さつきの右耳

風和ふわ

さつきの右耳


 私が死んだのは、確かさつきが五歳の時だった。原因は私自身、分かっていない。ただ突然、私が聞いた音を脳へ送ることが出来なくなってしまった。音を伝えることの出来ない右耳はただの飾りでしかない。ただの飾りとして、私はさつきの顔の右側にぽつんとひっついているのだ。私の相棒の左耳がそっと私に話しかけてきた。それはなんと、出来そこないの飾りに対する嘲りや罵倒ではなかった。


「私には、君が必要さ」


 予想外の彼の言葉に私は驚く。しかしひねくれ者の私には彼の言葉がどうも皮肉にしか聞こえなかったものだから、「では私は君に何が出来るのか」と強い口調で尋ねる。すると左耳はまるで母親のような優しい声を私に寄越してくれたのだ。


「君は私の話し相手になってさえいればいいんだ」


 思わず笑ってしまった。それと同時に出るはずもない涙を流してしまった。私の事を馬鹿にしているような言葉ではあったけれども、こう心に響いてしまうのはなぜだろう。しかしその言葉に私の心を晴らしてくれるだけの力があるとは到底言えない。


「君はよくても、さつきがいけないだろうよ」

「そんなに変わらないさ。私が二倍働けばいい。まぁ、他の人間よりはこの子も聞こえづらくなるだろう。だが聞こえないわけじゃない。私がいる。なんのための私だ、相棒よ」


 私は「そうか」とだけ言った。左耳が「そうとも」と返してくる。それから私は働けない分、この愛しい相棒の暇つぶし係になったわけだ。だが相棒だっていつまでも暇じゃない。少しでも相棒が気を抜けば、さつきが悲しんでしまう。友達の話を聞きのがして、それを問い詰められた時のさつきの魂が悲しそうに縮小していくのを感じると、私はどうもばつが悪い。そしてさつきへの謝罪の言葉が溢れてならないのだ。私さえ働ければ、彼女は他人の小さい声に怯えなくてすむのに。「もう一度言って」とさつきの唇が恐る恐る紡がなくてもすむのに。私のせい、私のせいで。そう思ったところで、いつも相棒が「飾りの君は飾りなりにさつきの顔の右側に生えていればいい。君のせいではないことを、なぜ君が背負う必要があるのだ」と言ってくるものだから困る。その度に「言われてみればそうかもしれない」と妙に納得して、安堵する自分がいるのだ。


 しかしそんな私を批判してくるような出来事が起きた。確かあれはさつきが小学三年生の時だったか。気の強いクラスメイトについに言われてしまった。


「さつきちゃんてさ、私の事、嫌いでしょ? だから時々私の事無視するんだ」


 その瞬間、さつきの魂が急激に縮んでいき、動かなくなった。その姿からはとても生命力を感じられない。私は何もできないもどかしさをどう消費していいのか分からず、自分のせいだと分かっているのだが、思わずそのクラスメイトに憎悪の念を抱いてしまう。さつきの唇が弱弱しく動く。


「違うよ」

「嘘つき!!さつきちゃんは人を無視して嘘もつくんだ!!」


 喚くそのクラスメイトの周りからも「そういえば私も時々さつきちゃんに無視されるなぁ」「え、私嫌われてるの?」等という声が聞こえてきた。さつきは何も言えず、唇を噛みしめる。それによって唇が痛い痛いと騒いでいるものだから、可哀想だった。私のせいだ。その一言が私の心に反芻される。私の相棒が必死に私に都合のよい言葉を流してくるが、聞かなかった。私さえ動いていれば、さつきはこんな悲しい思いをすることはなかったのだ。もし神様というものがいるのなら私はそいつを恨むぞ。こんな出来そこないの私をさつきの右耳にするなんてひどすぎるだろう。さつきの大きな瞳から、涙が零れそうになった。しかしその前に、一人の少女が動いた。


「この子はね、右耳が小さいときから聞こえないの。この子の苦しみを勝手に決めつけないで!!」


 そう言ったのはさつきの幼馴染のみほだった。みほはそっとさつきの頭を撫で、「さつきも泣かない!」と笑った。その笑顔がどんなに綺麗に見えたことか。さつきの体の一部達は感激して皆涙ぐんでいる。よかった。この子を助けてくれる人間がいてくれて。私達はこの子の体の一部だから、この子を救ってあげることは出来ない。よかった、よかった。私は心の底から安堵して、本当に出るわけではないが、心の中で涙を流す。


