むらさきの花

緋糸 椎

第1話 帰国

 菅野祐輔すがのゆうすけは空港を出ると、思わず顔をしかめた。

「暑い……」

 久々に味わう日本の夏の蒸し暑さと、白檀と畳の混ざったような匂いに戸惑いを覚える。

 

 祐輔はオルガンの勉強のため、ドイツに留学中だった。そして四年に一度、武蔵野市で開催される国際オルガンコンクールに参加するため帰国した。


「もしもし母さん? 祐輔だけど。今日本に着いたよ」

「おかえり。長旅大変やったやろう。家にはいつ帰ってくると?」

「色々忙しくて、コンクールが一段落したら家に寄るよ」

「まあ、なんでんよかばってん、無理しぇんで頑張りんしゃい」

「うん、わかった」

 懐かしい母親の声にほっこりするが、祐輔は両頬を叩いて気持ちを引き締めた。


 とりあえずホテルで落ち着きたいところだが、まず吉祥寺にある教会に挨拶に行くことにした。

 オルガンコンクールに出場する場合、練習場所の確保が大きな課題となる。ヨーロッパではパイプオルガンの設置された教会は多数あるが、日本では限りがある。だからパイプオルガンで練習出来るだけでも幸運なことだ。


 教会に着くと、黒い祭服の神父が出迎えた。

「司祭の|五十嵐(いがらし)と申します。何かお困りのことがありましたらお申し付け下さい」

「菅野です。よろしくお願いします」

「ところで、今ユースの集会をやってるんですけど、参加しませんか?」

 正直なところ、祐輔は休みたかったが、無下に断るのも憚られた。

「ええ、参加させて下さい」

 しかし集会中、時差ぼけの祐輔は睡魔に襲われ続けた。やがて、若者たちによる聖歌隊が前に出た。その歌は、お世辞にも上手とは言えなかったが、純真な神への賛美は、彼の魂を揺り動かした。特に、ソプラノを歌っている一人の少女……穢れを知らぬ清らかな微笑み。まるで真珠のように輝かしい。これほど美しいものを祐輔は見たことがなかった。


 集会が終わり、祐輔はオルガンを少し触ってみたくなった。スイッチを入れ、ストップの種類を確認した時、誰かが小さな声でささやくのが聞こえた。振り向くと、チャペルの座席にあの少女がうずくまって祈りを捧げていたのだった。邪魔してはいけないと思い、立ち去ろうとすると、譜面台に置かれてあった賛美歌の本を誤って落としてしまった。


 ガチャ


 その音に反応して、祈祷中だった少女が立ち上がってオルガンの方を振り向いた。祐輔はドキッとした。

「ど、どうも……」

 祐輔はどぎまぎした。少女はただ一礼し、微笑んで退出した。その微笑みは、いつまでも彼の心にとどまり続けた。

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