ep.5

 


 自分の好物ばかりが食卓に並ぶ、年に一度の日から一夜明けた今日。早朝から俺は、エリゼさんと共に庭に生えた雑草の手入れをしていた。この季節になると肌寒さがかなり感じられるが、昨日今日に引き続き日差しは相変わらずの強さで、額には汗が滲んでいる。雑草を引っこ抜く両手は、もう土やら草の汁やらで爪先まで汚い。エリゼさんは決まって毎回律儀に白い手袋を着けているようだが、俺は手がいくら汚れようとも、どうせ洗うのだから微塵も気にならない。


 花の周りに無造作に生える雑草を、根元から引っこ抜いていく。このだだっ広い庭の、水やりや苗の植え替えは正直言って面白味がないし、面倒くさい。けど雑草を引っこ抜くこの瞬間だけは結構好きだった。ぶちぶちと土から離れるときの、根っこの振動が音とともに伝わってくる感じが気持ちいい。

 今日はもうずっと無心でやり続けているから、かなりの時間が経っている気がする。朝から始めているから、はち切れんばかりに抜いた雑草が詰め込まれた麻袋を、後ろの方にもう何袋も作っている。見渡す範囲ではここら辺りは大体終わったようなので、俺は立ち上がって、曲がりっぱなしだった関節を伸ばすようにうんと背伸びをしてから、低木の方にいるエリゼさんの元に近寄った。




「…向こうやっと終わりましたよ。そっちどんな感じですか?」


「あら、流石ね。ここもあと少しで終わりそうよ。」


「こっち終わったら、今日の分は終わりですよね、手伝います。」


「あらあら、ありがとう」という言葉に頷いてから、俺はエリゼさんの近くに足を組んで座る。低木の生える堅い土から顔を出した雑草を、同じようにぶちぶちと抜いていく。エリゼさんは60近い年齢とは思えない気力の持ち主なので、周りには俺と同じくらいの多くの数の、はち切れそうな麻袋があちこちに出来上がっている。俺はその光景を見て、いつまで経っても衰えぬその姿に毎回少しびっくりしてしまう。将来自分がその歳になったとして、同じくらい若々しくいられるだろうか。いい年齢にもなって頑張りたくないと、怠けてばかりの自分の姿が容易に想像できる。


 隣に居るエリゼさんと時々たわいもない会話を交わしながら作業を続けて、もう終盤に差し掛かかろうとしていた。今日はこの後、どこかの地面で寝そべっているであろうおじさんを起こして、昨日の後味の悪い負け方をした勝負のリベンジをするつもりだ。そんなことをつらつら考えていたら、エリゼさんが手を動かしたまま話を切り出した。



「…もう長く花の世話をしているけれど、手間隙かけて育てたから綺麗に咲いてくれるとは限らないのよね。夜のうちに動物に荒らされたり、土との相性が悪かったり、天候に恵まれなかったりして、途中で駄目になってしまうことが何度もあったでしょう?

 どれだけ愛情込めて育てたとしても、どうしようもないことって当然のように起きるものなのよ。

 それは花の世話に限った話じゃなく、何にでもそう。

 何かを続けていくのに、受け止めていく覚悟はとても大切。」


 作業中はこうして、エリゼさんの話を一方的に聞く機会が度々訪れる。


 これまでにも、色んな話を聞いてきた。水やりをしながら聞く、花に対する熱量。資材や花を住民の家まで届ける道中での取り留めのない話。パン作りを教わりながら時折挟まれていく、おじさんへの愚痴。薬草を摘みながら話す若い頃の話。


 おじさんはほぼ自分の事にしか興味がないし、あまり良い反応も返ってこないからか、お喋り好きなエリゼさんの聞き相手はいつも自分だった。そしてなんとなく、13歳を過ぎたあたりから、先を見据えたような話が多くなった気がする。


