◆Episode.41 記憶の混濁◆
その後も、理宮はゆっくりと水槽の前を歩く。市村は、無防備になりがちな理宮の身体を、そっと
理宮の純白の肌が、青い光に照らされる。その姿は切なく、儚く、どこか泡沫を思わせた。
いつか消えてしまう、弾けて消えてしまう、悲しい泡。
どこかに、行ってしまいそうな。そんな――
*****
ぱちん、と弾ける音がした。
水に、少女が沈んでいく。
水底に沈んでいく少女の口からはごぼごぼ、と泡が立ち上り、徐々に小さくなって消えていく。
命は儚い。まるで泡沫のようだ。
右手で、儚い命を奪った。
水音が静まる。そこにもう、命は無かった。
*****
「う、く、はぁ」
ふとやってきた頭痛に、市村は苦い顔をする。
市村の噛み殺した苦痛が聞こえたのか、理宮は無邪気だった表情を少し曇らせて、市村の方を振り返った。
「どうしたんだい、市村くん」
「いえ、何でも、なくて――ええと」
頭痛とともに見た幻覚。嫌な感覚。妙な錯覚。
まるで、自分が他の誰かになってしまったかのような。
記憶の入れ違いが起こったような。
「大丈夫ですよ。ちょっと頭が痛かっただけです。もう治りましたから」
「そうかい? また顔色が悪いぜ。そうだ、もうすぐフードコートがある。そこで休憩しよう」
「そうしましょうか。理宮さんも、少し疲れたでしょう」
「まあね。これでも立派に引きこもりをやっている身分だ。体力の無さには自信がある」
「そんなもん自慢しないでくださいよ......」
「ははは、いいじゃないか。どんなものであれ自慢できるもののひとつやふたつは持っておくもんだぜ。さ、行こう、市村くん」
二人は、手をつないで歩き出す。理宮の自然な動作に、市村は安心感を覚えていた。
(理宮さんは、俺のことを信頼してくれている)
こんな小さなことが、心の支えになる。不思議な感覚だ。
胸が、また大きく鼓動を打つ。感情を揺さぶる。
原因がわからない。要因はわかっている。
縁因がわからない。正因はわかっている。
ならば、どうしたらいいのだろうか。
「市村くん、面白いぜ。さっきあんなに
「ま、鮪カツ!?」
「あははっ、何だか不思議だねえ。先ほどまで水槽で泳いでいたものを見せたのに、ここで食べることもできるなんて」
「これ、倫理観的には大丈夫なんですかね......」
「いいじゃないか。これを食べてみよう。良い土産話になりそうだ」
「はぁ......」
食券を求め、理宮と市村はカレーの乗ったトレイを手にして、テラス席に座る。海風が心地良い。カレーの香りが否応なく食欲をそそった。
「じゃ、いただきますっと」
「いただきます」
理宮と市村はきちんと挨拶を成して、スプーンを動かし始めた。
理宮は上品にスプーンを扱い、程よい量を掬っては口に運ぶ。
一方、市村は。
「市村くん。随分と独特な食べ方をするね?」
「え、そうですかね」
カレーを、ご飯とカツ、ルーまで含めてぐしゃぐしゃと混ぜていた。
「全く。女性と食事をしているというのに、マナーくらい守れないのかい」
「いいじゃないですか。腹に入っちまえば――」
*****
ぐり、ぶち。
筋を切って、肉を抉って。血がほとばしる。
ああ、もっと大切にしなくちゃ。
ぐち、ぐち。
手の中で内臓が、あたたかさを失っていく。
ああ、早く持ち帰ってあげなくちゃ。
甘く、塩気と脂の混じった鉄の香り。
真っ赤なものを、かき混ぜて、かき混ぜて、かき混ぜて――
*****
「――同じ、なんですから」
再びの記憶の
市村は頭痛と、
「ねえ、市村くん。本当に無理はしなくていいんだよ。もし辛いなら」
「あ、いえ。あの」
むしろ、この時間が終わってしまう方が、市村にとっては辛い。
(......辛い?)
