稀人オークと三十路の乙女
しらす
稀人ザグル
第1話 稀人がやって来た(1)
「はい、お茶どうぞ。熱いから気を付けてね」
コン、と軽く音を立ててテーブルに湯飲みを置くと、その端で背中を丸めていた男がむくっと体を起こした。
「おう、あんがとなユキ」
ポットから出したばかりの熱々のお茶は、暖房の効いたファミレスの店内でも分かるほど湯気を立てている。
振り向いた彼は袖の中に引っ込めていた手を伸ばし、大きな両手で湯飲みを包むように持つと、窓の外に目をやった。
「しっかし何だよこの白いの……つめてぇし」
顔を顰めてぼやくその視線の先で、白いものがちらちらと舞っている。
最初にそれを見た時は心なしかはしゃいでいたのに、いざ体に降りかかると彼はその冷たさに飛び上がり、屋根のある所へ行こうと私の手を引っ張って、ここに逃げ込んで来たのだ。
「ザグは雪を見るの初めてなんだっけ? こういう寒い時期はよく降るよ」
指先が冷えた私も、彼に倣って湯飲みを両手で握りながら空を見上げた。
日は高く、雪が降っていると言ってもすぐに地面に溶けていく程度のものだ。数十分もすれば止みそうな気配である。
などと考えていたら、彼は興味深そうな顔で私に視線を戻していた。
「ユキ? お前の名前と同じか?」
「そう、その雪。でも雪はそんなに好きじゃないけどね」
私の名前は
けれど最近は私より寒がりな連れに急かされて、早々に暖を取るのが習慣になっている。
その連れはというと、文字通り見上げるような巨漢だ。
どれくらいかと言うと、椅子に座っていても私とは目線の高さがが合わないほどに。
当人は「これくらいが普通だ、お前が小さすぎるんだよ」なんて言うけど、2メートルを超す長身は、隣に並ぶと小柄な私の体の倍はありそうに見えるし、手足も頭も当然のように大きい。
筋肉質な腕は私の太ももくらいはありそうで、その腕を通せる上着を探すのが一苦労だった。丈はあっても腕が通らない服に難儀し、日本サイズの服はとうに諦めている。
私はお茶をすすりながら、窓の外に視線を戻した彼の横顔を眺めた。
この国では10人いれば9人には鬼だと思われそうなその顔は、肌の色からして赤黒い。
四角い顎に口からはみ出す牙に爬虫類めいた鋭い目つき、そして尖った耳という恐ろしげなパーツが揃った顔は、外を歩くときはマスクとフードで隠していないと警察を呼ばれてしまう。
ちなみに今はニット帽で隠れているけど、両サイド刈り上げた頭にはタトゥがいっぱいだ。
角が生えていないのがいっそ不思議なくらいで、体格の良さも相まって見た目は鬼っぽい。
雪に気を取られたままお茶に口を付けた彼は、「あちっ!」と小さく叫んで顔を戻すと、眉間に縦皺を寄せて湯飲みを睨みつけた。
そういう顔をすると、それでなくともいかつい顔にさらに迫力が増してしまう。
そのせいばかりではないと思うけれど、さっきから隣の席のカップルの視線が痛い。
そう、彼は現世の住人ではなく、そもそも人間ですらないのだ。
ザグルという名の彼は、「イズワス・エピック」というファンタジー小説のキャラクターで、おとぎ話にしか出てこないはずのオークと呼ばれる種族の青年である。
彼のような存在は、この国では「
昔から稀人は時折り各地に現れたと言われているが、その存在がはっきりと確認され、保護されたり調査されたりするようになったのはつい最近のことらしい。
そのため彼らが果たしていつから現れていたのか、どうしてこの世に現れるのかなど分かっていないことは多い。
私もそういう存在がいると聞いたことがあるだけで、正直なところ都市伝説の類だと思っていた。
実際に彼が目の前に現れるまでは。
それはひんやりと冷たい空気に包まれた11月9日の朝のことだった。
