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第1話
僕はもともと命に執着がなかった。
僕は髄膜炎によって生死を彷徨って、目が覚めたときには難病指定された病気になっていた。
当時4歳になったばかりの時、病気の研究が進んでいなくて20歳まで生きられないケースが多く、いつ何が起こるか分からないと言われた。
ただ点滴を続けていれば予防はできると言われた。
いつ死ぬかわからないのに点滴で予防という意味が全く理解できなかった。
でも僕に拒否権はなく毎週2時間の点滴を受ける事になった。
痛かった。あの時は看護師さんを人として見ていなかったと思う。痛いことなんて誰でも嫌だろうし、僕も嫌だった。
どんなに嫌でも、母さんは僕を叩いてでも病院に連れて行った。当時は恨んだけど、今思えば親として当然の行いだったと感じる。
小学5年生の時、僕と同じ種類の病気を患っていたお兄さんが20歳を迎えた。研究もだいぶ進んでいたみたいでアメリカでは既に自宅でできる薬の試験が開始されていることも主治医から知らされた。日本で認可がおりるのは約10年後くらいだとも伝えられた。
母さんも姉ちゃんも喜んでたし、僕にも良かったねと声をかけてくれた。でも、もうその頃の僕には生きることなんてどうでも良くなっていた。
ただ、自殺をしようという選択肢はなかった。
自分で命を絶つことは全ての命に対する冒涜だというのはその頃には感じていたから。
中学に上がってからは、いじめが始まった。
僕が病気であることを面白がる人たちが増えた。
でも僕は人から嫌われようがいじめられようが、関係なかった。どうせ短い命だと思っていたから。
自分から嫌われ役を買って出たこともある。
良いように利用されて最後には裏切られることも多かったけど辛くはなかった。
人間、そんなもんなんだと思うだけだった。
僕のことを友達と言ってよく遊びに誘ってくれた人もいた。その人たちと遊んでる時は楽しく感じた。
自分が病気であることを忘れるくらいには楽しんでいたと思う。
でも僕はこんな身体だから、家のルールも厳しかった。遊びに行くことにも制限をかけられてしまった。
受験する高校も家から極力近い高校に通うよう言われた。当時の僕的には学力的に厳しいところだった。
勉強する意味なんてその時はないと思ってた。
どうしてもうすぐ死ぬのに勉強するんだ。
どうしてプールで泳がなくてはならないのか。
どうして歌なんて歌ってそれを評価されなくてはいけないのか。
どうして苦しくなってまで持久走なんてしなきゃいけなかったのか。
どうしてそれらはボーダー以下を取ると追試なんてものが待っているのか。
全く理解できなかった。高校受験も同じだ。
何で受験なんてしなきゃいけないんだ。
高校なんてどこでも良い。高校卒業したらいよいよタイムリミットが近付いているじゃないか。
でも、母さんは僕に勉強を強いた。僕には未来があるのだと。
どうでも良かった。ただやれと言われたからやる。
僕は昔から母さんの言う通りにしてきたから。
僕は勉強した。勉強して勉強して、勉強して勉強して、そして、受験前に倒れた。
ほらね。こうなるんだよ。多分、だいぶ前からこうなる事は分かってた。僕は辛さや痛みには鈍感になっていたから、自分の身体がどれくらいの疲労を蓄積させていたかなんて分からなかった。
僕にとっては毎日が辛くて、痛くて、でもそれが普通になっていたから。
僕は結局、家から若干遠く、しかも金のかかってしまう高校に行くことになってしまった。
高校に入学して、一番最初に担任に個別で聞かれた。
病気のことをクラスに話しても良いのかと。
僕は大丈夫ですよと答えた。僕のクラスは進学クラスで3年間初期メンバーは変わらない。2年生になった時に他のクラスから進学クラスに変わる人がいるくらいだ。どうせ言わなくても、3年間のうちにバレる時が絶対に来ると思ったから。
担任は知り得る事をクラスのみんなに話した。
