第20話 弱みを得るための代償
集中していると気づけないもの、それが眠気である。すでに夜の11時を回っており、いつもの就寝時間をとうに過ぎている。
(そういやコイツ、寝る時間がきっかり決まってるんだっけ)
ぐらんっと雨ケ崎の頭が揺れるのを見て、そんなことを俺は思う。
彼女の姿勢は大きく崩れて、後頭部をベッドに預けたまま天井を眺める瞳がゆっくりとまばたきしていた。
「ブラッシング、それと歯みがきを忘れたのか?」
「……忘れていないわ。言いつけはきちんと守らないと」
言いつけ? 変わったことを口にするやつだな。
いや、俺はどこかで同じ言葉を耳にした。それがいつだったかというと、隣の席に座る転校生がまったく同じことを口にして……。
「誠一郎……」
伸ばされた手がそっと俺の肩に触れて、思考は中断される。いつもより体温が高く、睡眠を欲しているとわかるものであり、また閉じかけの瞳は話すのもおっくうそうだった。
放っておいたらずり落ちて、そのまま床で眠りかねない。見かねて「仕方ないな」と俺は呆れのため息を吐く。
「ま、こういうときは幼なじみも役に立つな。どうして欲しいかすぐ分かるしさ。イザベラ、そこをどいてやってくれ」
ぽんと黄金色の毛並みをしたイザベラに触れると「なぁに?」と顔を上げる。彼女の温かい太ももを独占してすっかりご満悦だったらしく、犬でも寝ぼけた顔をしていた。
やはり眠いらしくのっそりとした動きで膝から立ち上がると……うっお、どいたら、いかにもやわらかそうに丸みを帯びたパンツが……!
うぉっほん、と意味もなく咳払いをする。
そういうところだ。そういうところがダメなんだぞ。いっつもツンケンしてるくせに、基本的なところで隙だらけなんだよ。
たまにならいいし、いまは仕方ないから許すし、まだ休んでいて構わないし、あとちょっと脚を開いてくれたらパーフェクトなんですけど。
などと欲望に屈しかけながら俺は口を開く。
「う、雨ケ崎、お色気装備はゲーム内で着るものだぞ」
「誠一郎、早くそこのブラシを取って」
「あ、ああ……」
まだ己の姿に気づいていないらしき雨ケ崎がそう言う。いや、片膝を立てる仕草によって裾がめくれあがり、露わになった太ももが女子高生らしからぬ色気をかもしだす。
すべすべの太ももには、たぶん異性を引き寄せる魔力のようなものがあるんだ。そうでなければこの俺が真っ白でまぶしいとは思わないし、ましてやこのやわらかな曲線を指で撫でたいとも思わない。
特に食い込んだ三角形の領域は理想的なまでであり、手渡したブラシをつかみ、黒髪をすいていく様子を俺は呆然と眺めていた。
(俺、本当にこいつと一緒に寝れるのか?)
そんな素朴な疑問が浮かぶ。
なぜそう思うのかというと、背中を見せる彼女が黒髪をブラッシングするあいだ、きれいな脇の下の向こうにぱつっと膨らんだものが見える。
頭がぼうっとするのはたぶん彼女の甘い香りが漂っているからで、今度はそのほっそりとした首筋に視線が吸い寄せられてゆく。
幼なじみという点と性格の悪さを除けば、こいつはかなり可愛い。そんなことは学校で毎日のように告白されている時点で分かっているが、問題は俺の好みのドストライクだということだ。
だから、もうすぐ一緒に寝ても本当に平気なのかという疑問が浮かぶ。いや、泊まるよう挑発ぎみに言ったのは俺だけどさ。
でも今夜は両親もいない。無防備で無警戒で、桃色のネグリジェから伸びた太ももを隠すそぶりもない。そんな姿をしているんだぞ。
テーブルにブラシを置くコトンという音を聞き、俺は我に返る。
しかし戻った理性は長く続かない。こちらを振り返る雨ケ崎が両手を伸ばして、無防備に身体を預けてきたんだ。
「誠一郎、すごく眠いわ」
そう耳元に囁かれて、途端に女の子の香りに包まれてクラッとする。
はて、これが本当にただの女子高生だろうか。肩に顎を乗せてきて、胸の重みさえ預けられている。意味もなく両手の指を宙でわきわきさせている俺には、もうほとんど理性が残されていない気がした。
「ね、眠いときはどうするんだ?」
やっとの思いでそう尋ねると「んーー?」と頬同士を触れさせながら雨ケ崎は唸る。そして温かい吐息ごと俺の耳にこう囁きかけてきた。
「どうするのって、どういう意味?」
ゾクリとするほどの色気が声にはあった。たくさんのことを妄想させる力があったし、密着した肌がだんだん熱を帯びてくる。ぽかぽかして温かく、そして触れてくるところ全てがやわらかい。
あーー、心臓がバクバクする。
息も荒くなるし、そのせいで雨ケ崎の甘い香りをさらに吸い込んでしまう。
視線の逃げ場を求めて彼女の背筋を見下ろすと、ぎゅっとくびれた腰と大きなお尻だと分かる皺が生まれており、そのエッチさに胸が高鳴るのを感じた。
がらにもなく「いや、その」と言いよどみ、ようやく俺は言葉を口から出すことができた。
「眠るために、あとはどんな準備がいるんだ?」
「ええ、歯を磨いてからベッドに入らないといけないわ。でもその前に誠一郎、あなたに見せたいものがあるの。右を見て」
すうすうという寝息に近しい呼吸をしながら彼女はそう言う。
はて、右を見ろとはどういう意味だ?
