サイレント・ショー
@1amth1nk1ng
1話完結。
社会人になって、人からの悪意というものにはおおよそ鈍感になった、つもりだった。どんな仕事でも対人関係というのはつきもので、それは選べるものでもないのも、ごくごく当たり前のことだ。みんな、与えられた舞台と与えられた配役、その中で生きている。それが選べたら、なんて思うのはワガママとでも言うらしい。運命論なんて、信じてるわけじゃないけど。
喫煙所の壁に寄りかかってぼんやりとしたまま、ぼんやりと消える煙を眺める僕は、そのままぼんやりと消えてしまいたかった。
もともと、人付き合いは苦手だ。学生時代から友人の数は最低限を極めていたし、学校が変わればその友人たちともだんだん疎遠になった。社会人になって友人と呼べるのは、SNSでたまに趣味の話をする顔も年齢も知らない誰か。世間一般が定義する「友人」なんてものは、年に数回会うのが片手で足りるほどだ。それで人生困っていないのだから、それでいいんだろう。
もう一度、口に含んだ煙を虚無と一緒に虚空に吐き出して喫煙室を後にした。北側の廊下は壁一面ガラス張りで大通りに面して程よく陽が入り、暑すぎず明るすぎず、程よい。僕の人生もそうであってくれたらと思うが、常人はもっと向上心に溢れているんだとか。それが普通だと言うのなら、凡庸にすらなれない僕は普通ではないということになる。
「普通」ってなんだ。
幼い頃から……とはいえ、いつからそう考えているのかなんてわからない。ただぼんやりと、それこそ先ほど眺めていた煙のように明確な形を持たないまま、頭の片隅でずっと考えている。ふと足を止めて、往来を見下ろした。普通と呼ばれるなにかを、ここから見える誰かは持っているんだろうか。それとも全員持っていて、僕だけが普通でない……異常なのか。異常だとしてもそれを知る術はないし、それを知ったからって僕の人生が一変するわけでもないだろう。
人生において何度目になるかわからないため息をつき、残りの休憩時間を確認しようと腕時計に目をやった。その時だった。
ふと、足元に見える歩道に立派なグランドピアノが見えた。行き交う人々のど真ん中に鎮座し、黒々としたそれは妙な存在感でそこにあった。しかし通行人は足を止めず、ただただそこにあるだけのように見えた。ぽつねんと置かれた椅子にも誰も座る様子はない。最近流行りと聞くストリートピアノというものだろうか。それにしては置き方が雑じゃないか。
よく見ようとしたところで再び視界に入った時計により思考は中断され、帰りにあれば近くで見てみたいなと思いつつ足早にその場を去った。
やっと仕事を終えて窓の外へ目をやると、空はもうだいぶ暗くなっていた。いわゆる黄昏時というやつか。疲れた体を引きずって往来へと足を進めれば、人影はゆらりゆらりと黒く染まっている。夏至を過ぎたとはいえ、まだ日は長いなと思う。
ふと、昼休みの光景が頭に浮かんだ。そうだ、グランドピアノ。足を止めてキョロキョロと辺りを見回すが、それらしいものは見当たらない。ビルを見上げるが、窓ガラスは降りてくる夜の帳を写している。
見間違い、か?そう思うにはあまりにも脳裏に引っかかる違和感。そもそも、通行人はあれをよけて歩いていたか?という疑念すら生まれる。いや、今の暗さだとちょうど黒くて視認しにくいだけかもしれない。人の頭より低いから、今立ってるところから見えないだけかもしれない。妙な執着心とともにビルの前を見回しながら歩く。それでもやはり、それらしいものは見つからない。今日が最終日で、撤去されてしまったのだろうか。少し残念な気持ちになりながら、明日の仕事を考えて帰路に着いた。
その日の夜は、久しぶりに夢を見た。幼い頃、ずっと好きだった電子ピアノ。今思えば安物だったが、あの時は一番の遊び相手だった。本物のピアノには似ても似つかないピアノやオルガン、トランペットやバイオリンの音が出る、電子ピアノというかキーボードに近かった気がする。それを、思うがままに好きな曲を延々と弾き続ける夢。僕はピアノをうまく弾くことはできない。こんなに上達するほど練習したことがない。それでも夢というのは便利で、聞きかじった曲を次から次へと奏でる指は確かに自分に繋がっていた。ああ、楽しい。こんなに楽しいのはいつぶりだろう。目が覚めてからもその気持ちは潰えることなく自分の中にあって、出勤しようとする体はいつもより少し軽かった。
頭の中で軽快に鳴り響くクラッシックやジャズに気分を任せて、午前中の仕事をなんとなく片付けた。缶コーヒーを1本片手に、またぼんやりと煙を吸いに行きがてら、ふと下を眺めた。
……ある。
そこに確かに、黒々とした存在が。
自分の瞼がぐっと持ち上がるのを感じ、駆け出したい気持ちを抑えてエレベーターへと急いだ。手の中にあった小さな箱は潰れた気がする。そういえば、好きな部分へと向かうところは音が走りがちでよく注意されたっけ。
