平安かさね色草子 白露の帖/発売記念SS

梅谷 百/メディアワークス文庫

明里編 『三日目の夜。四日目の朝』(1)

 私、たかあかの朝は早い。


「……眠い」


 寝ボケ眼のまま、もう一度しとねに突っ伏したくなるけれど、気力で踏みとどまる。

 駄目。絶対に起きないと。ここで眠ってしまったら今までの頑張りも無にすことになる。

 このまま誘惑に負けて二度寝してしまったら、あの御方に今日もまた実家に帰れとねちねち言われ続けることは間違いない。

 ずるずると寝床から這い出し、のろのろと髪をかして身支度を整える。

 昨夜襲ねておいた、紅の薄様の五衣に袖を通す。

 女房装束と呼ばれる十二単。それが私の『仕事着』。

 重い衣を羽織ると同時に、眠気が吹き飛んだ。

 よし、今日も精一杯働こう。

 まだ山の端も明るくなっていない深夜から、私の『仕事』は始まる――。


 たかとうだいに炎を灯し、その灯りを頼りに屋敷の縁を歩く。

 よかった。まだ西の対に明かりは灯っていないわ。

 ほっと胸を撫で下ろす。

 私がこの屋敷にきて、女房生活を始めてから三日目の深夜。朝を迎えたら四日目だ。

 ようやく、この日を迎えられたのかもしれない。


「――おはようございます。てつなり様」


 暗い部屋に掛かった御簾の向こうに声を掛ける。

 しんと静まり返っていて、返事がない。耳を澄ましながら御簾をほんの少し押し上げて目を凝らすけれど、部屋の中は真っ暗で人の気配は一切ない。

 もしや、これは――。


「遅い。もう出るぞ」


 急に背後から声を掛けられて、体が跳ね上がる。おたおたしながら振り返ると、そこに立っていたのは、すらりと背が高く、鷲のように鋭く涼し気な目元の男性。掘りの深い端整な顔立ちに、きりっとした眉。相変わらず、黙って立っていると見惚れそうになる。


「て、哲成様……」

「邪魔だ」


 冷たい瞳で見下ろされ、反射的に飛び退いて道を空ける。


「失礼しました!」


 頭を下げる私の横を無言のまま足早に通り過ぎる。その背を、半ば走って追いかけた。

 ああ、もう。今日も失敗した。

 哲成様の朝は早い。まだ深夜の間から起き出して、身支度をし、日の出前には牛車ぎつしやに乗って仕事に向かう。

 女房生活一日目の深夜も、二日目の深夜も、そして三日目の深夜も、哲成様を起こすことができなかった。しかも哲成様はすでに支度をされて屋敷を出るばかりになっている。


 ――私はこの春日家に、女房として勤めている。


 女房の『房』は部屋のことで、部屋をいただきそこに住み込んで、屋敷の主のために働く女性のこと。

 帝やその妃のために宮中で働く女房のほかに、上級貴族の屋敷で働く女房もいる。

 私は後者の、『春日家』の女房として雇われた。

 他の家ではどうなのかよくわからないけれど、『春日家の女房』の仕事の中に、『朝、主を起こす』が含まれている。それなのに、私は哲成様を起こすことができない。

 そろそろ女房失格の烙印を押されそうだ。

 ひやひやと全身が冷えていく。

 仕事を満足にこなせないだなんて、解雇されても文句は言えない。

 今すぐ実家に帰れだなんて言われたらどうしよう。私にはまだ帰ることができない事情があるのに……。


 父上と母上の顔が脳裏に浮かんで、つい涙ぐみそうになる。

 もちろん本音は今すぐ帰りたい。でも駄目。

 私は元々下級貴族の娘。貴族という身分ではあるけれど、人のいい父上のせいで我が鷹栖家は超がつくほど貧乏だ。

私と父上と母上の三人が食べていくのだけで精一杯なのに、今年の夏に訪れた、猛烈な台風のせいで屋根に穴が空いた。その穴の修理費まで手が回らず、本格的な冬を迎える前にどうにかして直さないと凍死するからと、私は報酬目当てで春日家に女房として出仕している。


 ――春日家には目もくらむほど美しい三兄弟が住んでいる。けれど、女房として勤めた女性は三日と経たずに逃げ帰ってしまう。


 そんな噂は都の片隅で生活していた私の耳にもよく入って来ていた。

 まさか自分がその春日家の女房になったとほんの少し前の自分に言えたら、絶対に信じなかっただろう。


「おい。貴様は俺の後ろをついてきて、何がしたい」


 急に立ち止まって振り返った哲成様の胸に飛び込みそうになって踏みとどまる。

 しまった。考え事をしている暇なんてなかった。


「え、えっと……。お見送りを」

「見送りなどいらん。うろちょろされると目障りだ。消えろ」


 容赦のない言葉とあまりに鋭い視線に、いっそのこと塩をかけられたナメクジのように縮んで消えてしまいたくなる。


「え、えっと……。あっあの、お召し物が乱れておりますので、直してもよろしいでしょうか?」


 おずおずと尋ねると、哲成様は自分が着ている黒の束帯を見下ろす。

 衣の一部をおかしな風に巻き込んでいるし、帯もずれてしまっている。


「いい。触るな」


 伸ばした手が、それ以上どうすることもできずに宙に漂う。


「ですが……」

「いいと言っている。牛車の中で自分で直す。二度言わせるな」


 哲成様は眉を思い切り顰めて吐き捨てる。

 頑として拒絶されて、泣きたい気持ちになる。でも、そのまま出仕されたらきっと見た目もよくないだろうし、しばらくしたら帯も解けてしまいそう。

 もう一度勇気を出して進言するか、それとも引き下がるか……。

 今日で女房生活三日目の深夜。今まで女房として勤めてきた人たちは三日以内に辞めている。もうすぐ朝日が昇れば四日目が始まるけれど、今逃げ帰れば私も彼女たちと同じく三日と経たずに辞めることになる。

 もしかしてここが運命の分かれ道――⁉

 どうしようかしら。また怒られるだろうけれど、やっぱりもう一度哲成様にお願いして――。


「――ねえ、ちょっと煩いんだけど! まだ夜も明けてないんだよ⁉」



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