◆Episode.16 それは泡沫のように◆
中島と弓弦が付き合い始めてから、数日が経とうとしていた。
二人を見かけた生徒はすべからく「仲がよさそうだ」「深山とよりも中島の表情が柔らかい」などと話し、深山に関わっていた人間や、その関係を知っていた生徒たちからも歓迎を受けた。
「はぁ。あの二人、どうなるのかな」
市村は二人の関係に、どこか歪なものがあるのではないかと思っていた。
もし仮に、本当に中島が深山を殺して弓弦と仲を深めたというのなら、それは異質で、歪なものであるとしか言いようがない。
「何をどう心配したところで、あの彼らのことは彼ら自身しかわからんよ」
「そうはいいますけどね」
今日とて市村は、理宮の根城である第二書庫に足を運んでいた。東側に据えてある席に座り、机の上に文房具を散らかして、苦手な英語の教科書を広げている。
英語の教科書からの圧力から逃げるようにして、市村は誰にともなくため息をついたのだが、第二書庫の主である理宮にもれなく拾われてしまった。
理宮はいつものように、窓際の背の低い本棚の上に脚を組んで座っている。今まさに面白いことが起こっているのだと言わんばかりに、意地悪そうな笑みを浮かべて。
「俺は心配なんですよ。一応、中島は友達だし、殺人を犯したならその罪を償ってほしいとも思うし、それに」
そこで言葉を切った市村に、理宮は首を傾げる。顔には、いつもの笑みが浮かんでいる。
「それに......あいつ、言ってたんですよ。深山さんが死ぬ前に〈もういい〉〈もう終わる〉って」
「ふぅん。何故それを知っていたのか、気になる訳だね」
「そうなりますね」
「自然だと思うけれどね。自分が殺すことを実行しようと考えているのならば、〈もう終わる〉という言葉が出てくるのは実に自然なことだ」
「自然って、そんなことが言いたいんじゃないんですよ。俺は、どうして深山さんとの関係を終わらせたかったのかっていうのが知りたいんです。だって、中島の願いは」
「『溺愛』したい、だったね」
「そうですよ。深山さんを溺愛したいなら、何で」
「市村くん」
「はい?」
市村の言葉を無理やり制した理宮は、こう言った。
「中島くんはいつ、〈深山くんを『溺愛』したい〉と言ったんだい?」
「え......それは......」
理宮の言葉に絶句する。確かに、あのとき中島は『溺愛』したいと言った。しかし、そのターゲットを指定しなかった。
「そんな、じゃあ中島の『願い』って」
「まだ叶っていない、あるいは叶えている最中だろうね」
「じゃあ、いったい誰を」
矢継ぎ早に質問攻めにする市村のことを、理宮はゆったりと受け流す。まるで二人の間では時間の流れが違っているようだ。
否、もしかしたら本当に、市村が感じている時間と理宮が感じている時間は同じものではないのかもしれない。そう思うと、市村はなお、理宮のことを質問攻めにあわせなければならない、と焦る。
「理宮さん、あの」
「〈人魚姫の姉は言いました。この短剣で王子の胸を刺しなさい。そうすれば、あなたは人魚に戻れるでしょう〉」
「............?」
焦る市村の言葉をさえぎり、理宮は物語の一節を口に出す。
「〈人魚姫〉の一節だ。この一連の話は〈人魚姫〉によく似ていると思わないかい? ときに〈悲劇〉に例えられる、悲恋の物語をなぞっているかのようだ。そう思わないか、市村くん」
「それ、この間の絵本に書いてあった一部分ですよね」
「そうさ。人魚姫はこのあと、王子を刺し殺すことに抵抗を覚え、王子を殺すくらいなら、と自死を選ぶ。そして王子と隣国の姫は幸せに暮らす。この悲劇をどうにかして、人魚姫が幸せに暮らすには、どうしたらよかったと思うね、市村くん」
「どうしたらって、どうもできないんじゃないですか? 生きるためには王子を殺すしか」
「そう。王子を殺してしまえばいい」
「でもそうしたら」
「何か問題があるかね? 物語に描かれなかったはずの活劇が、人魚姫が新たな恋に目覚める瞬間が、無かったとは限らない。この話を書いたあとのアンデルセンも新たな恋を見つけている」