ビルを半ば飛び出すように外に出ると、初夏らしい気温に出迎えられる。ジワリと吹き出る汗を気にも止めず、そこにあるピアノへと引き寄せられるように足が動く。そこに座っているのは一人の青年で、白いカッターシャツに黒いスラックスのようなズボン。よくある服装だ。そして、その節の目立つ指は確かにそこで踊っているのに、耳にはなんの曲も届いてこなかった。それどころか、周囲の人々はただ黙々と歩き、そこにあるものに何の興味も関心もないようだった。握りしめた缶はまだひんやりとしているが、ジワリと手のひらに溢れる汗で今にも取り落としそうだった。
現実味のない体験にも、人は順応する。その瞬間を自覚したのは初めてだったが、その違和感ごと受け入れることで何の問題もなくなった。僕は花壇の縁に腰掛けて缶コーヒーを飲み、その青年をぼんやりと眺めた。弾いているのはクラッシックか、ジャズか、それすらもわからない。わからないが没頭するように、食らいつくように弾きこむその姿は見ていて飽きなかった。彼も気にしていない様子なので、ただただ眺めていた。
それが非日常から日課になるのはほんの数日の出来事だった。昼休みになると僕は缶コーヒーやペットボトルを手に、花壇でぼんやりと過ごす。幸いにも日陰でビル風のよく吹くその場所は、過ごしやすいといえば過ごしやすい。青年は僕が来た時にはもう弾いていて、昼休みが終わる時もまだ弾き続けている。帰る頃には、ピアノごと消えている。
そう、消えているのだ。
そのことに対して抱いていた違和感も、自分の中でどうでもいいという分類を受けたのでどこかへ消えてしまった。そういうものなのだ、と思考停止して理解することが癖になっている。その危うさは自覚していただけに、こんなところで生きなくてもと皮肉に笑うことしかできない。その違和感すらどうでもよくなる程、その時間は僕の中で大きな存在になっていた。
なんとなく嫌だな、と感じていたことがどうでもよくなっていった。少し嫌なことがあっても、この時間があれば忘れることができた。眠れなかった休日の夜も、思い出したようにピアノを聴くことで眠れるようになった。
同期からは、最近付き合いが悪いなと言われるようになっているのは知っていた。昼休みに飯も食わず煙草も吸わず、どこに行っているんだと聞かれる。表の花壇でぼーっとしている、と言ってしまえばそれきりなのだが、あの時間をまだ誰にも話したくなくて、話を流していた。僕にとって、あの時間は何にも代え難いものになっていた。それでも、人というのはめんどくさい生き物で、僕のことを気に食わない人というのは存在する。ありもしない噂というのが、人間は好きなんだろう。まことしやかに僕の知らないところで流れ始めた噂は立派なヒレを携えて僕のところへ泳ぎ着いた。
「……で、実際どうなんだよ。」
「全部デマに決まってるだろ。そんなことのために、わざわざ屋上の鍵借りたのか?」
同期で一番仲がいい彼が神妙な顔で、話があるからついてこい、なんていうものだからついてくれば、根も葉もない噂の真偽を問われるとは。ふらふらと、北側のフェンスに手をかける。
「なーんだ、やっぱりな。お前に限ってそんなこと、って思ってたけどさ。やっぱ、気になるじゃん?」
「そういうもんだよな。」
「……俺、お前のそういうドライなとこ結構好きだよ。」
「僕も、お前のそういう明け透けで優しいとこ、好きだよ。」
「屋上で好き好き言い合う男ってどうなの?」
「はたから見たら気持ち悪いかもな。」
「ま、そういうもんだよな。」
わざとなのか僕の口癖を真似る彼の声は妙に楽しそうで、楽しそうならそれでいいかと構うのはやめた。普段より高い位置から見下ろす往来に、いつもの黒い影を探す。いつも座っている花壇は見えるのに、それは見つからなかった。
「なんか見えんのか?」
「いや……なんでもない。高いところに来ると、下を見たくなるんだ。」
「へー。そういうもんかね。フェンス古くなってるから、気をつけろよ。」
「……気をつける。」
声をかけられるまで、自分がそこまで乗り出していることに気がつかなかった。どうにもあのピアノのことになるとのめり込みすぎるな。
「あーあ、噂のことはわかったけど、案外知っちまえば面白くねーな。」
「あのなぁ!」
「わりぃ、怒んなって。一本やるから、行こうぜ。」
彼の胸ポケットから取り出されたのは、いつも彼が吸うものではなく僕がいつも吸っていた銘柄。
「変えたのか?」
「ん?ああ、俺別に決めてるわけじゃないし。最近お前が吸ってるとこ見ないから、逆に気になって買った。」
そういう人もいるのか。僕はといえば、初めて出会ったあの日に握りつぶしてしまって以来買ってすらいなかった。ずっとライターだけが出番もなくポケットに収まっていた。久しぶりに来た喫煙所は誰もいなく、僕と彼の吐き出す煙だけが溶けるように消えていった。久しぶりに吸う煙は、なんとも言えない味だった。
「お前、最近なんか顔色良くなったよな。なんかあったの?」
「いや……タバコやめてたのと、よく眠れてるくらいかな。」
「そりゃいいじゃねぇか。で、久しