第7話 脳細胞の妄想劇場

自分は自分のために生きている。

自分の行動は自分が決めている。


そんな風に自分というものを捉えている人が多いのではないかと思う。

ところがそれはほとんどそうではないことが多い。


例えば腹が減ったからご飯を食べようと思うこともあるだろう。だが人はお昼になったからご飯って思う人もけっこう多いのだ。


お腹が空いてなくてもお昼だからご飯をって、ご飯を食べちゃうそんなことも多くある。


これはどういうことかというと、世の中の仕組みなどの枠ごとに自然と自分を当てはめて、枠組みの中で行動していることが多いからではないだろうか。


自分の意志でやってることだと思うことが、案外に自分の意思ではなくて、育った環境での影響を受けて行動をしていることが多いかもしれない。


そしてこの世に、およそありえないことそんなことを考えてしまうのも、すべからくがほとんどは何らかの、刷り込みによる結果なのである。


大人になったから異性を求め結婚する。


これは刷り込みもあるけれど、異性を求めるというのは本能だ。


そして生活を共にするのは、家庭を作るのは本能ではなくて後年の刷り込み現象である。


そんな刷り込み現象も、ちらっと目の端に捉えた自分が意識していない事柄でも、灰色の脳細胞はそのことをちゃんと覚えていて、覚えていることを無意識下で刷り込み現象として使っている可能性がある。


実際に人間が生活する上で、人間の脳が使われている部分はほんのわずかだということです。


それじゃあ残りの部分は何をしているのかというと、私は目に映る全ての出来事、耳に入ってくる全ての音、 口や肌に触れるすべての出来事そんなものを一つ残らず8 mm フィルムのように記憶してるのが脳だと思うのです。


人の生まれてからいまでは100年時代とは言われているけれど、それでも100年に生きる人はまだまだ少ないと思うのでとりあえずはここで平均人生を80年としよう。


80年間を秒で表すには次のような表にすると分かりやすい。

80年間⇒960 ヶ月

960ヶ月⇒345,600 日

345,600日⇒8,294,400時間

8,294,400時間⇒11,943,936,000分

11,943,936,000分⇒716,636,160,000秒


人生80年間はたかだか 7,166億秒程度にしかならない。


1秒を1バイトに換算したら、8ビット分の情報量が取り込めるとしよう。


ただこれは1秒を単純に1バイトに換算しただけなので、人間の目はコンマ1秒の世界を捉えてすごい大きなデータを映しこむこともできるので、実際にはどのように換算していいのかわからない。


人間の脳の持つデータ圧縮技術があるとして、それを利用して膨大なデータも8ビットの中に押さえ込んだとしよう。


そうすれば平均的に単純なデータの時間も、一瞬の大きな出来事も平均すれば8ビットの中に収まることにしよう。


これは仮定だ。


それこそ今話題のスパコン富士の能力を持って計算するしかないだろう。


いやスパコン富士でも計算できるかどうか、計算できたとしても膨大な時間が必要になるかもしれないし、あっさり計算できるかもしれないそれさえもわからない。


まあ自分は技術系ではないのでそのような事に関しては、推測と妄想である。


なので仮に1秒を1バイトで8ビットとしたら、1テラバイトのハードディスクドライブは1兆バイトなので人生80年分が1テラバイトのハードディスクに収まっちゃうことになる。


1Byte⇒8Bits

1KB ⇒1,024Bits

1MB⇒1,048,576Bits

1GB⇒1,073,741,824Bits

1TB⇒1,099,511,627,776Bits


今どき1テラバイトのハードディスクなど、ちょいと動画編集に凝っている方なら普通に使っているようなHDDです。


1 TB とのハードディスクドライブと 人生80年がイコールで結ばれる。


そしてこの1 TB の中にもしあなたの人生をあなた自身でテキストで書き込むとしたら、それこそ一生かかっても書き込めない埋めることのできない膨大な器となってしまうだろう。


テキスト以外に動画や音楽を入れて行くことにより、多少データファイルは増えるだろうが、それでも1 TB の容量を人間の手で埋めるのはとても大変である。


そんな膨大な量の1 TB でも、動画をたくさん扱うえば容量が足りなくなってくるだろう。それだけ動画はデータファイルは大きいのである。



人間というのは目を開いてれば動画的であり、寝ている時はあえて言えば文章的なテキスト的でもある。本を読んでいる時は、それこそ頭の中で想像とテキストが入り混じったような感じになるのだろうか。


動画データも実際は撮影したそのままを全て保存するのではなくて、 人間には分からない程度にアイルを圧縮してデータを保存している。これはコンピューターの分野ではエンコードと呼ばれている。


人間の脳にもコンピューターの分野と同じような記憶のエンコードが行われているのだと思う。そんなわけで私は自分が意識するとしないに関わらずに、人は人生80年の一周の中でこの世に生を受けてからのことを、脳の中に全て記録しているのではないかと思うのだ。


意識していることはある程度アウトプットも可能だが、無意識のことは意識してのアウトプットは難しいだろうが、無意識に取り込んだデータはそれでも記録として保存されており、何らかのときにそのデーターが刷り込み現象として人の行動に影響を与えている可能性はなくはない。


例えば夢である。


自分の知らない場所自分の言ったことのない場所自分の見たことのないものをそんなものが夢に出てくることがある。だからといって夢物語のことを、自分の知らない世界が見えていると思うのは早計だ。


例えば臨死体験というものがある。


臨死体験とは死んだ体験ではないのか。


いやそうではない、死にそうになった時に頭の中で起きていた現象を臨死体験というのだ。死んで生き返った人などこの世にはいはしない。


その臨死体験で国や宗教によっての違いが見られるのだが、基本はなんとなく似通っているそうなのである。


例えば仏教国としての日本での場合は、お花畑があって川が流れていてその川を渡ると死んでしまうという設定で臨死体験が出来上がっている。


川向こうで知ってる人が呼んでいるので行こうとしたら、川を渡る寸前に誰かに呼び止められて引き返したから生き返ったとか、 キリスト関連の宗教国では暗く長いトンネルを抜けるとそこはラッパが鳴ってお花畑の天国だったというような臨死体験が報告が知られている。


勘違いしてはいけないのは、この臨死体験は死んだ体験ではないということだ。


あくまでも生きてる人間の体験なのだ。


たとえそれが重篤な危篤状態であったとしても、それでも死んだわけではないのだ。


そんな人生の膨大な記憶を持つ脳の働きは、文明科学の進んだ現代でもまだ解明されるのは程遠いところにある。


つまりデータを物質化視覚化できないところが、脳科学解明の難しいところではなかろうか。


脳はシナプス間の連携により電気信号は生で様々なデータをやり取りしている。


まさにこれはパーソナルコンピューターと基本原理は同じようなものではなかろうか。違うといえば圧倒的に脳の方が人間的に進化していることだろう。



今から述べるような非人道的なな事が許されるわけもないが、そこをあえて考えてみると、ただ純粋無垢な脳の機能を使って脳をコンピュータ化させたとしたら、一人の脳だけで多分スーパーコンピューター富士の性能に匹敵するのではないかと思う。


人の脳はなにぶんにも人の周りの環境に影響を受けて、様々なことを並列的に輻輳して考えるこているので、人間の性質を持ったまま単純計算だけに脳の機能は使うことは難しい。


だからそれこそクローン培養したような脳細胞であれば、多分スーパーコンピューター富士と同じような脳コンピューターがいくつでも出来上がるのではないかと思う。


人には写真記憶とか計算に適した脳とか、特別天才脳とでも言えるような人もいる。しかし脳自体の性能的には誰もそんなに違わないのだと思うのだ。違うのは脳に接続する回線の方ではないだろうか。


あなたが見る夢はあなたが細く映像を組み立てて作ったものではない。


すでにどこかで見た映像を寄せ集めて再現しているに過ぎない。


たとえそれが自分の記憶のない映像であったとしても、ここはどこわたしはだれ状態であったとしても、それらは知らずのうちに自分の経験してきたことなのか。


それがより不思議に思えるのは、色々なシーンの細切れミックス状態にあるからに過ぎない。


そしてそのような映像にアクセスできる配線を持っている人が、写真記憶脳と呼ばれる人々だろう。


見たものを絵画で再現する画家もいる。


写真記憶を持つ人と写真記憶を持たない人に、10秒間後ろ振り向かせてその間にどんなものが見えたかを答えてもらうことによって、写真記憶を持たない人間と写真記憶を持つ人間の違いがはっきりわかる。


写真記憶を持つ人間は、見たままの映像を脳に取り込まれた場所へアクセスする配線がちゃんと分かっているのだ。


写真記憶を持たない人間はそれに反して、一時記憶だけで見たものを答えようとするから、とてもではないが覚えられることには限りがある。


写真記憶を持っている人は覚える必要はないのだ。


その映像にアクセスすればいくらでも情報は取り出せる。


つまりは写真記憶を持つだけでこの世では天才であるとさえ言える。


その写真記憶は誰にでもあるのだが、誰にも分からないのがどうやってそこへアクセスしていいのか、自分の脳の働きで見つけることができない状態になっているのだ。


つまり迷宮のダンジョンの中にひとつの宝物を探しに行こうとする冒険者と、望めばその宝物に手は届く写真記憶脳の持ち主との力の差で、そのことがどれほど違うかが分かるというものだろう。


写真記憶へのアクセス方法、それさえわかれば脳の不思議の一端が解き明かされる端緒となるのではないかと思っている。

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