「さつきはもう君に心配されるほど弱くないみたいだね。独りじゃない」


 相棒がそう私に囁いてきたから、「本当に」とだけ答えておいた。

 その時から周りの友達はさつきに話しかけるときは左側から話しかけることを心掛けてくれたため、さつきが悲しい思いをすることはなくなった。逆に左側から話しかける度に嬉しくなって、さつきの魂が軽やかにダンスしている姿はとても微笑ましい。「周りに恵まれたもんだ」と脳が呟き、体中の皆がそれに頷いた。


 さつきが成長していく中で、当たり前だが、さつきは数えきれないほどの怪我をしていく。転んでひざ小僧にかすり傷が出来る。それだけのことでもさつきの体中は、過保護すぎるのかもしれないが、大騒ぎだ。


「おい! 血小板はまだか!!? こっちはすっげぇいてぇんだぞ!? 早くしろ!! 死ぬかもしれねぇ!!」

「急かすんじゃない!! 血小板をそっちによこすにも色々指示が必要なんだ! 大人しく待ってろ!」


 さつきが怪我する度に皮膚と脳が大声で喧嘩するもんだからたまったものじゃない。繊細な性格の目がそれを見てうんざりして鼻に愚痴を零している。私は静かに忙しく働いている同胞達を見守っていた。


「大丈夫か」


 左耳がそんな私に気づくと、すかさず言葉をかけてくれる。


「ああ、大丈夫だ」

「さつきが転んだのも自分のせいだとは言わないでくれよ」

「ああ、もう言い疲れたよ」

「それはよかった」

「でも、やはり皆が羨ましい」


 私は長年の本音を相棒にぶつけた。相棒がそれを聞いて、何を言おうかと困っている。私はそんな気を遣ってくれる優しい相棒を見つめる。


「私は、この子が、さつきが好きだ」

「……そりゃあ、自分の主を嫌うものはいないだろうね。たとえそれがどんな人間であっても」

「ああ。だからこそ、私もこの子のために働きたかったよ。いろんな人間からさつきへ送られた言葉を、音を、この子に伝えてあげたかった。私が伝えた音がさつきを笑わせて、怒らせて、泣かせてくれたらどんなによかったことだろう」


 左耳は何も言わなかった。だが私は特に気にしなかった。左耳が私に気づかれないように、泣いていることを分かっていたからだ。私はいい相棒を持った。それだけでもう十分だ。そんな言葉をシャイな私が彼に伝えることはなかった。


 さつきは大人になり、夫もできて、子供もできた。やがてさつきの母親が亡くなって、父親が亡くなって、終いには夫も寿命で亡くなった。そして今度はさつきの番だ。弱り切ったさつきの体はもう動かない。目を開けることも出来ないようだ。長い人生だったなぁとしみじみ思った。体中の声は一つ、また一つと消えていく。さつきの魂も今までで一番小さい。もう潮時だということは明らかだ。しかしどうも気になるのはさつきの娘と息子の声だ。死ぬ直前の母へ向けられた彼らの声が聞こえてくるのだ。相棒の気配は弱弱しく、もうこの声を伝えられないらしい。となると、この声を伝えなくてはいけないのは私だけとなる。どうするべきか。このままでは何も聞こえないまま、さつきの魂は消えてしまう。しかし、私はただの飾りなのだ。こんなに悔しいことは他にない。畜生。体中に響くくらいの大声を上げる。


 ……その時だった。


『………り、がと』


 何が起きたのだろうか。一瞬自分でも理解できなかった。数秒後、さつきの右耳のこの鼓膜を、音がするりと流れ、脳に伝わっていったのをやっと理解した。私は何故か今、働けたのだ。なぜなのかは今は関係ない。時間がないのだ。慌てて流れてくる音を拾うのに集中する。


『お母さん、今まで、本当に、ありがとう』

『母ちゃん、マジで俺、やんちゃばっかして、ごめん』

『お母さん、聞こえてる?』


 聞こえてるよ。さつきの代わりに呟く。


『母ちゃん、大好きだ』

『私も、大好きだよ』


 その刹那、さつきの魂が微かに揺れた。そして、さつきは一粒の涙を流したのだ。「よくやった」という脳の弱弱しい声が聞こえた。やったぞ相棒! ついに、ついに! 私の伝えた音が、愛が、さつきを泣かせたぞ! この感動をどうあいつに伝えられるのかは分からない。そんな事を考えるのもつかの間、意識が朦朧をしてきた。もう私は死ぬ。ああ、なんて悲しくてみじめな一生だっただろう。だが最期の最期だけ、右耳として生きられてよかった。神様、ありがとう。だがもしまた私が生きられるなら、今度もまたさつきの右耳になりたい。あの最期の感動がどうしても忘れられないのだ。それと、その時の左耳は相棒のあいつにしてくれ。頼む。

 私はそっと微笑んだ。そして消えていくさつきの魂に溶け込みながら、共に消えた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

さつきの右耳 風和ふわ @2020fuwa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