あまりめでたい気分にもなれない30歳の誕生日を迎えた私は、いつものように家事を済ませて、狭いアパートのベランダで、干した洗濯物に埋もれながら片づけをしていた。
その時急に日の光が陰り、ふと顔を上に向けると空一面に黒い雲が湧いていた。
干していた時は雲一つない快晴だったのに、急に天気が変わったのに驚いて立ち上がると、たちまちバケツをひっくり返したような雨が降り始めてしまった。
どうしよう、いきなり降り出すなんて、と私は少し焦った。
ベランダの上に屋根はあるから、風がなければ雨には当たらないかもしれないし、通り雨かもしれない。
そう思ったのものの雨脚は激しくなるようで、このまま外に洗濯物を出しておくのはまずい気がした。かと言って、部屋干しできるような場所はほぼ無い。
恨みがましく空を睨んだその時、突然目の前に真っ白な光の柱が立った。
「うわっ‼」
悲鳴を上げるなら「きゃあ」とか言えれば可愛げもあるのに、と自分でも思うような声が出て、後ずさりしたせいで洗濯物が背中に絡んでしまう。
そのせいでよろけて、更に後ろにあった洗濯籠に躓き、お尻から勢いよく突っ込んでしまった。
「いったああああ!」
朝っぱらから洗濯籠にハマって転んで背中を打つ姿なんて、もし人に見られていたら今すぐ穴を掘って埋まりたい。
幸いと言うべきか独身一人暮らしの私は、せいぜい隣と階下の住人を驚かせる程度で誰にも見られる心配はないのだが。
なんとか籠からお尻を抜き、よろよろと立ち上がったところで、しかし一つおかしなことに気が付いた。
「あれ、音がしてない……?」
てっきり雷だと思ったのに、しかも目の前が真っ白な光に包まれたのに、それらしい音は何も聞こえなかった。
悲鳴をあげて後ろに倒れて痛いと叫んで、と大騒ぎしていたのは私だけで、外には様子を伺いに出てくる人の声すらしていない。
あまりに大きな音で耳が聞こえなくなったのかと一瞬思ったけれど、自分が立てた声と物音はきちんと聞こえたのだからそれも違う。
じゃあ一体何だったんだろう、と再びベランダに戻り、光の柱が立ったように見えた表の通りを見下ろして、思わず息を飲んだ。
突然の雨で真っ黒に濡れた目の前の道路に、誰かが倒れているのが見えた。
それもかなり大柄な男性が。
日は陰って真っ暗だし、雨もまだ降っていてよく見えなかったけれど、11月という寒い季節にもかかわらず、ほとんど服は着ていないし、顔色もかなり悪く見える。
私は咄嗟に手近にあったフリースのブランケットを引っ掴んで外へ飛び出していた。
階段を駆け下り表の通りへ出てすぐ、その人影は見つかった。
地面にうずくまるように横向きに倒れ、こちらに向いている足は裸足だった。
着ている服は用を為さないほどボロボロの泥だらけで、冷たい雨に肌が晒されていた。
ぴくりとも動かないその様子に、今にも死ぬんじゃないかという気がして、私は急いでブランケットを広げて駆け寄った。
そしてようやく顔が見えた瞬間、その場に凍り付いてしまった。
遠目には大柄な人間の男に見えた彼が、明らかにそうではないとその時はじめて気が付いたからだ。
もぞり、と横向きに倒れていた体が動き、こちらに気付いたのか彼は顔を上げた。その肌は赤黒く、寒さで顔色が悪いのかと思っていたけれど、近くで見ると元々そういう肌の色なのだと分かった。
薄く開いた目からは、まるで猫のような細い瞳孔をした金色の瞳が見える。
ぎらりと光ったように見えたその目に足が竦み、その場から動けずにいると、彼は筋肉質な腕を重たげに上げて私の方へ伸ばしてきて、不意に口を開いた。
「エリス……ごめんな」
両端から白い牙がのぞく口から、想像もできないような穏やかな声と言葉が聞こえてきた。
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