金木犀
「私、この匂い大好きなんです」
陽の沈みかけたオレンジ色の秋の空の下、まるでその甘く優しい香りをふわりと運んでくるような声で彼女は言った。
最寄りの駅から徒歩で十七分、築三十数年のアパート。木造二階建て。若い女性であればその条件を聞いただけでリストから外してしまいそうな、そんな僕の住んでいたアパートに彼女は越してきた。
「偶然通りがかって、もうここしかないと思って」
ちょうど当時住んでいたアパートの更新が近づいていたということもあり、その足でここの大家に直談判しに行ったのだという。
「空いてる部屋があってよかったです」
心底嬉しそうに言う彼女にそもそもここのアパートの部屋が埋まったことなどないという言葉は飲み込まざるを得なかった。そしてその日からなし崩し的に、ふなぜか私の担当業務と化していた庭と呼ぶには些かおこがましいスペースに植わっている金木犀の手入れは私たち二人の仕事となった。
それからいくつかの季節を私たちは同じアパートの住人として共に過ごし、そしてついに私たちがそのアパートを出るとき、大家が小さな鉢植えを手渡してくれた。庭の金木犀の枝から分けたもので、花が咲くにはまだ数年かかるが丈夫に育っていると胸を張って言った。いつもは照れ屋でぶっきらぼうな大家の、その皺の刻まれた笑顔は今でも鮮明に思い出せる。
その鉢植えを泣きながら受け取り、大切そうに抱きしめた彼女は、彼女から妻になった。
妻はその金木犀の小さな苗を、それはそれは丹精込めて世話をした。狭いけれど日当たりのいいベランダで、その苗は妻の愛情に答えるようにすくすくと育っていった。
サボテンに話しかけると良い、なんてことはよく聞くけれど、それは他の植物にも有効らしい。そんなことを考えながら金木犀の世話をする妻の小さな後姿を見ていたアパートの六畳間がなぜか最近無性に恋しくなるときがある。この部屋の広さにまだ慣れることが出来ないせいだろうか。
妻の熱心な手入れの甲斐があり、金木犀の苗が小さなつぼみをつけたころ、私たちに家族が増えた。街に金木犀の香りが漂う秋の夕暮れ。元気な産声と共に我が家にやってきた長男は、あっという間に私たちの生活の中心となった。ベランダからそんな慌ただしい様子を見守る金木犀の苗は、心なしか少し大人びて見え、まるで弟の誕生を喜んでいるかのようだった……なんて考えていた私は自分で思っていたよりもずっと我が子の誕生に浮かれていたらしい。
そんな賑やかになった我が家をさらに賑やかにするであろう長女が妻のおなかの中で待機していたころ、私たちは決して大きいとは言えなくとも庭の付いた一戸建てに引っ越した。長男と一緒に順調に成長していた金木犀の苗ももちろん一緒だ。
小さな鉢から広々とした地面に腰を落ち着けた金木犀は、日々目まぐるしく成長する長男と競うように成長していった。春の桜が舞う季節からは、その競争に長女も参戦し、私たち夫婦はてんやわんやしていた。金木犀はまるで手のかからない出来た兄や姉のごとく庭から静かにそんな我が家の様子を見守ってくれていた。
金木犀が初めて花をつけたのを見つけたときの妻の喜びようは尋常ではなかった。もちろん私も嬉しかったし、子供たちもはしゃいでいたけれどさすがに妻は格が違った。栗の入った赤飯に、いつもよりちょっといい肉の入ったすき焼き、紅白なますと花の形を模したハムの入ったサラダ。その日の夕食のメニューを思い出すと、今でも苦笑が漏れる。そんな幸せな苦笑を顔に張り付けたまま私は今では数えきれないほどの花を咲かせている金木犀に目を向ける。
お前が食べられるわけはないのになあ。
お母さんはそういう人だから。
金木犀からも苦笑を受け取ると、私はまたあの頃へと思考をループさせる。
それからその日になると毎年子供たちの誕生日と同じくらい豪勢な手料理が夕飯の食卓になった。そういう記念日には何かとこだわりのある女性だった。私の誕生日や結婚記念日などにも張り切って用意をしてくれていたことを思い出して胸の奥が何だかむずがゆくなる。
長男も長女も多少の反抗期はあれど真っ直ぐに育ってくれた。二人とも素敵な相手を見つけ、私たちに見送られてこの家を出て行った。ちゃっかりしている長女に比べて少々奥手気味の長男が無事に優しいお嫁さんをもらい、妹よりも後に家の玄関を出て行った後、妻は寂し気な、けれどどこかホッとしたような笑顔でこう言ったのだった。
「また三人になっちゃったね」
そよそよと揺れる金木犀の葉の前で何年かぶりに抱いた妻の肩は私の知っている妻の肩よりも細く、けれど頼もしかった。
それからも金木犀は秋になると甘い香りを運び、土いじりを覚えた孫たちに足元を掘り返されそうになっても怒らずにどっしりと構え、孫たちが自分の背丈に追いついてきても凛と背筋を伸ばし続けてそこにいた。
ただ変わらずそこにいる。それだけのことがどんなにありがたいことなのか、今ではよくわかる。
二年前の秋、金木犀が花をつけ始めたころ、妻は病院に運ばれた。
病院のベッドの上で金木犀の花の成長を見られないことにぶーぶーと文句を言う妻のために、私は拙い剪定技術ではあったが金木犀の枝をベッドの横に活けた。
「来年はちゃんと私がお世話をするんだから」
その言葉通り、去年の秋の終わり、当初医者が言っていた三か月という期間よりもずっと後に、金木犀の花に見送られるようにして妻は天国へと旅立っていった。
棺の中で金木犀の花に囲まれた妻は、あの日「この匂い大好きなんです」と言ったあのときの笑顔のままのように思えた。
今年ももうすぐ金木犀の花が咲く。
少しは上達した剪定技術と庭いじりスキルで今は挿し木にも挑戦している。そんな私を知ったら君は笑うだろうか。喜ぶだろうか。きっと笑って喜ぶだろう。金木犀の親子に水をあげながらそんなことを考え、脳裏に浮かんだその笑顔に自然と鼻歌がこぼれる。
今や私よりも背丈の大きくなった金木犀を見上げ、そのそばに感じる妻の気配に私は語りかける。
きっと私が君のところに行くのはまだもう少し先だ。けれどそのときはきっとこの香りをまた連れて行くから楽しみに待っていてほしい。挿し木の方も順調だ。まるで孫が増えた気分だよ。責任をもって面倒を見るから安心してほしい。
さあ、今年ももうすぐ金木犀の花が咲く。
君の大好きな、金木犀の花が。
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