辛い、と考えてしまった市村は、どうしてそうなってしまったのか更に考える。辛い、というよりも、身を切られるような、消毒液が傷口に染みて痛むような、じりじりと広がる痛みにも似た気持ち。それに、どこか焦りも混じっている。実に、複雑な感情だ。
感情にさいなまれながら、市村は苦しい胸にカレーを詰め込む。なんだかあまり味がしないような気がした。
「あの、理宮さん」
二人ともがカレーを食べ終わり、少し間を置いたところで市村が口を開いた。
「なんだい」
「さっきから、俺、変なんです。いつもは、こんな風に女子と会話して、一緒に飯喰って。そんなことしても何の感情もわかない。なのに、何でか理宮さんにだけ、不思議な感じがするんです。なんか、切り傷というか......そんな、痛い感じの感情が俺の中にあるんです」
「ふぅん。何故だろうねぇ」
「何故、って......理宮さんにもわからないんですか?」
「そりゃあそうさ。『魔女』だからってなんでもかんでも綺麗さっぱり万事解決、全知全能という訳にもいかないんだ」
「うーん、何でなのかな......」
理宮がにやにやと意地悪そうに笑っているところを見ると、本当のところは何か手がかりくらいはわかっているのだろう。市村は、試されているのだ。
「はぁ、ほんとにわかんないっすよ」
「おやおや、諦めるなんて。『魔女の助手』のくせに弱気だね」
「仕方ないでしょう。ていうか、むしろ考えていると酷くなりそうで気分が悪いんです」
「ふふ、そうかい。なら確かに、仕方ないね」
「理宮さん、ほんとにあんた、実は何か知っているんじゃありませんか?」
「いーや、知らないね。さ、そろそろ水族館は終わりにして、あれに向かおうじゃないか」
「あれって」
理宮は、細い指を空に向けてすっと伸ばす。その向こうにあるのは――
「観覧車、ですか」
「その通り。あれに乗って、今日のデートは終わりにしよう」
いつもの通り市村はため息を吐いて、理宮の言うことを聞くことにする。しかし、それがどうしようもなく心地よかった。
二人は、水族館を出て観覧車へ向かう。二、三分で辿りつくくらいの距離だろうと市村は踏んでいたが、実際はその三倍ほどの時間がかかった。
「って、でかっ!」
「そりゃそうさ。ちょっと前まで日本で一番、大きかった観覧車だからね」
「ちょっと前まで、ってことは今は違うんですか」
「そんな噂を聞いているよ。何分、あまり外のことには興味が無くてね。ここが日本一じゃなくなったというのが、少し残念だよ」
言いながら理宮は、観覧車の乗り場へ足を踏み入れる。
「はーい、こんにちは! お二人ですね、まずはこちらへどうぞー!」
妙にハイテンションなスタッフが、乗り場の一角に作られた、植物などで飾られた背景のあるスペース――いわば、撮影スペースだ、そこに、理宮と市村を誘導した。
「はいはいはい、じゃあ撮りますよー、はい、チーズ!」
「え? え、え?」
市村がそのスピードとテンションにおろおろしている間に、理宮と市村が仲良さそうに並んだ写真を撮影されてしまった。
どうしてこんなことをするのか、と訊こうと口を開こうとした瞬間。
「お疲れ様でしたー。では、空の旅にご案内します、いってらっしゃ~い!」
そう言い、スタッフは狭い観覧車の籠の中に二人を押し込んだ。
「あははっ、なんだか不思議な体験をさせられたねぇ。僕たちはいつから写真を撮りに来たんだろうか」
「いや、知りませんよそんなの! 俺、ろくな表情できませんでしたし」
「まぁいい。少しの間、楽しもうじゃないか」
「そうですね――一周が結構あるみたいですし」
そして二人は、観覧車の座席に向かい合って座り、空へ浮かんだ。
ゆっくりと、時計の針のように二人は進む。
二人の、時間も進む。
【Continue to the next Episode】
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