 それはきっと、勘違いでも何でもなく、見透かされているってことなんだろう。一方的に待っているだけでは、何も掴めない。

 いつかは自分の事を深く知りたいと望む自分がいるのに、唯一の手がかりである場所がここである事実と、居心地の良さを言い訳にして、動けずにいる自分。

 何を選択していくのが正しいのかは分からないままだが、エリゼさんの口から度々紡がれていく言葉にはどれも自分の背中を少しずつ後押しするような温もりが含まれていた。



「……だから、例え花が途中で駄目になったとしても、長くかけた時間が無駄になったとは思わないようにしているの。

 だって、その咲こうとする過程に力を貰っていたのは確かだもの。だから続けられるのよ。


 咲かせることばかりで頭がいっぱいだったら、ここまで育てられなかったと思うわ。」



「…………へぇ……そうだったんですね。」



「そう。何かをすると、つい一つの視点に囚われすぎてしまうから。だからなるべく、自分の中で色んな考えを持っておいた方がいいの。


 目の前のことに精一杯力を注ぐのも良いことだけど、長い目で自分のすべきことを見守っていく視点もとても大切、とかね。」


「……俺にもなんかそういう、ずっと熱中できるような、生きがいみたいなやつ、見つかんのかなぁ。」


「見つかるわよ。だって私が花の世話を好きになったのなんて30の時よ。

 人生は長いんだから、気長に自分に合っているものを見つけていけばいいの。」


「…30かー。俺がその歳になってんの全然想像できねぇや。

 ……てか、エリゼさんの花の熱量はもう充分伝わってますけど、にしても植えすぎじゃないですか…?もう少し減らしません?」


「何を言ってるの。まだまだこれからよ。

 あっ、そうそう。この庭ももう何回と広げてきたでしょう?そろそろ別の事も試してみたくて。だからまだ言ってなかったけれど、最近は森にも花を植えられないかってちょっと計画してるの。」


「……は?森…!?いやいやいや、まだ植える気ですか?俺さすがにそこまでは手伝えませんよ!?」


「それはちゃんと分かってるわよ。そっちは全部自分一人でやるつもり。

 もう種は買ってあるの。ラッパズイセンっていう黄色い花なんだけどね、そんな花が森の小道に小さく咲いていたら、かわいいと思わない?

 何年かかるか分からないけれど、いつかこの家から続く道が、沢山の花で彩られたらすごく綺麗だし、歩くのがもっと楽しくなると思うわ。……ふふっ、すっごく楽しみね。」


 エリゼさんの尽きることのない探求心に圧倒されつつ、俺は少し前に町に行った時のことを思い出していた。その時はいつも以上に商品を何やら真剣に選んでいて、店の外で待ちながらやけに遅いなと思っていたのだ。

 そういうことだったのか…と妙に納得して、その満ち溢れる気力に吸収されてくような脱力感を伴った言い方で、会話を続けた。


「大丈夫なんですか…?庭だと家から近いからいいですけど、森の方までってなると、かなりの体力必要になってきますよ」


「そこなのよね。年齢的にも限界があるし。体力上げるために、あの人にトレーニング教えてもらおうかしら。」


「いや、それはまじでやめた方がいいです」


「ふふふ…冗談よ。私も若い頃、少しの間トレーニングを一緒にやったことあるけれど、着いて行けなくてすぐに辞めてしまったわ。」


「え!?あるんですか…!?初めて知りました……」


「本当に昔のことだけどね。ただでさえハードなメニューなのに、横からとやかく言われるのが嫌ですぐ辞めちゃった。」


「あのスタイルは昔から変わらないんですね……」


 この家の主人であるおじさんは、村の古い知り合いからは「メイソン」と呼ばれている。

 筋肉質で逞しい身体と、精悍な顔つきで、傍から見ると威厳のある人なのだが、その実態は自分の興味のあることにしか力を注がない、かなりのマイペース。

 日課である水やりは、筋肉には休みが必要だとか何とか言って、気が向いた時しか手伝わないし、日中はほとんど気持ち良さそうに眠りほうけている。俺とエリゼさんが花を売りに町に繰り出す時は、村の近くの住人に水やりをわざわざ頼んでから行くほどだ。にも関わらず自分を高めることには余念がないようで、毎日ハードなトレーニングを汗だくになりながらこなしている。