クラスのみんなから僕はどんな扱いを受けるのか、多分その時の内心は恐怖でいっぱいだったと思う。
でも、結論から言うと高校は楽しかった。
病気だからと言って特別扱いされなかった。
一言で言うなら容赦がなかった。
いや、違う。僕が今まで病気を理由に特別扱いばかり受けていたから、普通を忘れて異常が普通になっていただけなんだ。
でも、すごく楽しかった。みんなと同じ事を楽しめて充実した高校生活だった。部活や文化祭で騒いだり、体育祭は本気で応援なんかもして、本気で言い合える友達もできた。自分が想像しているよりも遥かに楽しい高校生活だったけど、尚更生きるのが嫌になった。
こんなに大変だなんて思わなかったから。
生きるのが怖くなった。
死ぬ時に死にたくないと思ってしまう気がしたから。
死が迫っているのは怖いけど、でも現実から逃げられるのは楽だと感じた。
高校3年になって受験のことを考えなくてはいけなくなった。進学なんてしたくない。
進学なんかしたってもう時間が残されていないから。
でも、今回も同じだ。母さんにやれと言われたからやる。ただそれだけだ。
僕は機械工学に興味があったから、工学部の大学を目標に勉強した。運よく受かったら、生きる理由になると思った。生きたいと思えると。だから必死に勉強した。まずはセンター試験で高得点を狙わないといけなかった。だから必死に勉強した。日に日に解ける問題が増えていって、センター試験が楽しみになった。
……。
僕はセンター試験を受けることはなかった。
センター試験の日、僕は病院のベッドの上で呑気に漫画を読んでいた。
人生こんなもんだ。とことん運がない。
いや、違う。生きる理由を見つけようとしたからバチが当たったんだ。死ぬ事が決まっているような人間が、生きる理由なんか必要ないと、そう言われている気がした。悔しさはあった。僕が思っている以上に僕は高校生活内で人間らしさを育んでいたみたいだ。
クラスメイトや友達から毎日のようにメールやLINEが送られてくる。
言葉のかけ方が分からない。
いつもと変わらない方が良い。
変に気を使っても仕方ない。
みんなこんな感じだったんだろう。励ましのためだというのは分かってる。だけど語尾に(笑)やwを付けられる事で、僕の苛立ちは増していく。
その時初めてみんなも同じ目に遭ってしまえば良いと思った。
退院日が決まった日の午後に初めてみる先生が病室を訪ねてきた。
その人は看護師さんたちから僕が受験に2度も失敗している事を聞いて声をかけにきてくれたと言う。
ハッキリ言って、うざかった。
ほとんどの話を聞き流していたからどんな話をされたのかあまり覚えていないけど、その先生に病院の中を色々見て回ると良いよと言われたことだけは覚えてた。
次の日、いつの間にか僕は病室を出て病院内をウロウロとしていた。足がない人、目がない人、骨折してる人、寝たきりの人、妊娠してる人、たくさんの人を見た。別にそんなの珍しくも何ともない。僕もそちら側の人間だ。
ただ、偶然なのか必然なのか、僕はとある部屋の前で歩みを止めて中を覗いてしまった。
リハビリ室だ。部屋の中では運動をしているのが見えた。僕は理解できなかった。苦しい思いをしてまで家に帰るために頑張る姿を見て、疑問にしか思わなかった。こんな世界でどうして頑張れるのか。
もっと理解できないのは、なぜそんな状態になってまで笑っていられるのか。
どんなに頑張っても、笑っても現実は変わらないと、その時の僕は一番痛感していると思っていたから。
その日の夜、当直だった主治医をナースステーションで見つけ、声をかけた。
消灯時間後、部屋から勝手に出た事を叱られてしまったが、主治医は僕の話を聞いてくれた。
どうしてあんな状態になって笑っていられるのか。
どうしてそこまでして生きたいと思えるのか。
どうして僕はこんな身体になってしまったのか。
どうして僕はいつも大事な時に倒れてしまうのか。
溜まっていた疑問がどんどん溢れてしまった。
