永正江馬の乱(六)

 さて飛騨国司姉小路家は、応永飛騨の乱(応永十八年、一四一一)を契機として小島、古川、向の三家に分裂したなどと巷間伝えられているがどうであろうか。公家の日記、たとえば「教言卿記」等の記事を仔細に検討すれば、乱以前から三家は相互に関連なく、独自に在国と在京を繰り返しており、少なくとも山科教言からは、姉小路三家はそれぞれ別家を立てていると認識していたことが読み取れる。応永飛騨の乱以前より既に分裂していたことはどうやら間違いなさそうである。

「飛州志備考」所収「東大寺八幡験記」には


姉小路使者九月廿日到来云、去月下向飛駄国之処、俄雪下深五六寸、作稲等悉以損失了等云々


 という、永仁二年(一二九四)の出来事と比定される記事が伝わる。八月に二十センチメートル近い積雪があったという異常気象を伝えるこの記事が、姉小路家と飛騨とのつながりを示す最初の文献といわれている。

 姉小路家が飛騨国との関わりを持ち始めてから少なくとも百二十年が経過した応永のころ、一族が既に庶流傍流に枝分かれしていたことは当然の成り行きであり、分裂の原因を応永飛騨の乱の一事に帰する方がむしろ不自然といえよう。ただ三家分裂とは言い条、一族は一族としての精神的紐帯を保ち続けていた。小島城を拠点とする姉小路嫡流小島家を中心に、古川城の古川家、小鷹利城の向家が緩く結合して、各自に勢力圏を確保しているというのが姉小路三家を巡る情勢であった。

 風向きが変わるのは小島時秀の父勝言かつときのころであった。勝言の家督相続を巡り、済継なりつぐの父基綱及び向家との間に内訌を生じたのである。勝言は戦乱の中で嫡子を討たれながらも終始戦いを有利に進めていたが、文明四年(一四八一)、自身の病没により情勢は一気に古川、向側に優位となり、家勢が逆転するという出来事があった。

 内紛の過程で幕府に接近した古川基綱はその後、着々と叙位任官を重ね、死の直前には年来の悲願だった権中納言に昇る。これは基綱がその流れを汲む藤原北家小一条流においては、藤原道任卿以来実に約四百七十年ぶりの快挙であった。

 嫡流と庶流の逆転はここに明白となった。

 勝言病没のころ、幼少だった時秀は、父兄のかたきともいえる古川基綱の庇護を受け、長じてその娘を正室に迎えている。こうなってしまってはもはや姉小路嫡流とは名ばかり、小島家は完全に古川基綱に取り込ませる形になってしまった。

 その基綱が死んだのは永正元年(一五〇四)四月のことである。

 しかし基綱が死んだからとて、時秀が嫡流としての権勢を取り戻すということはなかった。従二位、権中納言まで昇った先代基綱の威光は並大抵ではなく、済継はその地盤を引き継いで盤石だった。明応の政変(明応二年、一四九三)以来明白となった下剋上の風潮は、公家社会にも容赦なく押し寄せていたのである。

 これで時秀の面白かろうはずがない。

 済継、貴様さえいなければ……。


 時秀は飛騨在国の日々を無為には過ごさなかった。自家に見所のある小者等があれば、

「何かの役に立つかもしれませぬゆえ」

 と称し、ことあるごとに古川家中に送り込んでいた。一族間の交流といえば聞こえはいいが、要するに密偵を送り込んでいたのである。

 下賤の身分に、姉小路嫡流の名は絶大な効果を発揮した。

 さしたる見返りも示さないのに、

「姉小路嫡流たるみどもが、そちに命ずる」

 といえば、他ならぬ時秀自身が不思議に思うほど彼等は唯々諾々と従った。

 そうやって古川に送り込んだ小者の何人かが、今日は古川城の御台所で立ち働いているはずであった。

 済継送別の酒席でちびりちびりとる時秀。目が据わっているのは酔いのためではない。間もなく済継を見舞うであろう異変の兆候を見逃さないためであった。

 上座の済継は終始上機嫌であった。ただ酒が過ぎたためか、呂律の回らない口調になりつつあった。外斜視の症状を呈する右眼が頻繁に白黒反転する様子も、特に不審には思われないいつもの済継の様子である。

 しかし済継は次第に話さなくなっていった。身体が震えだし顔面蒼白である。時秀は酒盃を放り出し慌てた様子で、その場に倒れ込まんばかりの済継の身を抱き起こした。

「済継卿、しっかりなされませ。思うにご酒が過ぎたのでしょう。このところの兵乱で気苦労が重なったものとお見受けします。みどもが寝所まで付き添います拠ってに、いま少し踏ん張られよ。

 これ、その方ども。なにをぼうっと突っ立っておるか。卿の御寝所を急ぎ調ととのえよ」

 時秀に言われるがまま、古川の家中衆は慌ただしく邸内を走り回る。宴は中止となった。

 時秀に支えられながら寝所に身を横たえた済継が目を覚ますことは、二度となかった。


 時に永正十五年(一五一八)五月三十日。


 姉小路古川済継は、永正江馬の乱鎮圧を見届け帰洛の途に就こうというその前日、飛騨古川において生涯を閉じた。享年四十九歳。前述の中御門宣胤は凶報を得てその死を惜しみ


  去年わかれことしハ更に遠く行

      人のなりこそいはん方なき


 と嘆いている。

 ただ、彼が著した「宣胤卿記」に、その死を毒殺と疑う記述は見当たらない。

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