◆Episode.18 記憶の残滓◆
それは、暗い木陰の中だった。
ぐち、ぐち、と湿った何かをかき回していた。自分は興奮している。これ以上ないほどに、興奮している。
異常な状態であることを、頭のどこかで理解していた。しかし目の前の光景から目をそらすことができないでいる。
両手が甘く塩気があり、脂っぽい匂いにまみれている。右手に硬い感触がある。それが刃物であることを理解するのに、少しの時間を要した。
そうだ。これは解体しているのだ――人を。
*****
プールの端に立っている。右手の手袋の中に少しの違和感がある。電池や何やを仕込んでいるのだから当然だ。
裸の女子が、自分に向かって右手を伸ばす。このプールから上がりたいという意思らしい。声は聞こえない。ただ水音だけがうるさくて、女子の声を聞き取ることはできない。
自分は女子の右手に、装置を仕込んだ右手を重ねる。
ぱちん、と弾ける音がした。右手を放せなくなった女子は、痛みにのけぞる。それを確認した自分は、手を振り回し、その女子を水底に沈めた。
*****
どうしても、という訳ではなかった。ちょっとちょっかいをかけてみよう、くらいの気持ちだった。
彼は楽しい人間というよりは、実直で、真面目で、誠実だろう。
そんな彼と過ごす時間はどんなものなのだろうか。想像してみる。
......面白いかもしれない。
そうだな。告白しよう。
自分はそう、心に決めた。
*****
海。海だ。
岸壁に自分は立っている。
少し向こうに白いワンピースを着た女子がいる。悲しげな顔をして、こちらを見ている。波の音が聞こえる。白波が立っている。
冷静さを欠いていた。とにかく、この女子を溺れさせなければならない。そうして、彼女の感情を永遠のものにしなければならない。
突き動かされた自分は、白いワンピースの女子を突き飛ばした。テトラポットにすら当たらないような、強い力で。
波の音が激しくなった気がした。女子の声は聞こえない。ただ、彼女は少しずつ波に飲まれ、やがて海の中へと消えていった。
*****
痛みが頬を走った。
腹部にも、痛みがあった。
散々受けた暴力のために、これらがあるのだと自覚した。口の中を怪我したのだろう、甘ったるいのに塩気のきつい血の味がした。
父親が憎い。母親が憎い。この世界が憎い。――ああ、これは誰の感情だ? 自分ではない。そう、思った。
ピアノが弾きたい。〈ラ〉の音を聴きたい。幸せを生み出す音楽を聴きたい。その思いだけで、立ち上がった。
*****
誰でもいい。誰でもいい。悲劇を、悲劇を、悲しい痛みを持った人間を。
愛したい。
それだけのために、リークする。サーチする。何度も何度も幾度も幾度も、クリック、ドラッグ、クリック、クリック、打電、クリック......
やっと見つけた眼鏡の同級生。にたり、と自分の口角が怪しく歪むのがわかった。
見つけてしまった。見つけてしまった。楽しい。嬉しい。
興奮する。彼女の『心を手に入れる』のが楽しみだ。
さぁ――『××』のところへ行こう。
*****
市村友希は、目覚める。
嫌な夢だった。そう思えたら幸せだった。
「あれは――記憶」
脳裏に染みついた数々の光景は、かつて理宮の前に現れた『願い』を持った生徒たちの記憶だ。そう、市村には確信があった。
何がそう思わせているのかはわからないが、これらの光景は、記憶は、間違いなく彼らのものだと信じていた。信じることしかできなかった。
「どういう、ことだ」
これは理宮に話さなければならないことだろう。
今日、市村のカリキュラムには授業のコマが無い。だが、理宮は出席日数の確保のためにいつもの根城、『第二書庫』にいるだろう。
学校に行くときの決まりとして、制服だけは着こまなければならない。市村は乱暴に詰襟に袖を通して、理宮のもとへ向かった。
当然のように、理宮は『第二書庫』にいた。
窓際の、背の低い本棚の上に脚を組んで座り、おとぎ話に出てくる猫のように意地悪そうな笑みを浮かべている。
「やぁ、来たね」
市村はノックすら忘れ、乱れた息もそのままに理宮に詰め寄る。
「理宮さん――理宮さん、あれは何ですか。あの夢は、記憶は、何なんですか。どうして俺は、出会ってきた人間の記憶を覗き見れたんですか」
「まあまあ、落ち着いてくれ。紅茶でも飲むかい。ちょうど持て余していたところなんだ。自動販売機が景品を吐き出してね。同じものをもらってしまったのだよ」
