私と結衣と、そしてザグル(6)

「ま、だからザグル君が羨ましかったんだけどね」

「は、はぇっ、ザグ?何でそうなるの?」


 唐突に切り替わった話に、私は一瞬何を言われたのか理解できなかった。

 どうしてここでザグルの話になるんだろうと考えていると、結衣は不意にニヤッと笑った。


「だってゆっきー、すぐにあたしに相談してきたじゃない。この人どういう人なのーとか、稀人ってなにーとか、作品の内容まで知りたがったりしてさ。ファンタジーなんて受け付けないって言ってたのに、全巻読んじゃったし?」

「当たり前でしょ、一緒に生活するのに何も知らないじゃ話にならないし。最初は何考えてるのか分かんなくて困ったのよ」

「だからさー、調べる前に家に上げちゃってたよね?やっぱり一目惚れだったの?」

「ちょっ……なんでそういう話になるの!?もうっ、真面目な話してるのに急に変なこと言い出さないでよ!」


 ああ、またいつもの絡み癖か、と私は頭を抱えた。

 昔から暗い顔は半日も続かない結衣は、落ち込み過ぎる心配もないけれど、元気が戻ると必ず私に絡んでくる。

 しかもこういう時の結衣は地味に正論で攻めてくるから厄介だ。


「あたしだって真面目よ。あの姿じゃ化粧しようが洋服着ようが誤魔化せないし、普通の人ならオークなんて見かけたら逃げるわよ。なのに彼は一番最初にゆっきーと会えたの」

「会えたって言うか、びっくりして探しに行ったら人気のないとこに転がってたんだもの」


 まるで運命の出会いだとでも言い出しかねないノリだけれど、ザグルが現れたのは住宅街の生活道だから人通りは元から少ないし、たまたま私はベランダに居たから気付いただけだ。