でも主治医には笑いながら、一言で片付けられてしまった。「僕にも分からないよ」と。
僕的には結構勇気を振り絞って溜まりに溜まった事を聞いたつもりだったから、正直ショックだった。
何か答えを言ってくれると期待していた。
でも主治医は一言で終わらせてしまったんだ。
久しぶりに心が痛んだのを感じた。
でも主治医は僕自身が白衣を着る立場になれば良いと言った。リハビリのスタッフになれば、何か分かるものがあるかもしれないよ、と。
僕は心底単純だった。その後すぐに近くの学校を調べて専門学校であれば、まだ3回目の試験に申し込める事がわかった。担任に相談して、その学校を受けることにした。
合格した。学力的には問題もなかったし、受かっている自信はあった。ただ同時に、課題が課せられてしまった。答えを知るまでは何とか生きる事だと主治医に言われた。
試験、実習…。高校なんて比にならないレベルで忙しい学校生活で、疲労度も感じられるほどだった。
僕の通っていた専門学校は、国試を受ける資格を学校側からもらうための卒業試験があった。それに受からないと卒業はおろか、国試も受けさせてもらえない。
気を引き締めなくてはならなかったが、僕の経験上、こう言う時に僕の身体はやらかす。
だから、細心の注意をはらった。
僕は、国試を受けられなかった。
理由は簡単だ。卒業試験をクリアできなかった。
今回は体調によるものではなかった。
卒業試験の前夜、祖父が亡くなった。
突然だった。動揺した。今までにないほどに。
卒業試験は受けたが、卒業試験の問題の中にどうしても祖父と関係する問題が出てしまう。糖尿病と心不全。どう頑張っても関連付けてしまい泣くのを我慢するので精一杯だった。
留年してまでも資格を取る必要があるのか。
そもそも、もう21歳になっていたし、運よく生き延びているだけかもしれない。
ここでまた莫大な金を払ってまでの価値があるのか。
悩んだ。悩んでるうちに、叔父から祖父が日頃から僕が資格を取る事を楽しみにしていたという話を聞かされた。
僕はまた単純だった。
その言葉だけで十分金を払う理由になった。
お爺ちゃんが望んでくれていたのなら、絶対に取らないといけないと思った。
バイトをしないと経済的に辛かったため、バイトを始めた。
バイトをしつつ、卒業試験の勉強も行った。
糖尿病と心不全の問題を解き続け、フラッシュバックに対する耐性をまず初めにつけた。
バイトを始めてからは彼女ができた。
中学の時からの同級生で、一時期とはいえ片想いをしていた子だった。
最初は楽しかったけど、
やはり僕は世界から嫌われているようだった。
病気の重症度を示す値が悪くなっていた。
今までに見たことないレベルで落ちていた。
薬の量が倍になった。
資格を取ると言う事で生きる理由を無理矢理にでも見つけたと思った矢先、いよいよ最期が近づいていると感じた。
これは彼女にもちゃんと話さなくてはいけないと思った。
彼女を呼び出して、中学時代によく一緒に通った公園で話をした。
病気の事、受験のこと、祖父のこと、命に対する執着の無さ、残酷かつ最低な話を2時間くらいかけて話した。彼女はそれをじっと聞いてくれた。
全部を聞いたうえで、彼女は僕に言った。
生きる理由を私にすれば良いと。
資格を取ったら生きる理由がなくなるのなら、すぐに終わってしまう。だから、生きる理由を私に変更してほしいと。
結婚して子供が生まれたら、私とその子を生きる理由にしてほしいと。
私が先にいなくなったら、残っている子供を生きる理由にしてほしいと。
孫が生まれたら、子供と孫を生きる理由にしてほしいと。
嬉しかった。生きてほしいと面と向かって言われたのは初めてだった。母さんも姉ちゃんも生かすための努力をしてくれたけど、言葉はかけてもらったことがなかった。
ただ僕にはもう一つ、問題とすべき点があった。
それは僕の病気が遺伝性であることだ。
僕は突然変異によってこの病気になった。だから不明な点が多くてたくさん検査もした。
