マジェスティック・フロレゾン
飴山
ep.1 Prolog
まるで空気が頬をついばむかのような、ひどく冷えた雨夜だった。
所々にぽつりと灯る家はあるものの、草木が大半を占めるこの田舎町では、夜中に出歩く者──ましてや今夜のような悪天候の中、外に出る者などいないに等しい。
だからであろうか。この冷たい夜道に裸足で駆ける一人の女性の姿を、まるで面白ずくかのように、雨風によって打たれる草木の音がいつも以上に大きい。
何をそんなに、慌てることがあるのか。穏やかな日々に慣れ親しんだ樹木が、問いかけるようにザワザワと気味悪く揺れ、女の額にいくつもの水滴を落とす。女の顔は、噴き出す汗や、ひっきりなしに降り注ぐ雨粒、それから樹木から零れる大きな水滴によって、まるで水の膜が覆っているようだ。肩甲骨のあたりまで伸びた髪は、吸収できる水分量をゆうに超え、いくつかの束になって鈍く揺れている。身に纏う一続きの服は既に多くの水分を含んでおり、跳ね返った泥が白い布地に容赦なく汚れを作っていた。
そしてその両手には、落とさぬようにしっかりと抱きかかえられた赤子がひとり。ぐっすりと満足そうに、この冷たい雨の中ですやすやと眠っていた。体温が逃げないように柔らかい布で何重にも包まれ、鼓動は一定のリズムを刻んでいる。
女性がこの暗い雨の中、赤子を抱えて走っている、という点だけでも異様であるが、とりわけ奇妙なのは、赤子の周りを浮遊するキラキラとした粒子だ。まるで赤子を守るかのように雨風を弾き、少しの雨粒も当てさせないでいる。赤子はまるで眠りの魔法をかけられたかのように、この状況でも起きる気配がない。
灯りが徐々に少なくなり、どれだけ走った頃だろうか。
風で揺れる度不気味な音を響かせる生い茂った木々に、そのまま飲み込まれてしまいそうになるような長く暗い道を抜けると、ひとつの明かりが暗闇を照らすように、ぽつりと灯っていた。
息を切らした女は足を止めると、その明かりの先をしばし見つめた。それから女は何かを決意したかのように口を固く結ぶと、泥にまみれた足をゆっくりと動かした。明かりに向かって、歩みを進めていく。
近づくにつれ、明かりのもとが徐々に鮮明に見えてくる。村から外れた場所にひっそりと建っている、こじんまりとした小さな家。女は、目線ほどの高さの木製の門の前に立つと、片手で扉に少しの力をかけた。途端に、ギリリと音を立てながら門が開く。このような奥地では警戒する必要がないのか、門に鍵は掛かっておらず、いとも簡単に開いてしまった。女の背後からは、事の顛末を見守るかのようにザワザワと木々の音が響く。女は開いたことを確認すると、すかさず家の敷地に入り、その広い庭を見渡した。
庭は見える範囲だけでも家の何倍もの広さを誇り、その広大な敷地を埋めるかのように、花々が所狭しと並んでいた。女は、家の小さな窓から漏れる小さな灯りを頼りに、低木の足元に置いてある小さな木箱を見つけると、すぐさま駆け寄った。両膝を躊躇いなくぬかるんだ地面につけ、寒さで赤く震える手で木箱の中にゆっくりと赤子を下ろしていく。
赤子は女の手から離れてもなお、木箱の中で起きる気配はなく、未だぐっすりと眠っている。女はその幸せそうな寝顔を確認すると、赤子の頭を少し撫でてから、名残惜しそうに手を離した。そしてその手で右側のポケットから一つの指輪を取り出すと、赤子の足元に置いた。
少しの間赤子の顔を見つめてから、木箱の蓋をゆっくりと上に重ねると、女は意を決したようにすぐさま立ち上がり、門の方へと体を向けた。
そして女は、一度も振り返ることなく門の外まで出ると、また暗い夜道をひとり駆けていったのだった。
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