第392話・タトリクス・カーン(2)
タトリクスは舞台で歌い終えた後、直ぐに楽屋へ戻って来ていた。
舞台に立っている時は努めて疲れを表に出さない様にしていたが、その反動か今は顔色が真っ青だ。
その様子を見たバルレが、
「やはり今夜は舞台だけにして正解でしたね。支配人が部屋を用意してくれていますので、直ぐにお休みになりますか?」
と心配そうにタトリクスへ問いかける。
化粧台の前でグッタリと突っ伏し、怠そうにしながらタトリクスは答えた。
「う~ん・・・でも寝る前と寝起きは御風呂に入りたいのよね・・・」
バルレは小さく溜息をつくと、
「タトリクス様・・・貴族令嬢の扱いをするなと言う割には、御自分から貴族然としたした習慣が抜けて無いようですが・・・。まぁ良いでしょう、近場の大衆浴場にでも行きましょうか」
少し呆れたように言い荷物を纏め出す。
一般的な平民は2,3日に一度、湯浴み出来れば良いくらいだ。
それを1日に2回もしたいと言うのだから、貴族で無ければ最早王族か姫である。
「フフフ・・・ありがとう」
何だかんだ文句を言いつつも従ってくれる従者に、タトリクスはつい甘えてしまうのであった。
こうして歌い手から私的立場に気持ちが切り替わった時、楽屋の扉をノックする者が居た。
「タトリクス嬢、居られるかな?」
扉越しに聞こえた声は、タトリクスの聞き覚えがあるものだ。
それはこの劇場の支配人でも無く、従業員でも無く、もっと厳かな・・・本来であれば今のタトリクスでは会う事など有り得ない相手・・・このセルウスレーグヌム王国の王弟モーレス・ファマトゥウスのものだった。
彼の声を聞いたタトリクスは、困った顔をして逡巡する。
今や平民である自分が王族の訪問を無下に出来る訳が無いのだが、彼は求婚の申し出でタトリクスの元を何度も訪れており、正直迷惑していたのだ。
つまり今回はどうやって当り障りなく断ろうかと、彼女は悩んでいたのである。
見兼ねたバルレが直ぐに対応した。
「王弟殿下であらせますね。何か急用で御座いますでしょうか?」
付き人の声を聞いたモーレスは、少し申し訳ない口調で答える。
「あ・・・いや、タトリクス嬢が何時もと様子が違っていたのでね、心配になって伺ったのだよ。それと少し頼み事もあってね・・・」
『今夜は求婚に来た訳では無いのか・・・、しかし頼み事とは・・・』
少し嫌な予感がしたが、バルレはタトリクスへ振り向き無言で判断を仰いだ。
するとタトリクスは疲れた表情で仕方なさそうに頷く。
「どうぞ、お入りください」
バルレは楽屋の扉を開け、恭しく訪問者を中へ誘った。
「一仕事終えた所に押しかけて申し訳ない・・・。貴女の顔色が良くない様に思えてね、大丈夫かね?」
とモーレスは楽屋内に入って早々、人の良さそうな表情でタトリクスへ告げる。
化粧台の前で呑気に座っていたタトリクスだが、王族相手に失礼が無いよう慌てて立ち上がろうとする。
これにはモーレスが慌てた様子で、
「あ、構わない! そのまま楽に座っていて欲しい。強引に訪れたのは私の方なのだから・・・」
そう言って苦笑いを浮かべた。
この国で2番目に偉い立場に在りながら、何とも気さくで人当たりの良いモーレス。
タトリクスとしては何度も求婚されて迷惑ながらも、彼の人柄に
「では、お言葉に甘えて・・・」
座り直したタトリクスを確認して、透かさずバルレがモーレスへ椅子を差し出した。
『流石、元魔導院の貴族だっただけの事は有る、付き人も良く気が利いて優秀だな』
感心し、ほくそ笑むとモーレスも椅子に座った。
「先程、随分と高貴でお美しい方と御一緒だった様に思いましたが・・・、そちらを放っておいて私の所に来ても大丈夫なのですか?」
折角心配して見舞いに来たのに、
なので直ぐに誤解を解いて状況を説明する事にした。
「あのお方は
「あの美しい方が噂の聖女陛下なのですか・・・。舞台の上からお見受けして、それはもう驚きましたよ」
正直、直ぐにでも横になって眠りたいのだが・・・お風呂も入りたいし王弟の相手をせねば成らないしで、何とかタトリクスは気力で話を合わせた。
「フフ・・・貴女も相当に美しいと思うがね。聖女陛下と同等か、下手をすれば・・・っと、これは少し下世話な話になった・・・すまない」
モーレスは楽しそうな語調で言った。
皆、タトリクスを相手に会話をすると楽しくなり、調子に乗って話してしまう。
そしてそれが何故なのか・・・彼女と出会ってからのこの一週間でモーレスは答えを導き出していた。
この絶世の美を有する歌姫は優し気な表情を絶やさず、またその言葉は相手を決して否定しないからだ。
相手の全てを受け入れ、自尊心と自己肯定心を満たしてくれる・・・要するに聞き上手なのである。
それも飛びぬけて尋常でない程に・・・。
故に上手く転がされているのが分かっていても、そのまま準じてしまうのだ。
『ひょっとして国政の重要な立場に居たのでは・・・? 雰囲気と言い、会話の間と流れと言い・・・実に交渉事や調整官向きではないか』
とモーレスは良からぬ詮索をしてしまう。
噂では魔導院の政変により、タトリクスの御家が取り潰しになったと聞き及んでいた。
モーレスが”念のため”調べただけで確証を得た訳では無い。
『しかし本当に政変で犠牲になった家柄なら、御家の再興を望んでいるのではないか? ならばその能力を担保に・・・』
モーレスの中で
それは惚れた相手ゆえか・・・それともその才能に惚れ利用出来ると思ってしまった所為か・・・。
何んせよ下賤な考えだと自嘲するモーレス。
『素晴らしい才能を見ては懐柔または利用しようと考えるは・・・我ながら悪い癖だ』
国政の一翼を司る立場なら、その悪い癖も仕事の内である。
しかし今は完全に私的な立場で彼女と相対し、そして私的な依頼をしようとしているのだから。
「それで、御用件はどう言った事なのでしょうか?」
と何故か焦れた様子でタトリクスが尋ねた。
「あぁ・・・そうだった。私個人の依頼として聞いて欲しいのだ」
そうモーレスは居住まいを正して語り出すのであった。
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