でも遺伝する可能性については不明なまま。
厳密にいえば、すべての病気に言えることらしく、子供が生まれてくるまでか、お互いに遺伝子検査をしてみないと遺伝するかどうかは分からないとのことだった。
自分と同じ苦しみを味わってしまう子供を、僕が生み出す手伝いをしてしまって良いのか。
苦しめてしまうのではないか。
逃げても良いんだよ、と言ってしまうのではないか。
逆に、自分が乗り越えてきたものを押し付けてしまうのではないか。
それが心配だった。自信がなかった。
そもそもこのまま働けるのか、支えていけるのか。
子供以前に、結婚の話までしてくれた彼女を支えていけるのか。
何もかも自信がなかった。
学校が再開されて半年が経った。
学力的にもさほど問題はなかったし、学校生活においては問題もなくバイトの両立もできていた。
だが体調は相変わらず。数値は悪いものだった。
入院の検討もされたが、それを行えば僕は資格を取るチャンスをまたもや失ってしまう。
上手く闘うしかなかった。
彼女とも仲良く続いていた。むしろ、彼女といることで辛さとか全部リセットされている気さえした。
卒業試験を無事にパスした。
これで国試を受けることができる。
ようやく、ここまできた。
病気の方もあれから変化はなく、良くも悪くもという感じだ。
これに受かれば就活が待っている。
ただ中途採用で入職して、それまでは入院しようかとも考えていた。
万全な状態で働けた方が良いと思うから。
僕は変わったと思う。生に執着のなかった僕が、今では体調を整えて未来に臨もうとしているのだから。
これからの未来が楽しみだ。
国試には無事に受かった。
これで申請を出して免許が届けば晴れて僕は国家資格取得者になる。
患者の立場でありながら、患者さんのために働く。
昔、主治医に言われた言葉を思い出す。
どうして苦しい思いをしてまで頑張るのか、それは治療する側になれば分かると。
今なら分かる気がする。これからはもっと感じ取ることになるだろう。
僕が味わった挫折や後悔を少しでも減らせれるのであれば、僕は彼らに向き合いたい。
僕は就職せず、今は病院のベッドにいる。
結局、免許取得だけ済んで気が抜けたのか、長期入院が必要になってしまった。
こんな思い出話を淡々と書く時間も力もあるのに、部屋からはほぼ出られない。
週に2回くらい、彼女がきてくれる。
支えられてばかりで申し訳がない。
ごめんよ、こんな身体でなければ、もっと楽しませてあげられたかもしれない。
早くここを出て、見つけた未来を歩んでいきたい。
本当はすごく怖い。
君に触れれなくなることが、見れなくなることが、会話ができなくなることが。
ごめんなさい。こんな身体になってしまって。
こんな人間に時間を費やさせてしまった。
お礼がしたい。恩返しがしたい。
死にたくない。でも、もう分かってるんだ。
僕にはもう時間がない。何もできないかもしれないけれど、最後まで諦めないようにはしたい。
死にたくない
このデータを見つけたのは、あれから8年後の事でした。
私は一児の母で大切な彼を亡くした私を2年も支え続けてくれた人の妻になりました。
私がこれを見つけたのは、偶然なのか必然なのか分かりません。
でも彼が娘を救ってくれたのは確信しました。
娘は4歳の頃、髄膜炎になりました。
病院で髄膜炎だと言われた時、彼の時と同じだと思いました。あんな辛い別れをしたのに、また同じように私から神様は奪おうとしていると感じました。
祈るばかりでした。障害が残っても良いから、せめて命だけは助けてほしいと長く長く祈っていました。
娘は3日間、生死を彷徨っていましたが、無事に目を覚ましてくれました。
脳に障害も残らず、何か他の病気を発症するような事もなかったのです。
ただ、いくつか数字の並びを言うようになりました。4歳の子供にしてはよく覚えていると思いましたが、それくらい脳の記憶に関しては異常がないんだろうと私は前向きに考えました。