「自分から探しに行ったなんてますますできた話じゃない!しかも全然驚かないで心配してくれる人とすぐ会えるなんて、それ以上の幸運があるわけないわ」

 結衣は両手を合わせて夢見る乙女のような顔になってしまった。

 こうなっては話が一段落つくまで落ち着きそうにない。


「でもさ、寒空にあんな恰好で倒れてたら誰だって心配すると思うけど」

「心配するまではアリだけど、すぐ家に上げて介抱して、身の処し方まで教えたりする?」

「まぁ確かにね、初対面の時にすごいこと言ってたし」


 少なくともザグルが人間だったなら、あんな事を言われればすぐに警察を呼んでいたと思う。

 と正直に話すと結衣はますます目を輝かせて私の顔を覗き込んできた。


「でしょ?何でそこでビビってないの?」

「うん……、何で怖くなかったのかは不思議なのよね。時々考えるんだけど、割と冷静じゃなかったんだと思う」


 あの時真っ先に頭を占めたのは、放っておいたら彼は大変な目に遭うだろう、という心配だけだった。

 自分の身の危険を顧みる余裕くらいはあった筈なのに、そもそも意識に上らなかったのだ。


「だーかーら、言ってるでしょ?一目惚れじゃないのって」

「飛躍し過ぎよ、結衣ってば少女漫画の読み過ぎじゃない?」

 否定しつつも、そう言われれば納得できる気がしないでもなかった。


 初対面の、明らかに苦手なファンタジーの存在で、鬼のようなご面相の、全然タイプでもなさそうな若い男。

 困っているからといって、咄嗟に「何とかしてあげなきゃ」と思うような要素は微塵もない。


 ただ今も印象に残っているのは、私をエリスと勘違いして詫びた、酷く悲しげな声と言葉だった。

 あの瞬間に自分の中に沸き起こった気持ちを一言で説明するなら、確かに一目惚れと言うのかも知れない。


 納得しかけたところで、結衣は立ち上がってもう一杯ゆず茶を淹れてくれた。

 その瓶をもう一度よく見ると、ラベルが透明なのは上3分の1くらいまでで、下へ行くにつれてオレンジ色のグラデーションが掛かっている。

 その色が付いた下半分に書いてある文字は辛うじて読める。一番下の行を見ると、どうも最近開店したお茶屋さんのものらしいと分かった。


 ラッピングに使われていたベロアの袋も、そのまま小物入れに使える柔らかな生地で、凝った印刷のラベルも含めてかなり女性向けな雰囲気の店を連想させた。


 その華やかな店内に、フードを目深にかぶって顔の下半分をマスクで隠したザグルが立っているところを想像する。

 極端にアウェーだ。殴り込みにしか見えないし、本人もだいぶ気まずかっただろう。

 それでも彼は、結衣のためになるものを探しに行ったのだ。


「でもやっぱりタイプじゃないんだよね。可愛いとは思うし安心感もあるんだけど、恋のときめきとは違う気がするって言うか」


 腕をコタツに投げ出して頭を乗せながら、何とも言えない整理のつかない気持ちを持て余していると、結衣は私とは反対に手を腰に当てて背中を伸ばした。


「何言ってんの、もう二十歳はたちの頃とは違うのよ。10年前なら肉とか揚げ物とかガツガツ食べるのが最高だったかも知んないけど、今は野菜と煮物が一番でしょ」

「いや私、10年前でも野菜の方が好きだったよ」

「あー、だよね。ゆっきーって青虫かと思うくらい、いっつもサラダ食べてたもんね。いつになったら蝶になるの?」


 そんなこと思ってたの、と言いたくなったけれど、思い返せば確かに学生時代はサラダばかり食べていた。

 学生食堂のメニューは大抵どれも味が濃くて、肉料理は揚げ物がメインなので、食欲がないとサラダバーくらいしか食べられなかったのだ。

 よく向かいで一緒に食事していた結衣には、その時の印象が強かったのだろう。


 その食堂は、学生時代の私のバイト先であり、元彼と出会った思い出の場所でもある。

 出会った頃の記憶は幸せなままで、そこは私にとって今でもどこか温かな場所だ。



「ゆっきー、この際だから言うわ。寝室にいつまでも置いてるぬいぐるみは早く処分しなさい」

「えっ、何で知ってるのそれ!?」

 まるで私の思考を読んだかのような事を言われて、思わず体を起こした。


「先週行ったばっかりでしょ、ドアの隙間から見えたわよ」

 いきなり指摘された事実に、心臓が3センチほど跳ね上がった気がする。

 確かに私の枕元には、9年前からクマのぬいぐるみがずっと置いてある。

 ドアを開けたほんの数秒の間にそれを見られていたなんて、結衣の目はさすがに侮れない。


「あれは朋也がくれた唯一のプレゼントなのよ、確かに目につくとこに置いとくのはどうかと思ってたけど、捨てるに忍びないし」

「だから捨てろって言ってんの。自分を捨てた男のプレゼントなんて後生大事に持ってちゃ、次の男が入るスペースが空かないじゃない」

「う、うーん……。考えてみる……」


 結衣の言う事はもっともだ。自分でも薄々分かってはいた。

 私の胸の内には、3年前に別れた元彼の朋也が今も居座っている。


 大学に入って2年後に知り合った人だから、それから別れるまでの6年もの間、私の心を占めていた人なのだ。

 誰かを好きになりそうになると、朋也との思い出がふっと頭をよぎって、無意識のうちに比べてしまう。

 そしてその居心地の良さを思い出してしまうと、目の前の人がそこに入ることに抵抗を感じて、一向にその先へ踏み出せなかった。


 もう捨てる時が来たのだろうか?

 どんなに思い出しても戻らない幸せな記憶は、けれどそれさえ無くなるのが怖くてどうしても手放せなかった。


 青虫は蛹になると、それまでの自分の全てをリセットするように形を失くし、やがて自身を再構成して翅を持つ蝶の姿になるという。

 私が今も手放せないでいる思い出は、そんな風に綺麗に昇華できるんだろうか、と考えてみてもよく分からなかった。


「ほら、これ飲んでそろそろ帰りなよ。暗くなる前に家に着いた方がいいでしょ?」


 コタツの上で腕を組んだまま考え込んでいると、結衣は私の前にカップを押し出した。

 時計に目をやると3時を回っている。ゆず茶はもう3杯目だ。

 よほど気に入ったのか、結衣も自分の分を淹れて息を吹きかけている。


 両手でカップを包むように持つと、ジンジンするような熱に指先の血が脈打つのを感じた。


 この熱はザグルがくれたものだ、と不意に思った。

 朋也と通ったカフェにはなかったこのお茶は、ザグルによって初めて私の思い出の外からやって来た。

 異世界ファンタジーを真剣に読んだのも、熱を出した自分を見て泣くほど心配されたのも、友人が隠していた秘密を知ったのも、そもそも人間ですらない稀人と出会えたのも、全部ザグルがくれた初めての思い出だ。


 30年かけて積み重ねた思い出の中にはないものを、彼はこれでもかと私に与えてくれている。

 まだイメージは湧かなくても、蝶になる日は私の中で、確かに巡ってきているのかも知れない。


「ありがとね、結衣。ちょっと頑張ってみる」

 何を、と言わずとも心得た顔で、結衣は笑って頷いてくれた。

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