本棚の上を見ると、理宮が口をつけたのであろう封の切れたペットボトルと、新品のまま横たえられた同じラベルのペットボトルが目に入った。
「息があがってるぜ、市村くん。そんなんで僕の話を聞いて、耳に入るのかい」
「............っ」
言いながら、理宮は横たえてあったペットボトルを手に取り市村の方へ差し出す。市村はそれを素直に受け取り、半分ほどを一気に飲み干した。
喉が渇いていたことに、そのとき初めて気が付いた。心地の良い甘みが市村を冷静な状態へ戻す手伝いをした。
「はぁ、理宮、さん」
「うむ。冷静になれたようだね。それでは君に、少しだけ心理学の話をしようか」
「心理学ですか?」
「ああ。今の君にとても大切な学びだよ。心して聞きたまえ」
ならば腰を据えて聞こう、と、市村は据えてある席のうち、東側のものを選んで座った。
「君はカール・グスタフ・ユングの名前を知っているかい?」
「ユング......ユング......ああ、教科書で少しだけ見たことがあります。哲学の教科書なんで、コラムに乗っていた程度ですけど」
「そうかい。それで充分だ。これから話すのは彼の提唱した〈集合的無意識〉という言葉についてだ。彼は、人間の意識について長く研究を続けてきた」
「集合的、って、どういうことですか」
「そのままさ。人間の意識が深い深い無意識の海の中でつながっている、という提唱だ」
「はぁ? どういうことですか? まったく意味がわからないです」
「そう急くものではないよ。では、まず意識と無意識について語ろう。僕たち人間が考えている個々の頭の中身を、ユングは〈個人の意識〉とした。そしてその下、痛みなどに反応する反射的な反応や、交感神経、副交感神経などの動きなど自分で制御できない意識を〈個人の無意識〉と呼んだ」
「意識と無意識、ですか。そこまではわかりました。でもその次がどう集合的無意識とやらに繋がっていくんです?」
「これが面白い話でね。先ほどの個人の意識というのは氷山の一角にすぎない。その下には大きな個人の無意識が隠れており――そのさらに下、冷たい海底にあたる部分で〈人間の意識は集合している〉という考えが、集合的無意識、という言葉の意味だ」
「人間の意識が集合している......っていうのが、なんとなく腑に落ちないんですけど」
「そうだね、せっかく海に例えたのだから、そのまま海で説明しよう。君、深海の生物にはっきりと名前のついた生き物がどれくらいいるかわかるかい」
「いや、わかりません」
「そう、それほど深い場所になると、何が生み出されているのかすら、あやふやになる。しかし逆を考えてみたまえ。深い場所から繋がっているのは、氷山の一角ではないかね?」
「え、あ、まさか」
「君の考えた通りだね。自分たちが何を考えているのかはわからないけれど、人間たちの意識は深い場所でつながっている。そして、僕は君が今日、見てしまった記憶に対してこう考えているよ」
理宮は、こつんと右手の人差し指で自身の右のこめかみを突いてみせた。
「頭の中で、君は深い意識にアクセスした。結果、夢という形で他人の記憶を覗き見ることができた、とね」
市村は、その説明に納得した。反面、呆然としていた。そんなおかしなことがあってたまるか、という気持ちでいた。
反論をしようという市村に先回りする形で、理宮は大きな声で笑った。
「あはははっ! 全く、こんなトンデモ話に納得するなよ、市村くん。学の無さが表に出るぜ」
「は、はぁ!? トンデモ話って、これ説明じゃあなかったんですか!?」
「仮説だと言っただろう。仮説は仮説だ。嘘八百を並べても良いだろう」
「俺は必死こいてあんたのところに来たんですけど」
「そいつはご苦労。ああ、ちょうど良いから甘いものでも売店で買ってきてくれないか。嘘を考えるのに頭を使ったから脳味噌が疲れてしまってね」
「そんな理不尽な!!」
市村が叫ぶと、理宮はまた笑った。
こんな日常が続けばいい。
もうあんな記憶は見たくない。どうか、どうか、平穏を。
市村の望みは実現するのか――理宮は、知っているのだろうか。市村はそれを訊こうとは、思わなかった。
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