それから1ヶ月経っても異常はみられず、私は宗教にハマってしまうのではないかと心配になるくらいに神様と彼に感謝しました。
実は私は、年に一度、彼の実家に行き、お線香をあげさせていただいていました。
彼の死後、彼のお母様には是非来てあげてほしいと言っていただけて、お言葉に甘えさせていただいていました。
娘が髄膜炎にかかった時、既に一度お線香をあげにお伺いしていたのですがお母様に事情を説明し、すがる思いで私は彼のお仏壇にお供えとお線香をあげ、娘の状態を報告し、どうか助けてくださいとお願いしていました。
なので、娘が目を覚ました後、夫とお母様お父様、親戚の方達に報告をした後、彼のお母様へ連絡をしました。
そして次の年、彼の実家へお仏壇参りをする際、娘と夫も連れて行きました。もちろん、彼のお母様には私の夫と娘がお礼を言いたいと言っている事をお伝えし、了承をいただきました。娘と夫はお墓参りでも良かったとは思いましたが、彼のお母様の言葉にまたもや甘えさせていただきました。
お仏壇参りへ行った際、彼の写真を見て娘が不思議な事を言ったのです。
このお兄さんが手を繋いで一緒に散歩して、光の中に押されたら起きたの、と。
私は驚きました。確かに、今思い返せば娘は目を覚ました後、誰かを探している様子ではありましたが、そこまで気になりませんでした。
そして、そのお兄さんに例の数字を教えてもらったと言うのです。
私はこれは偶然ではないと思い、彼のお母様に思い当たるものがないかを聞きました。
すると、彼が使っていたノートパソコンを持ってきて、いくつものデータが並ぶ中に1つだけポツンと離れた場所にファイルがありました。中にはWordのデータが入っていました。
そしてそれを開こうとすると、出たのです。
パスワードを入力してください、と。
私が娘から聞いた8桁の数字を入力すると、そのWordは開きました。
どうして気付けなかったのか、数字を入力してる時に気付きました。この数列は西暦と月と日にち。私と彼がお付き合いを始めた年月日でした。
内容は彼の残した心の叫びに感じました。
私はその場で読み入ってしまいました。
こんな事を思っていたんだ、こんな風に考えていたんだ、と。
そして何より、命に執着のなかった彼が、必死に生きようとしてくれていることが、それができない謝罪が、死への恐怖が綴られており、涙が溢れてしまいました。
本当の意味で、私はお別れができていなかったのかもしれません。ずっと心のどこかで彼を探していたのかもしれません。
夫も気付いていたのかもしれません。
私がまだ彼を心のどこかで探し、想っていた事を。
彼の死を受け止めていない事を。
だからお仏壇参りをする事も許してくれていたのかもしれません。私が彼の死を実感し、受け止めるために。
そう、彼はもういない。彼が向こう側へいったからこそ、娘をこちら側へ連れ戻してくれた。
あなたのおかげで私は今すごく幸せになりました。
もし、あなたとあのまま幸せになれていた未来があるとしたなら私はどんな生き方をしていたんだろう。
私には想像できません。
あなたと付き合い、あなたと別れ、
夫と出会い、娘が生まれ、
そして、あなたが救ってくれる。
これはあなたが私に与えてくれた未来。
それから、もう2年経ちますが、私のお腹には新たな命が宿っています。
既に男の子であることも分かっています。
夫から名前の候補を見せられた時、すぐに気付きました。彼の名前から1文字取られていたのです。
私は驚きました。
夫に、嫌じゃないの?と何度も聞きました。
夫は、少し妬けちゃうけど、俺は彼を誇りに思っているよ。大事な娘を救ってくれたんだから。と言ってくれました。
彼と同じように、強く優しく生きてほしいと願うばかりでした。
もしもわがままを聞いてくれるのなら、私たち4人をこれからも見守りつづけてください。
大切なあなたへ、この言葉が届きますように。
ありがとう。
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