「新たな、恋」
市村の頭に弓弦と中島の顔が浮かんだ。弓弦は前から中島に好意を持っていた。もしかしたら、中島も弓弦に好意を持っていたのかもしれない。そうだ。これは〈人魚姫〉ではない。
「中島が......深山さんを『溺愛』したいんじゃ、なかった」
「むしろ、深山くんよりも弓弦くんのことを『溺愛』したかった」
「そんな。でもそんなことって」
「どうしてだろうね。否、どうしてかわかってしまうからこそ、理解したくないと脳が拒むのかな。どちらにせよ、常人には受け入れがたい結果だ。そして、これから起こることも」
「これから、って」
まだ、何か起こるのだ。そう、『願い』が叶うのだ。
理解したくない。想像したくない。市村がそう考えるたびに、一歩一歩、そのときはやってくるのだろう。
ふと市村が理宮の方を見ると、何かを考え込んでいるように右手をあごに添え、左腕で身体を抱きしめるようにして、うつむいていた。表情をうかがうことが、できない。
ひとり、またひとり。
そんな風に、理宮の唇が動いた気がした。市村もそれを声に出さず、心の中だけで反芻する。
これから、まだ何か起こるのだ。
「『願い』が叶うには、何か代償が必要なんだ。僕は、そう考えている。市村くん、君はどう思うね?」
「どうって、そりゃ必要なんじゃないですか? 何かが何かに変わるときには何かが失われる――って、前もこんな話しましたね」
「そうだね。ポール・ワイスの思考実験だ」
「ああ、それです。だから俺は、『願い』が叶うときにはなんか代償が必要な気がします」
「だから、こうなるんだろうね」
す、と理宮は扉の方を指さす。そちらには何もない。扉があるだけだ。否、理宮はきっと扉の向こうを示したのだろう。何があるのか、と身構える。
こんこん
ノックの音。
「入りたまえ」
「失礼しますー」
「おやおや、今、話題の君だったか。こんにちは、ご機嫌麗しゅう、弓弦くん」
「はいー? わたしの名前、知ってるんですねー?」
「まあね。ちょいとこの『助手』が有能なものだから、どうしても耳に入る機会が多くなっていたのだよ」
「へー。って、市村君だったんだー」
「あ、はぁ。うん」
「さてさて、ここに来たからには『願い』があるんだろう。いったいどんなものなのか、教えてほしいよ。さぁ、どうぞ唱えておくれ」
「あー、うー、うーんと」
少しの間、弓弦は口ごもってから言った。
「中島君とー、少し別れたいかなーって」
「え、な、何で!?」
驚きの声をあげたのは市村だ。市村からすれば、弓弦の願いは全くの予想外で、この上なく〈なってほしくないこと〉だ。
「わたしー。中島君と付き合ってみてー、思ったんだけどー......あの子、ちょっと重くってさー。わたしが【溺れそう】になっちゃったからー、別れたいなーって」
市村の背筋が凍った。結弦と付き合いたいがために深山を殺す中島のことだ。この次、結弦に振られてしまったら何をするかわからない。
「そんなこと言わないで、もう少し付き合ってみたらどうだい?」
「そうだよ、理宮さんの言う通り、もうちょっと考えてみたら」
「いやー、無理そうだよー」
苦笑いしながら、結弦は言う。
「溺れちゃうのは、怖いからー。だから、そっとお別れさせてくださーい」
「ふむ。成程ね。わかったよ、わかった。君の気持ちはよぅくわかった。だが、先に叶えなければならない『願い』がある。それが叶ったとき、君は中島くんと別れることができるだろう」
「えー、大丈夫なのー?」
「ああ、もちろん。だが、代償は覚悟してくれ。何が起こるかは――僕にも、わからない」
そして、理宮はにんまりと。おとぎ話に出てくる意地悪な猫のように笑った。
まだ誰にも、この先のことはわからない。理宮のこと、市村のこと、中島のこと、結弦のこと。
【運命】は、【カミサマ】にしかわからない。
【Continue to the next Episode】
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