険談に花を咲かせた。

「……そこでおいらは言ったんだ。気持ちは嬉しいが、おいらには待っている人がいるんだ。だからおいらのことは諦めてくれってな」

「それはもしかして私たちのことですか?」

「そういうこった」

「僕たちを理由に振られたそのミミズさん、なんだか不憫だなあ」

「あいつにはもっとあいつに合う奴がいるさ」

「カエル君、気障だなあ」

 三人が手を叩いて笑っていると、雲の隙間から太陽が覗いた。

「あれ、今日は一日雨だと思ってたんだけどな」

「そうですね、一時的な雨雲の途切れでしょうか」

 差し込む陽射しにたまらなくなってカエルが水たまりへとダイブした。あとに続こうとするカタツムリをアジサイが宥めると、自分の葉の蔭へとカタツムリを案内した。

「カエル君だけずるいやい」

「カタツムリも泳ぎを練習したらどうだい」

「この殻が不安定で上手く泳げないんだよ」

「まあまあ。ここで雨を浴びているだけでも気持ちいいじゃないですか」

 カタツムリはそれもそうだね、とアジサイから滴る雨粒を気持ちよさそうに受けた。

 しばらく水たまりを漂っていたカエルが不意に声を上げた。

「おい! おふたりさん! 虹だ!」

その声に慌ててアジサイとカタツムリはカエルのいる水たまりへ目を向けた。

「どこだい?」

「ほらここ……。あ、水面が揺れて」

 カエルはぴょん、とアジサイに飛び乗るとそこからアジサイたちと同じように水面を眺めた。

「確かにあったんだ」

 ゆらゆらと揺れる水面を三人でじっと眺める。

 どれくらいそうしていたのか、実際には水面の揺れが収まるまでなのでそうでもないはずだったのだが、わくわくとちょっとの緊張で三人にはそれがとても長い時間に感じられた。

 やがて水面の揺れが収まった。

「あ!」

 最初に声を出したのはカタツムリ。次に「ほう」というアジサイの声。カエルは「よっしゃーーーー!」とまるで自分が何かの試合で勝った後のようにガッツポーズを決めた。

「カエルさん、あれが……?」

 水たまりに映し出されたのはくっきりとした色をした虹だった。

 恐る恐る尋ねたアジサイにカエルは胸を張って答える。

「おう。あれが虹ってやつよ」

「本当にカラフルだ。すごいやすごいや」

 しばらく三人で水面に映る虹を黙って見つめていた。

「それにしても、この虹はどこから来たのでしょう」

 沈黙を破ったアジサイの言葉にカタツムリとカエルもきょろきょろとあたりを見回した。

「触ってみるか?」

 カエルの提案に、二人はふるふると首を振った。

「ここから、眺めていましょう」

 アジサイの言葉にカエルも安心したように頷くと三人はまた水面に映る虹を眺めた。


「今日は窓の角度がいつもと違ったから上手く映りこむことができてよかったよ」

 太陽に向かって虹が言う。

「あのカエルさん、お友達に君を見せようとこの前必死だったもんねえ」

 朗らかに笑う太陽に虹は頷くと一つあくびをした。

「でももう、眠くなっちゃったよ」

「ああ、ゆっくり休むといいさ」

「うん。おやすみ」

 その言葉とともに虹は徐々に色を薄くしていく。


 その水面から虹の姿が完全に見えなくなるまで、アジサイとカタツムリ、そしてカエルは飽くことなくじっとその姿を見つめていた。

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Little Bouquet らんらん @sz_rn

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