◆Episode.42 空の旅が終わったら◆
理宮と市村を乗せた観覧車はゆっくりと回り、時計で見ると十時の頃に見える辺りまで二人の乗る籠を運んでいた。
「高いですね」
「高いね。百メートルだったかそれくらいあるそうだよ」
「へぇ。流石、日本一だっただけありますね」
「そうだね」
理宮はそこまでで会話を一度終わらすと、市村の座る座席に近づいた。
「うおっ!?」
もちろんのことだが、籠は揺れる。わずかだが、市村の座る方へ籠が傾いた。
「おや、どうしたんだね。まさかこれくらいのことで怖いなどと言うんじゃあるいまいね」
「いや、驚いただけですよ。急に揺らすから」
市村の言葉を気にすることなく、理宮は市村の隣に座る。少しだけ籠は傾いたまま、上昇を続ける。
「ふうん、本当かなぁ。僕は、君が高所恐怖症だったら面白いと思っていたんだけれど」
「そんな理不尽なこと思ってたんですか!?」
「おっと。あんまり暴れるとまた揺れるぜ」
「いやいやだから怖くないですって! それよりあんたの理不尽さの方が怖いですって!」
「そんな、心外だなぁ。僕はただ観覧車という安全な場所から見る高い所からの景色が最高だということを教えてあげたかっただけだよ」
「だからってねぇ......はぁ......」
市村は大きくため息を吐くと、がっくりと下を向いた。
「ほらほら、床なんて見ていないで外を見てごらんよ。中々良い眺めだ」
「はいはい。ていうか、わざわざ安全かどうかなんて教え込まれなくてもわかってますよ。高い所なんか、自分から飛び降りでもしなきゃ――」
*****
ごめんな、ごめんな、おれはおまえが大好きだったよ。
でもな、もうここには居られないんだ。
だから、行かなくちゃ。
またね、じゃないや。さよなら。
*****
「安全、なんですから」
またもやってくる頭痛に、市村は顔をしかめる。理宮ば市村の表情を見逃すことなく、そっと肩に手を置いた。
「平気、じゃあなさそうだけれど。やはりこういう場所は、怖いかい? もし無理ならば――」
「あ、いえ、そうじゃなくて」
あまり心配されても困る。そう思い、市村は先ほどから感じている頭痛と、その際に見える光景について理宮に話すことにした。
「さっきから、俺、変なんです。少し頭痛っていうか、めまいっていうかがして......それに、そのときになんか、不思議なものを見て。まるで、俺の記憶じゃないものを見ているっていうか」
「ああ、そうか」
切羽詰まる市村の表情を見て、理宮は少しだけ悲しそうな顔をして、
「君は、まだ――」
と、言った。
市村はその言葉を、昔にも聞いたことがあった。理宮に『願い』を伝えたとき。
(あのとき、俺は......何を、願ったんだっけ)
どうしてか、呆として『願い』の内容を思い出すことができない。記憶がブレて、うまく思い出すことができない。
「理宮さん、俺、あんたに何を願いましたっけ」
「うん?」
「また、なんだか頭痛がするんです。いえ、変な光景とかは見えないんですけど、でも。なんだか、おかしくて。理宮さんにどんな『願い』を言ったのか、いまいち思い出せなくて」
「はは、そんなことを考えていたのか」
「え、はぁ、まぁ......」
「そんなこと、今はどうだっていいと思わないかい」
「どうして、ですか」
「だって。今はこうやって二人っきりの空間で、とても近い距離で話をしている。この状態に好意を持っている。それがどれだけ素晴らしいことなのか、君はわからないのか」
「それ、は」
確かに、市村にとってこの状況は異例と言えた。自分と同等の年齢の女子と、二人きりの空間。理宮は市村に好感を抱いている。昔ならば、吐き戻していたかもしれない。
「......理宮さん、あんた、俺に何をしたんですか」
「いいや、特に何も。僕は君の『願い』を叶えたくて、叶えるために、尽力しただけだよ」
「だからって、俺は」
「君に」
理宮は、あるものを取り出した。しゃらりと鳴る鎖の先に、ひとつ。イルカの形をしたペンダントトップ。イルカは、薄青色の猫目石がはめられている。
「これを、ね」
「これって、土産物屋のペンダント?」
「そう。これを、君にあげよう。いつか、僕を想うために」
「理宮さんを、想う......」
市村の顔に、理宮の唇が近づく。
キスをしてしまいそうなほどの距離に、理宮の顔が市村に迫っていた。理宮は市村の顎に右の人差し指を当て、声を上げかけた市村を制す。
手早く、理宮は市村の首に鎖を回し、留め具をはめた。小さな銀色と薄青色が、夕日に輝く。
「りみ、や、さ」
息が詰まるような思いで、市村はやっと声を出す。そのときにはすでに、理宮は市村の身体から少し離れていた。
「さ、次は君だよ」
そう理宮は言うと、市村に着けたものと揃いの――薄桃色の猫目石を抱えたイルカの、ペンダントを――右手に乗せて言った。
「これを、僕に。いつか、君を想うときのため」
「――――、」
市村は、戸惑う。理宮にこのペンダントを着けてしまったら、理宮は自分に縛られてしまうのではないかと思ったのだ。
(何を、怖がっているんだ、俺は)
理宮を縛り付けてしまう。もう自分は、理宮に囚れてしまっているというのに、それでも、理宮を束縛してしまうという恐怖に、打ち勝てずにいる。
「理宮さん。俺......ほんとに、俺でいいんですか」
「ああ。君がいいんだ」
「どうして」
「どうしても、だよ」
理宮は、市村の両手を取り、ペンダントごと自分の両手で包んだ。理宮の細い指と、小さな手では市村の大きな手を包み込みきることはできない。
「どうしても。君に、惚れてほしい」
「............」
理宮の顔を、夕日が照らす。切ない顔を、紅い夕焼けに沈める。まもなく、この街も夜に飲まれることだろう。
「どうかな。君は、願いが叶う。僕は、君に惚れてもらえる。これでイーブン。それでいいじゃないか」
「だけど、どうして俺なんですか。俺じゃなくても、もっと『第二書庫』に来た奴はたくさんいたでしょう」
「ふふ、君はまだ思い出せないんだね」
「は、はぁ? なんですか、そりゃ。また俺の記憶の話なんですか」
「そうだよ。否、今回の〈記憶〉は、きちんと体系に則った、君の君自身の君だけにある、きちんとした陳述記憶だ」
「陳述記憶、って」
「君が、本来持っている記憶。そうだな、具体的に言うなら。これまで生きてきた軌跡を辿れる記憶、と言ったらいいのかな」
「俺は、あんたとどっかで接点があったということ......」
「そういうことだ」
「どこ、ですか。いったいどこで」
「それはね」
理宮は、再び市村の顔に近づいた。そっと、静かに。まるで、キスをするかのように。
寸前で、理宮は留まる。そして市村の唇に右人差し指をあてがって言った。
「君の――記憶の中で」
ぐらり、と世界が歪んだ気がした。理宮の顔が視界の中で滲んだ。
(あ、だめ、だ)
意識を保つことができない。抗うこともできない。
頭痛。
そして市村は。
「また、か」
再び、記憶の中へと意識を落とすことになる。
【Continue to the next Episode】
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