 そんな様子を傍目で見ては、その活力を少しくらい家の仕事に回してくれたっていいだろうと言いたくなる。昔はもっと、毎日のように気合い入れて説得を試みていたが、根っからの奔放さを変えられるはずもなく今に至っている。

 面倒な仕事は全部俺にやらせるし、本人が進んでやっていることと言えば、森の伐採か(恐らくこれもトレーニングを兼ねてのものなのだろう)、住民のも含めた家の修理、そして極稀に町へと出向く時くらいだ。


 周りに無頓着で自分のやりたい事だけを貫くそのスタイルには少しうんざりしている部分もあるのだが、それでもやっぱり尊敬の念が消えないのは、手合わせをする時の言い表せない気迫と剣術にいつも圧倒されるからだ。

 腕っ節の強さに加え、軽やかに空気を斬るようなその木刀の扱いは正に手練の技で、未だに勝てた試しがない。

 おじさんはただの筋トレの一環として趣味で始めたと言っているが、素人目から見ても卓越されたその技術は、実際にたった一人で身に付けられるものなのか、本当のところは分からない。


 ただおじさんは見た目に反して少しシャイなところもあるから、好きなことはよく喋るが、あまり自分のことを多くは語りたがらない。だから俺もしつこく聞いたりしないし、たまにおじさんから昔の話が聞けると、俺はそんなに関心がないように装って内心ひどく胸を膨らませたりしている。

 それからエリゼさんによれば、筋肉の話を雄弁に語るのは気の許した人にしかしないらしい。いや、それを知ったところで、話について行こうとする気は全く起きないんだけども。




「何か移動が楽になる道具でも、あればいいんだけどね。そんな都合のいい話ないわよね。」


 と、エリゼさんが眉を困らせ、目線を下に落としながら言葉を零した。


「んーー………………………あ。そういや、昔なんかで使ってから置いたままになってる、でかいワゴンありませんでした?確か庭の裏の方に」


 記憶の片隅にあった薄い映像をなんとか引っ張り出そうとしながら、隣にいるエリゼさんに確認する。


「そういえば。よく覚えてるわね…!すごく大きいから邪魔になって使わなくなったんだっけ。もう十年以上使ってないんじゃないかしら?

 錆び付いて動かないかもしれないけれど、もし使えたらすっごく楽になるわ」


 エリゼさんが、いい考えだと言わんばかりに手の平をパチンと合わせて嬉しそうに話す。

 いつの間にか雑草も残り少なで、楽で単純な作業はあっという間に時間が過ぎるのを実感する。エリゼさんが企む計画の全部を手伝う気はないけど、最初の方くらいは手伝うのも良いか、と考えながらゆっくりと立ち上がった。


「じゃあ俺、裏行ってちゃんと動くか見てきますね。」


「あらあら、ありがとう。

 …でも朝からずっと働いてくれたから、少しは休憩も必要よ。終わったら飲もうと思って、フレッシュハーブがポットに入れたままになってあるの。先にひと休みしていて。」


「あ〜!、あのうまいやつですか?」


「そう。レモンバーベナとカモミールね。」


「そうそれです」


「ふふっ。ハーブとか薬草の名前覚えるの本当に苦手よね」


「見れば分かるんでいいんですよ。名前とかそういう小難しいやつ覚えなくても。」


「でも機会があるうちに覚えておかないと、いざという時に困っちゃうわよ。」


「いや、俺まじで勉強だけは向いてないんで。」


「…そうかしら。私は向いてると思うわよ。

 何かを学ぶのに必要なのは、頭だけじゃなくって、素直さだったり、続けていく姿勢が大切だもの。

 あとは知りたいって思う気持ちが強くなれば、すぐに頭に入ってくると思うわ。」


「いーや、買い被り過ぎですって。

 文章読んだりすると嫌過ぎて俺、目が痛くなるんですよ?

