大永元年の乱(四)
古川家中衆との和睦交渉の席に現れたのが渡部筑前だったことがまずもって驚きである。本件の首謀者として、自らの首を差し出してでも和を請わねばならぬ立場だと当然思われたからだ。
次いで直頼を困惑させたのは、首桶から取り出された見も知らぬ顔であった。その顔貌は死してなお凶相を湛え、漂う妖気は生首になったいまも見る者の目を背けさせるに十分である。思うに生前、その凶刃で
だがこの首が、和睦交渉になんの関係があるというのか。
「これは、一体何者の首でござろう」
その直頼の言葉が、言外に
(何故そなたが首を差し出さぬか)
と、対面に座する渡辺筑前を詰っていた。
当の渡辺筑前本人は、素知らぬ顔を決め込んでいる。
「何者もなにも、そちらが求めておいでだった本件下手人の首でござる」
困惑する直頼を前に、渡辺筑前は平然と言ってのけた。呆気にとられる直頼に対して渡辺筑前は続ける。
「この者は林兵庫と申す者で、諸国浪人し窮していたのを先主
「あ、いや。しばし、しばし待たれよ」
初めて聞く話に直頼は困惑を隠さず渡辺筑前の言葉を制した。同席していた三木家家老大前備後守と共に、一旦和睦交渉の席を立つ直頼。
陣幕の裏に隠れて大前とひそひそ話し込む。
「どうやらあの林兵庫なる者に全責任を負わせて首を刎ねたものらしい」
直頼は青ざめながら言った。古川の家政を取り仕切ってきた老獪な渡辺筑前ならやりそうなことだ。
「きっとそうでしょう。この交渉、一旦打ち切りますか」
交渉打ち切りに言及した大前の言葉に、黙り込んで考え込む直頼。しばし沈思した後、思い切ったように
「いや、ここは敢えてあの林兵庫なる者の首で交渉を継続しようと思う」
「しかしそれでは時秀公が納得致しますまい」
大前が口にした危惧も当然のことだ。時秀はこれを好機として古川を返り討ちに痛打して、その勢力を殺ぐつもりなのである。そのためには古川家家宰たる渡部筑前の首が必要であった。どこの馬の骨とも知れぬ牢人風情の首で、時秀が事を収めるつもりがないことなどいまから明白である。
そのことを心配する大前に直頼は言った。
「いかさま、時秀公があの林兵庫なる者の首で満足なさることはあるまい。しかし考えてもみよ。今回のいくさはもとはといえば古川と小島の間で起こったもの。我等とは何の関係もないものだ。にもかかわらず、その関係ない者ばかりを駆り立てていくささせ、自身は城に籠もるばかりの時秀公に、和睦はならぬなどと言われる筋合いがそもそもないではないか」
「確かに、それはそのとおりですが……」
「渡部筑前という男は狡知に頼る性質ゆえに今後とも何かと事を起こすであろう。生かしておいて損はない。
あの牢人の首を得たことで我等は一応面目を施した。どうしても渡部筑前の首が欲しいというのであれば、あとは時秀公が御自身でなさればよろしかろうとでも言っておけば、渋々ではあっても小島家は我等の言うとおり和睦に応じる以外に途はないと考えるがどうか」
直頼の言葉に、大前は開けたような表情を示しながら
「敢えて禍根の種を残し、両雄相食ませ漁夫の利を得るというわけですな」
とこたえ、三木家の方針は和睦交渉の継続で一決した。
もとより小島時秀憎しの激情から兵を起こしたに過ぎぬ渡部筑前である。国内の諸侍など、姉小路古川の威厳を示しさえすれば自ずからひれ伏すものと彼は考えていた。要するに三木氏や江馬氏の軍兵など端から渡部筑前の眼中にはなかったのである。
林兵庫の如き牢人衆の首を持参していけしゃあしゃあと和睦交渉の席に着座したのも、和睦こそ古川家次期当主
そしてその渡部筑前の安易な見立てどおり、三木直頼は林兵庫の首を戦果として和睦交渉に応じ、撤兵したのであった。
(時秀を滅ぼすまでは死ぬわけにはいかぬ)
胸の裡に燃やす昏い炎が、済継暗殺を決意したときの時秀が燃やしたそれと同様のものであることを、神ならぬ身に知る由もない渡部筑前なのであった。
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