◆Episode.21 直らない、直らない◆
悔しい。
悔しい。
悔しい。
気持ちだけが心の中を占領する。それは苦しみになり、痛みになり、怒りに変わる。
優樹子の癖は、直っていなかった。
愛音はよくスクールバッグを半開きにしている。それを見て、左右を見て、優樹子は中に手を入れる。
今回は小さなビンに入った香水だ。愛音がまとっている香りからして、高価なものなのだろう。それを手でつかみ、そっと抜き取る。優樹子はそのまま、教室の端、自分の席へと走り去る。
常におどおどしている優樹子だ。今更、何かを盗んで怯えていようと、他の生徒からは見てもわからない。
それも手伝って、優樹子がしてきた今までのこともばれるということはなかった。
(ばれない、大丈夫。大丈夫、大丈夫)
優樹子は考えることが好きだった。思考の中では吃音という障害に阻まれることなく、自分のペースで自分と対話ができるからだ。
(今回も大丈夫だ。わたしは何もかもうまくやってる。今回もできてる。だから、大丈夫)
自分に言い聞かせるように、優樹子は思考する。流れるような思考に身を任せ、自習時間を過ごす。
「あー、疲れたしー」
びくり、と優樹子の肩が揺れる。しかしそれはどの生徒にも無視され、続々と別カリキュラムの生徒が教室に戻ってくる。
愛音もそのうちの一人だ。愛音は自分の机に近づいて、半開きになっている自分のスクールバッグの中を覗いた。
「あっれ、またなんかなくなってるし」
「また? 夢見子ちゃんめっちゃもの失くすね」
「うん、今度は香水のビンがないし」
「大丈夫なの」
「だいじょぶ、またお母さんに買ってもらうし」
「それまた言ってるー。お母さんってパトロンじゃないんだからさ」
クラスの生徒たちが、明るく笑った。数名を除いて。除かれた中に、優樹子を含んで。
(まただ。またあいつはあんなことを言っている。わたしたちはぎりぎりの生活を送ってるっていうのに)
優樹子の家庭は決して裕福だとは言えない。まして、二人の子供を同じ全寮制の、それも一番上のグレードの寮に入れることで精いっぱいだ。小遣いや生活費の仕送りは、洒落た格好をするには少し足りないような値だった。
それが、愛音へのひがみに拍車をかけた。酷く惨めに思えた。
(どうして。わたしはこんなに頑張っているのに、どうして。わたしは報われないの。どうして。わたしはあの子をひがむことを、ねたむことを、やめられないの)
優樹子の癖はいつしか悩みに変わり、自己嫌悪に陥る。最初こそ、憎しみだけが心の中で渦巻いていたが、ここ数回のことでは悩みがついてまわるようになっていた。
(何もかもわたしが悪いの? 何もできないわたしが悪いの? どうして、わたしには何の才能もないの?)
悩みは優樹子の心を、思考を、むしばんでいく。その苦しみに耐えながら、優樹子は盗む癖をやめられずにいる。
今回もやってしまった。また次もやってしまうだろう。
(ああ、愛音さんの一番大事なものは何だろう)
そう考えたとき、直感的に、本能的に、何よりも刹那的なひらめきで、あることを思いついてしまった。
(そうだ。そうしよう。あれを奪えば、わたしはもう二度とものを盗まなくていい)
悪魔のささやき。
優樹子のひらめきはまさに、悪魔からの入れ知恵だ。何故なら――倫理的に、許されないことだからだ。
*****
市村は、また夢を見ていた。
これは誰の〈夢〉だろう。そんなことを考えながら、ぼんやりとその夢を齧る。
「母様。母様」
「......何ですか、××」
「母様は、どうして男の子を産みたかったのですか」
ロングヘアの女の子。顔はよく見えない。だが市村にははっきりと彼女の声が聞こえた。
それは、親にはあまり言ってはいけないことだ。きっと、この品のよさそうな女性はどこかの跡取りを生まなければならなかったのだろう。それなのに、生まれてきたのは女の子だった。残酷な【運命】が、女の子の人生を蝕む。
「どうして、ですって?」
やはり、女性の逆鱗に触れたのだろう。女性は品のいい顔を怒りに崩し、般若のような形相で女の子の肩を揺さぶる。
