ep.3

 

 グツグツと音を立てる鍋の中のシチューの、ほんのりと甘いミルクの匂いが部屋の空気を温かく変えていく。丸いテーブルの上には既に、刻んでバターで炒めたポテト、ベーコン、玉ねぎを卵で包んだ大きなオムレツと、庭のハーブがこんもり乗った大盛りのサラダが三人分並び、中央にはバスケットからいくつも顔を出したライ麦パンが、存在感を主張するように机の上を大きく陣取っていた。ノアと男性はシチューが出来き上がるのを待つそぶりも見せず、食べ始めている。

 エリゼは一度円を描くようにかき回してから火を止め、シチューを窪んだ木製の器具を使って、具材がたっぷりと入るように白い器へと掬ってやる。それからふたり分のなみなみと注がれた皿を持つと、二人の元へと運んでいく。

 まだ十分に飲み込まれていないのにも関わらず、次から次へと口にオムレツを運ぶノアの前に、コトリという音とともに湯気の立ったシチューが置かれる。ノアはシチューを視界に入れると、すかさずスプーンを持つ手を伸ばす。その食いっぷりにエリゼは少しご機嫌になりつつ、男性の元にもシチューを置いてから自分の分を取りに、再びキッチンへと向かった。

 エリゼがようやく席につくと、ノアと男性はもう既に大半を平らげており、シチューで温まった身体を頬の赤らみが証明していた。男性は一口が大きく、またあまり咀嚼することなくすぐに飲み込むようにして食べるため、一見勢いよく食べるノアの方が速く見えるが、あまり大差はないのだ。そんないつもの二人と共に、エリゼも大きな口で食べ進める。





「………それにしても、早いものね。ノアがもう15だなんて……少し前まで一人で立つことすら出来なかったのに」


 エリゼは自分の分を二、三口味わうと、しみじみとした様子で語り始めた。


「いや、それは言い過ぎですよ」


 エリゼの発言に、すかさずノアが反応する。


「大人になるとね、時間の進みのが速いのよ」


「へーー、そういうものなんですか」


「そういうものなの。」


 ね、と同意を求めるように、エリゼは斜め向かいに座る男性に語りかける。食べ終わった食器を前に水を飲んでいた男性は、ぐびりと喉を鳴らしてから口を開いた。


「そうだな……。もうお前も15か………。思っていたよりずいぶんと早い」


「ねぇ……本当にあっという間。」


「………………ノア、お前もういい加減、独り立ちしてもいいんじゃねぇのか?」


 男性の言葉に、ノアは口の横にオムレツの卵を付けたまま、残り少ないシチューの皿の上から顔を上げた。


「それ最近すげぇ言われんだけどさ、俺はなんつーか……まだ全然出てく気ねぇし。村のやつらみんな会う度言ってくるから、俺が出て行くの待ってるように聞こえんだけど。」


 常々感じていた不満をぶつけるノアのその返しに、エリゼは手に口を当てて嬉しそうに笑い声を零した。


「ふふっ、違うわよ。この田舎ではみんな大きくなったらすぐ出て行っちゃうから、いつまでも居てくれるノアが珍しいのよ。若くて力があるノアに、むしろみんな助かってるほうよ。水やりだって毎日欠かさず手伝ってくれるし。本当に感謝してるのよ。」


「いーや、前あそこの角の家のおっさんに言われた時はそんな感じじゃなかったな。もっとこう……まだ出て行かねぇのか?って言いたげな顔で、しつこく問い詰められましたからね」


 ノアはその時の表情を再現しながら、身振り手振りで話していく。エリゼは笑いを堪えるのに必死で、スプーンを持つ手が止まってしまっている。


「ふっ……もう笑わせないで。確かにあそこのおじ様が言いそうなことではあるけれど。


 …でも、なんだか嬉しいわ。ノアがまだこの家に居てくれるなんて。私達は居てくれる分にはとても助かるけれど、出たくなったらいつでも言いなさいね。私達があなたをここに縛り付ける理由なんて、一つもないんだから。」



「その通りだ。出たかったらいつでも言え。全く考えてないってことはないんだろ?」


 男性がノアの目を射抜くように見ながら、エリゼに続ける。


「…いやまぁ、なんつーか………


 考えてるのは考えてるけど……別に俺、ここが退屈って訳じゃねぇし…」


 左手を皿に添えたまま、少し俯きながら考えるように告げるノアの人差し指には、ディテールの凝った黄金色のリングが小さいながらもひときわ存在感を主張している。中央にはまるで、若々しく萌える鮮やかな山々を、透き通るような群青色の空と共にそのまま閉じ込めたかのような、深く澄んだ色の石が嵌め込まれている。

 その石と同じ色を持つ瞳のノアは、少し指輪を見つめて一度瞬いてから顔を上げると、また口を開いた。


「それに、まだ教わりたいことも結構あるし…だから、さっきも言ったように、すぐに出て行くとかは考えてねぇかな。」


 ノアの口から発せられた言葉はどれも本心から来るもので、本人の記憶にある限りでは一度だって目の前の2人に嘘を付いたことはない。ただ、いつだって、この小さな家に心を引き留めさせる一番の大きな要因は、まだ見た事もない親の存在だった。照れくささから来る恥じらいで、なかなか自分の口から表に出す機会はなかったものの、いつか自分の元へ会いに来るかもしれない親との再会を待ちながら、日々の生活を過ごしていた部分があるのだ。生まれ育った故郷はここで、帰る場所もこの家であることに変わりはないが、心の奥底では、本当の生まれを知りたいという思いが燻り続けていた。

 そんなノアの思いを全て肯定するかのように微笑ましく見つめていたエリゼは、ノアに語りかける。


「ふふふ。そうね、教わりたいこと…例えば…………


 口の横に卵が付いてる…とかね」


「………は?どこ!?こっち!?!」


「ふふ、全然違うわよ」


「ここだ、ここ」


 男性が自分の顔で卵が付いている場所を教えてやると、ノアは同じ位置にすかさず手を伸ばし器用に口へと運ぶ。すっかり話に夢中になってしまっていたエリゼは、ようやく目の前のシチューに集中し始める。

 しかしその後も3人での会話は続いていき、エリゼの花の話や、少なくなってきた資材の話、そして今夜の料理の話など、話題は尽きないようである。食後はこうしてしばらく3人で顔を合わせて話すのがここでの日常となっている。


 小さな家から、楽しそうな声が漏れていく。暖かい陽射しの中、穏やかな時間だけがゆったりと流れる光景は、いつもと何も変わらない。

 平穏な暮らしに、温かく澄み切った空気。少し不便だが素朴なここでの生活をノアは気に入っていた。






 ノアが、この家で暮らすようになってから15年。


 出生を知る手がかりは、まだ一度も掴めていない。

 あるのは、ノアと同じ瞳の色を映す指輪。

 そして、生まれて間もない赤子が、冷たい雨の日に置き去りにされていたという事実だけ。














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