 身体が拒否するんで俺には一生無理です。」


「まあまあ。いずれ嫌でも勉強する機会はやってくるものよ。」


「…………なんつーか、エリゼさんが言うと本当にそうなりそうで怖いんですよね……まじでやめてください……」


 そう言ってわざとらしく嫌そうな顔を向けると、笑顔をこちらに返してくる。俺は負けを認めたように、じゃあ先に休憩してきますね、と一言添えてから、家の方へと歩みを進めた。すると後ろから「ご苦労さま」と聞き慣れた声が返ってきた。俺は少し振り返ると、屈んでいるエリゼさんに焦点を合わす。それから俺も「そっちも早く休憩取って下さいね」と応えると、背中を向けてまた歩き出した。







 ◇◆◇◆◇◆◇◆








「うわっ…………これ…いけるか?」


 少し休憩を取ったのち、うっすらとした記憶を頼りに庭の裏を探し回ること数十分。

 提案した時は簡単に見つかると思っていたが、庭の裏はすぐ森になっているので、木や茂みで視界が遮られ、探すのにかなり手こずっていた。

 同じ場所を何度も行き来したり、奥の方まで探してみたりして、茂みを掻き分けながらようやく今、見つけ出すことができた。


 ワゴンがあった場所は記憶していた場所よりも少しずれていたのと、長い間のびのびと育ったツタに覆い隠されていて、ぱっと見ただけでは判別できない程の見事な溶け込みようだった。目を凝らしてようやっと探し当てたはいいものの、思っていた以上の錆び付きとツタの繁殖具合に今は唖然としている状況だ。


 取れそうなツタはある程度まで取り除き、それから試しに持ち手を掴んで動かしてみる。酷い錆びに加え、ツタが輪にしがみつくように絡まっていてぴくりとも動こうとしない。これは本気でやらないと駄目だなと自分に言い聞かせ、一呼吸置くと、足を踏み込んで目いっぱい引っ張った。


「……ッく……………………………………ッ!!!」


 最大限力を込めるが、長い月日をかけて森と一体化したワゴンを動かすのは容易ではなく、これはなかなか気合いのいる作業だと悟った。


「くっそ……全然動かねぇ………」


 ワゴンから手を離し、手のひらを見つめる。骨を辿るように、赤黒い錆びがびっしりと張り付いている。

 目を瞑って、両手を握り締めた。気合いを入れ直す。集中するため気を落ち着かせ、重い息を吐いた。

 さっきまでの熱が残る持ち手を再度握り締める。



「……………………………ッ………ッくっそ…………かってぇ………………………」



 諦めずに何度も力を込めて引っ張ると、なんとなく手応えを感じ出してきた。あと少しだと自分に言い聞かせ、目いっぱい引っ張る。

 動きそうになかったワゴンが少しずつ、ツタがぶちりぶちりと切れる音と共に、ギギギと動いていく。一度動いた感触があればもうそこからは容易いもので、力いっぱい腕の力だけで引けばすぐ、ツタから解放されたワゴンが大きく動き出した。


「っしゃ!動いた……!」


 錆びが付いていない手の甲で、目に入りそうに伝っていた汗を拭う。一人なのに思わずでかい声で喜んでしまった。無理やり引っ張ったせいで、切れたツタが輪に大量に絡まっている。

 それはあとで取ることにして、不安定な傾いた場所から平地の方に移動しようと押し動かす。動いたのはいいが、正直言ってめちゃくちゃ汚いし、いつ壊れるか分からない怖さもある。


 それにしても、さっきは木の影で薄暗くてよく見えなかったが、日の当たったところでこうしてよく見てみると結構な大きさだった。苗だけなら相当な量が余裕で積めるんじゃないだろうか。これは楽になるなと考えながら押していく。


 庭の裏の出入口近くに着き、早く手を洗いたかった俺は適当にその場にワゴンを置いてから、井戸水が出る手押しポンプの方へと駆け寄った。




 何度かハンドルを押し下げると、吸い上げられた水が勢いよく放たれる。服にかからないよう注意を払い、透明な曲線へと手を伸ばす。長い月日の中形成された錆びは思ったより頑固で、完全に落とすのは長期戦になりそうだ。屈んだまま何度も手のひらを擦り、この後のことを考える。