抱きつかれたまま右を見ると、そこには四角いものがある。俺、そして雨ケ崎が抱きついている様子を映し出すこれは……ゾッとした。スマホだ。
――カシャシャシャッ!
「あっ、あーーっ! 速写しやがったこのアマああーー!」
「ふふ、このときをずっと待っていたわ。誠一郎が油断して、だらしなく鼻の下を伸ばした瞬間をようやく、手に、手に……」
桃色のネグリジェは魔性だ。特にこの色気の強すぎる幼馴染の場合は。
のしっと胸の重みを預けたまま雨ケ崎は勝利宣言しかけたが、しかし言葉は途中でか細くなりついには消えてしまう。
かっ、かああっと頬は赤くなり、頭から湯気が出そうなほど雨ケ崎は恥じらいの表情を浮かべる。
唇をパクパクさせている理由は明白で、お腹まで隙間なく抱き合ってしまったからこそ俺の変化が相手にもしっかり伝わってしまったのだ。
くるんと真下に瞳を向けた雨ケ崎は、頬を真っ赤にさせており明らかに戸惑っていた。
その通りだ。言いたくても言えない大人だか子供だか分からない事情が俺にはある。というか頼むから黙っていてくれ。
「あっ、こっ、これっ、なに!?」
「だから黙っていてくれってばよ!」
お互いに目をぐるぐるさせながら、アレだのコレだのと代名詞を繰り返し口にして、ようやくぱっと雨ケ崎は身を離す。それから全身の力が抜けたらしく、ぺたんと床に女の子座りをした。
はーーっ、と熱っぽい息を吐いてからようやく彼女はこう言う。
「
己の華奢な身体を抱きしめる雨ケ崎にそう罵倒された。いまので完全に眠気が吹き飛んだらしく、また色白なぶん頬は真っ赤に染まって見える。
一方の俺もショックを受けていた。
猥褻ってなに? 陳列罪とかそういうやつ? お前だってそうじゃん。部屋では邪魔だと言ってブラを着けようとしないから、ふにゃんっとした感触になるんだし、そんなの全身猥褻物じゃん。
いや、待てよ。これはこれでチャンスなのか。言うまでもなく毒のある言葉を浴びれば俺は萎えるし、もっと強く言ってくれれば必ず元どおりになる。
「頼む、雨ケ崎。その調子で罵倒してくれ」
「…………!!」
おおっと、いまのは完璧に間違えたっぽいぞ!
ぞわりと悪寒の走った様子を見るまでもなく、彼女にあらぬことを連想させてしまった。つまりは俺のことをマゾかなにかだと思っていやがるんだ。
「ごめんごめん、でもその汚物を見るような目つきはいいぜ。悪くないし、だいぶ萎えた」
「な、萎えたってどういう意味かしら。ふん、口でいくら言ったところで、誠一郎がだらしない顔をしていた証拠がここに、あ、る……」
得意げな表情で手元のスマホを目にすると、雨ケ崎の声は再び小さくなってゆく。
どれどれと覗き込んだ画面には、言うまでもなく俺のだらしない表情が映し出されている。思わず死にたいと呟きたくなるほどの表情だ。
しかし無口になった雨ケ崎は、かーっと顔をさらに赤くさせる。
彼女にとって誤算だったのは、その色気たっぷりネグリジェだ。暴れたぶん胸元の谷間を強調する姿勢になっており、またどう見たって抱きついているのは雨ケ崎である。こんなの「彼氏を誘惑完了しちゃいました♡」の絵にしか見えないよ、君ぃ。
「う、あ……」
ぽすんと煙が出そうなほど雨ケ崎は真っ赤だ。
女の子座りをしたまま食い入るように画面を見ており「あ」とか「お」とかのうまく聞き取れない声を出す。
こんなの俺が見ていられないよ。だって震える指で消去ボタンを押すか押すまいか苦悩しているんだし。
望み通りの証拠を手にした。しかしそれは己にもダメージのあるものだった。
このような場合はどうすべきか。答えは簡単。やはり彼女はピッと電源を切り、おほんっと咳払いした。
「これは見なかったし、私たちの世界には存在しない。そういうことでいいわね?」
胸の上で指先を広げるという不思議なポーズを取りながらそう提案されたけど、それよりもきちんとデータ消去していたのかがすごく気になるよね。
そう思い、おそるおそる指先を向けると彼女はスマホをさっと隠す。さっ、さっ、と2度ほど繰り返されて……諦めた。
くそっ、まだ残っているのなら貴重なネグリジェ姿を俺のスマホに保存したかったのに。
「だな。とっとと寝ようぜ」
がっくりとうなだれながら俺はそう言う。
寝よう。そして忘れよう。生き恥としか思えない写真のことはすっぱり忘れて、またあのつまらない学校に行こう。
偉そうに言ったけどさ、結局は「男と女の違い」なんて伝えられなかったな。いつものように毒を吐かれて、ゲームで喧嘩して、眠くなったら寝るという自堕落な一日だった。
などとベッドにごろんと寝転がりながら俺は思った。
夜中、真っ暗な部屋にぼうっと明かりが灯る。
その光源は背を向けた雨ケ崎が手にしたスマホであり、誰もが寝静まった時間に写真を一枚ずつめくっていく電子音がかすかに響く。
どっどっどっ、と雨ケ崎の心臓が鳴る。
吐き出した息は熱っぽくて、薄暗いなか彼女はこうつぶやいた。
「男と女の違い、かぁ」
それは戸惑いと恥じらいを十分に感じさせる声だった。そしてまた女性としての色気を含んでいたのだが、当人だけは気づけなかった。
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