「あなたが! あなたがこの××家の跡取りとして相応しくないからです! あなたが女でも、頭がまともなら! ......頭が、まともなら!」
最後の一言のあとには、大きな手のひらで女の子の頭をばしり、と叩いた。女の子は悲鳴すら上げず、「またか」といった風に女性を見る。
「ねえ母様。僕、もう飽きたよ。こんな暴力なんて」
女性は女の子のその瞳に少し怯えたようなそぶりを見せたが、すぐにまた手を上げた。
「ああ、もう! どうしてあなたはそんな! 言葉遣いも直しなさいと言ったでしょう!」
「いいじゃない。母様の望む男の子の真似をしてあげているんだよ」
「うるさい!」
大きな音とともに、女性はいっそう強く女の子の頭を強く叩いた。女の子の痩躯はその場から吹っ飛び、白い壁に叩きつけられる。市村は思わず、その光景から目をそらした。
それを見てようやく満足したのか、女性はやっと落ち着きを取り戻す。
「××、今日のあなたの夕飯はありません。いいですね、これは罰です。反省なさい」
そして女性は足早に、どこかへと去って行った。
「く、あはっ、あははっ」
女の子はその様を見ていてたまらなく面白いというように笑う。その顔はよく見えない。だが、反対に市村のよく知っている顔のようにも思えた。
「まったく。まったくまったく、くそくらえだ。あんな暴力的な大人になるもんじゃない。僕は、そう、僕は......」
一瞬、女の子は泣きそうな声になる。
「【運命】に、勝たなくては」
その決意がどれだけのものなのか、市村には計り知れない。でもその言葉はどこかで聞いたことがあるような気がした。
【運命】
そのワードを大切に持っている人が、傍にいるはずだ。
それはいったい、誰だっただろうか。ああ、そう、あの人だ。あの人のはずで――
*****
「いつまで眠りこけているんだい、市村君」
「は、ぁ」
市村が目を覚ますと、理宮の背後の窓は紅く染まり、夕焼けが空を彩っていた。
「んん......俺、また眠ってたんですか」
「ああ。ぐっすりすやすや、いびきをかいて眠っていたよ」
そう言われて市村は自分がまだ眠気の怠さの中にいることを自覚する。ぐったりと、疲れ切っていた。
まるでざらついたノイズ混じりのチャンネルに無理やりチューニングを合わせたような、乱暴にも程が過ぎるくらい強引に見させられた〈記憶〉。それが誰のものなのか、市村にはわからない。まして名前や顔さえも定かでなかったのだ。これでは特定のしようがない。
そうだ、と市村は思い立つ。ついこの間の話を思い出したのだ。
「ねえ、理宮さん」
「何だい?」
「この〈世界〉が......世界ってものが、〈記憶〉だったらどうなると思いますか」
「どういう意味かな」
「記憶っていうのは、時間の連続です。俺たちが生きている世界がいったい何次元のものなのかよくわからないけれど、それが関連していることは事実です」
「なるほど。続けて」
「だったら、俺の見ている記憶は、実はこの世界そのものなんじゃないかって思うんです。誰かのものだったり、自分のものだったりするんでしょうけど、俺が夢の中で見る〈記憶〉ってのは、本当はこの世界そのものじゃないか、って考えたんです」
「ほう。この間のユングの話の続きでもするつもりかい」
「まあ、確かにそれに似ている感覚はあります」
「ふぅん」
理宮はそれだけ言うと、興味深いといったように、おとぎ話に出てくる猫のような意地悪そうな笑みを浮かべて考え込んだ。
市村の方を見て、その全身を見て、瞳を見て、仕草を見て、また瞳を見る。
「君は、少しずつ核心に近づいているのかもしれないな」
理宮の言葉。市村はまだそれを理解できない。
だが、理宮の笑みの中に――ほんの少し、悲しいものが混じったような、そんな気がした。
【Continue to the next Episode】
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