 取り敢えず、ワゴンは手入れすれば使えそうだと報告するとして、今日決まっていることと言えば、勝負のリベンジくらいだ。いつもなら午後も何かしらの作業だったり手伝うことがあるが、今日は珍しく何も無い。手合わせもずっと付き合ってくれる訳でもないので、それが終われば久しぶりに新しい木刀でも造ろうかと、考えを巡らせていく。


 しばらくぼーっとしながら洗い続け、一度手のひらを確認する。うっすらと赤黒い跡は付いているものの、ある程度は落ちたことが確認出来たので、手首を振って水滴を周辺に振り撒いた。次ワゴンの持ち手を握るときは手袋が必須だなと、忘れないように頭の片隅に入れる。


 それから、自分の力で立つのが面倒で、水が流れ続けるポンプの頭を支えに、立ち上がろうと手を伸ばした──────その時だった。





 人差し指の指輪が、一瞬、キラリと光瞬いた。


 陽の反射で起きた光じゃない。まるで何かを訴えかけるような、力強く意志のある、心奪われる輝きだった。

 16年生きてきて、指輪が反応したことなど一度もない。初めて見る光景だった。

 輝いた一瞬の美しさに魅せられ、引き込まれる。



「光っ………………………」





 思わず動揺して口に出した、次の瞬間。




 今度は強力な閃光が、視界の端に映った。すかさず反射的に顔を光の元へ向け、視界に捉えた。


 その光景は、異様だった。






 眩いばかりの光が、塔を包み込んでいる。



 見慣れたはずの天高く伸びた塔は、強い光によって姿を確認できない。



 天から降り注ぐ光は、この遠く離れた場所からでも目を開けるのが億劫になるほどの眩さを持ち、辺り一帯は気持ちが悪いくらいの異常な光と静寂に包まれていた。

 経験したことのない異質な状況に、悄然と立ちすくむ。



「何が………起こって………………」



 怖気立ち、締め付けるような喉から引き攣った声でそう発した、次の瞬間。





 塔からの光が一瞬にして、目に入る景色全てを白く焼き尽くした。




 まるで、太陽が落ちたと言わんばかりの強い光だった。

 反射的に閉じた瞼の裏からでも、目がどくどくと爛れるように痛い。咄嗟に、顔を腕で覆っていた。





 しばらくして、恐る恐る視界を薄く開いた。強烈な閃光はもうおさまっていて、じんと痛む目で瞬きを繰り返す。ぼんやりとした自分の足下が徐々にはっきりと確認でき、顔を上げようとした────その時




 今度は、耳を覆いたくなるほどの張り裂けるような爆裂音が、辺り一帯に殷々と轟いた。バキバキと地を割るような音に、内蔵が悲鳴を上げるように響く。

 何かが──来る。根拠の無い予感に、この場から逃げろと頭が司令を出すのに、えぐれるような音に足が竦み、その場に張り付いたままピクリとも動けない。



 鳥があちこちで薄気味悪く鳴き叫び、一斉に地上を後にした。

 さっきまでの清々しい青空から一変し、濁った曇り空となった上空は、地上に影を落とした。


 爆裂音に続くように、遅れて木々のざわめきが遠くから轟く。慣れ親しんだ、風に揺れ葉々が掠れる音ではない。異常なほど荒れ狂う嵐の夜よりも一層激しい、


 そう、悲鳴を上げるような────────



 …


 …………




 それは一瞬だった。


 目の前に広がる木々の群れ。その頭上を次々と、舞うように立派な木々が吹き飛んでいた。ちぎれた枝や葉、瓦礫の数々が、なすがままに空高く入り乱れている。

 尋常ではない音と共に、凄まじい速さで強烈な爆風が猛進してくる。




 逃げる暇もなかった。

 気付いた時には身体が吹き飛ばされ、浮遊していた。身体の全ての自由が一瞬にして支配され、目先には鉛のような空が広がる。

 そのあっという間の出来事に、頭の処理が追いつかないでいた。

 目に映る光景は、状況に見合わぬゆったりとした速度で移ろい、不思議な感覚に包まれていく。



 人は予期せぬ事態に遭遇すると、その衝撃で時が止まったように感じるのだと、遥か昔聞いた話をこんな時なのに思い出す。不思議な感覚に飲み込まれたまま、声も上げることも出来ず消えていく。──そんな未来を瞬間的に悟る。いつもは頭の回転が鈍いくせに、こんな時だけ思考が速く巡っていく。





 すると、突然

 目の前に、ぱっと鮮やかな色彩が色濃く映った。


 庭の花が、咲き終えるのを待つことなく、引きちぎられたらしい。吹き荒れる風によって、数多の花々が、濁った空を覆い尽くさんばかりに花びらを散らしていく。中には、開花を前にしていた蕾も入り混じっている。

 嫌という程美しく鮮やかな花の欠片が共に舞う。



 終わりは一瞬。

 空に散る花を見つめながら、どこか現実味のない頭で他人事のように思う。

 どれだけ力強く咲いたとしても、花の一生は儚い。生彩を失い朽ちる時、強い風に襲われた時、どれも同じように散っていく。

 それは、人間だって変わらないのだ。自分だけは違うと勝手に思い込み、慢心していたのだと思い知らされる。

 いつ来るか分からない終わりが今来ただけ。

 花だろうが人だろうが差なんてない。終わりは平等に訪れる。

 目を奪われるほど鮮やかな色彩に、瞳が吸い寄せられるように、意識が遠のいていく。



 暴力的なまでの烈しい風圧に押され、まるで誰かにコントロールされているように、身体が言う事を聞かない。その勢いは衰えることなく加速し、そのまま、木の幹に思い切り叩き付けられた。あまりの衝撃に意識が飛びかける。衝撃で吐き出た血が風圧に押され、顔にいくつも赤い染みをつくる。



 背中と後頭部に、裂けるような激しい痛みがやってくる。それに加え、目を開けるのもままならない程強烈な風圧を、真っ向から受け止める。

 風圧に乗り威力を持った千切れた葉や小枝、それから砂埃が、肌に突き刺さっていく。



 すぐ目先に、樹齢200年は優に超えているであろう樹木が自分目がけて襲いかかって来るのが見える。


 早く避けなければと思うのに、息が詰まるような痛みと、猛烈な風圧によって身体が重く、ピクリとも動かない。

 それに加え、だんだんと目の前の光景がぼんやり霞んでくる。頭を強く打ち過ぎたのか、脳もうまく機能しない。

 いや、そうでなくとも、飲み込めない事態の連続にさっきから頭が正常に働いていないのだ。





 これが、エリゼさんの言っていた"どうしようもないこと"なのだろうか。聞いたばかりの言葉は出てくるが、どんな話だったかまでは思い出せない。


 ほとんどの思考が停止する。それに伴って、強ばっていた身体の力みが弱まり、瞼の重みも深くなっていく。


 もう、動ける気がしなかった。



 自分の終わりは今なのだと、瞼を伏せながら、心の中で静かに思う。

 悔いも、怒りも、嘆きも、不思議と何一つ湧いてこなかった。

 ただただ呆気なかった。そんな思いが、胸の内の大半を占めていた。自分にはまだ達成出来てないこと、やりたい事が山ほどあったはずだ。それなのに、霞みかかったように何も出てこない。身体はいつも正直で、諦めた途端、ずしんとより一層重たくなる。




 そうして、完全に目を閉じる

















 ──────────その時だった



 色鮮やかな花弁が、朦朧としていた意識をこじ開けるように、パッと目の前で弾けた。




 閉じかけた薄い視界の前に、一段と質量を増して吹き荒れる。




 遠のいていた精神が、一気に手繰り寄せられるようだった。





 咄嗟に顔を上げると、樹木が直前にまで迫っていた。

 考える間もなく全力で身体を捻る。身体が幹からずれると、強い風圧に押されるがまま、勢いよく森の奥へと吸い込まれていく。樹木はもう、すぐ目の前まで来ている。それなのに、身体は回避できても、左手が間に合わない。

 指先が、木と木の間に押し潰される──────寸でのところで、突如として自分に向く風圧が増した。挟まれる寸前、その勢いのままに左手を回避する。指先が木の表面をザッと擦れたのを見届けると、風の向くまま木の間をくぐり抜けるように、森の奥方へと吹き飛ばされていった。



 途中幾度となく手足を幹にぶつけながら、森の奥へ奥へと押されるがまま猛スピードで進んでいく。

 するとその時、周りの光景が一気に速度を落とした。首元が締め付けられるように苦しい。奇跡的に、枝に服が引っ掛かったようだった。訳の分からぬまま、目の前のことだけに意識を集中させ、その枝が伸びている幹へと切り傷だらけの手を伸ばした。








 必死に木にしがみつき、その場を耐えること、どのくらいの時間が経過しただろう。たった数秒のようにも思えるし、何時間にも思えてくる。ただただしがみつくことに必死で、それ以外のことは記憶にない。

 もう烈風は止んでいた。

 久しぶりのように感じる地の感覚に足が弛み、思わずへたり込んでいた。猛烈なスピードと共に、向かってくるもの全てを全身で受け止めた証として、服は切り裂け、腕や顔、首まで至る所に切り傷が刻まれていた。特に右腕は傷が深く、流れ出る血が指先から滴り落ちていく。両手の指先は、決死の思いでしがみついた幹の樹皮によって擦りむけ、血塗れていた。



 一体、何が起こったというのか。

 愕然と辺りを見渡す。それは、森の奥方だとは信じ難い光景だった。


 周辺の木々はほとんどがなぎ倒されている。かろうじて残っている木は、そのどれもが葉を失い、廃れた色の樹幹だけが取り残されていた。



「…………ッ…ごふっ…げほっ…げほっ」


 突然の、込み上げるような苦しさに咳き込む。咄嗟に手で口を抑えれば、体内に溜まっていた血が吐き出たのか、手のひらが赤く染まっていた。



「……っ…くそ……何なんだ………………よ……」



 手のひらを見つめたまま固まる。一気に血の気が引いていく。




「……っ二人は………!!?」


 あの強烈な爆風の中だ。無事でいることの方が可能性は低い。早く、早く、家に向かわなければ。少しでも気を弛めれば意識が遠のいてしまいそうなほどの、激しい身体の痛みに鞭を打ち、よろけそうになりながら、残骸のような森の中を駆け出していく。額から垂れる血が目に入りそうになるのを必死で腕で拭う。踏み締める度に強い痛みを伴う右足は、いつぶつけたのか、ズボンの中で血が伝い、靴の中はぐっしょりと濡れていた。

 背中も後頭部も、ズキズキと一定の周期で何かに刺されるような痛さが続き、身体中が悲鳴を上げていた。何かの拍子に、自分が壊れてしまうような、そんな恐怖感で包まれる。

 それでも走るのだけはやめさせない。一度足を止めればもう、動けない気がしたから。痛みの悲鳴に気付かない振りをして、走り続ける。それなのに、走っても走っても、森が続いていく。距離が、強過ぎる風の威力を物語っているようだった。







 何度も何度も地面を蹴った。目には、屋根が剥がれ落ち、壁は所々が砕かれた、家と呼べるほどの原型を保っていない、見慣れた建物が映っていた。


 あと少し、あと少しと言い聞かせ、瓦礫で足の踏み場が不安定な森の地面を踏み締める。生きていてくれさえすればいい。生きていれば、何だって。

 気を抜けば目に絶望の色が映りそうになるのを決死の思いで奮い立たせ、前に進む。右足はもう、動きが鈍くなっていた。引き摺るように、一歩一歩、着実に進んでいく。




 つま先が、庭の敷地に踏み入れた。

 顔を上げたまま、動けなくなった。



 庭に、色が無かった。


 庭の裏まで隅々植えられていた色とりどりの花の、そのすべてが失われていた。綺麗に敷かれていたレンガも、アーチも、全てを失い、地面には根元から引きちぎられた花の残骸が、あちこちに飛び散っていた。地面は抉れ、緑と鮮やかな色が占めていた庭の半分以上が土色に染まっていた。

 かろうじて残っている花はあっても、花びらは全て散っているか、ほんの少しの枚数が残ってる程度だ。裏でもこの状況なのだから、表もきっと同じような有り様だろう。


 土にまみれて散らばる花びらを踏みながら、右足を引き摺って前に進む。目の前の現実を、受け止められていない。悪い夢を見ているような気分のまま、気持ちがずっと抜け出せない。心の中で渦巻き続ける感情が、吐きそうなほど気持ち悪くて、気を背けたくて、息を大きく吸って叫ぶように名前を呼ぶ。




「…エリゼさん!!!…っ…おじさん…!!!無事ですか……!?!居るんなら返事してください!!!」


 何度も何度も呼び続ける。心の底から叫べば叫ぶほど、身体中にどくどくと痛みが響き渡り、気を失いそうになる。

 早く、早く、無事を確認したい。ただただそれだけだった。


 少し前に起きた爆裂音が嘘なんじゃないかと思える程、辺り一帯に静けさが漂う。それなのに、反比例するように気持ちだけは焦っていく。

 ついに、家の前まで来てしまった。


「…っ…エリゼさん…!!!おじさん…!!!返事してください…!!!」


 もう何度目か分からない叫び声を上げる。


「…ッ……はぁっ……はぁっ……………げほっ…げほっ……っ」


 芝生の緑に血が落ちる。後に続くように、その上をぽたぽたと、痛みで吹き出た脂汗が流れ落ちていく。気が付けば、膝から地面に倒れ込んでいた。


「げほっ……げほっ………げほっ…………はァ………ッ……………………くそ………………っ……」



 地面に寝る足が、震えていた。

 考えないようにしていた最悪の想定が頭をよぎる。


 返事がないからと言って、まだ決まったわけじゃない。遠くの方まで飛ばされたまま、動けないのかもしれない。生きている可能性は十分に考えられる。


 それなのに、頭が勝手に、悪い方へ悪い方へと働いてやまない。



 勝手に働き続ける思考を止めたくて、思い切り目を瞑った。











(「…………そっちも早く休憩取って下さいね」)

 そう言ってその場を後にした、エリゼさんと話した最後の場面がまぶたに浮かぶ。



 あの時は確か、いつものように話を聞いていて………





 ………………そうだ……。森………森に………











 一心不乱に森の方へと駆けていた。不格好に崩れた体勢で、森の小道を突き進む。記憶にある、綺麗に整備された道とは違う。周りの景色も、森の残骸が散らばる道も、全てが風変わりした地面を踏み締める。


 全方位に気を張り詰め、見回しながら、ひたすら呼び続けた。

 進めば進むほど、広過ぎる森の、その途方もなさに気持ちが焦っていく。気色の悪い汗が頬を伝う。

 今はもう、声を上げることしか為す術がない。







 何度も呼び続けるうちに声が枯れ、かすれた声しか出せなくなった時だった。俺は一点を見つめたまま、硬直していた。目線の先には、道横の茂みに隠れるように、汚れたリボンが落ちていた。はっとしてすぐさま駆け寄る。




 毎日見てきたのだから、見間違えるはずがない。それは、エリゼさんの帽子に結ばれていたリボンだった。パッと見は土で汚れているものの、滑らかな質感や両端に小さくあしらわれた刺繍は確実にそれと分かるものだった。動揺で、息が詰まる。



 この奥に、もしかすれば──────




 確信はなかった。

 それでも、ひとつの希望にすがるしかない。俺はそれを握り締めると、深い森の中へと向かっていった。

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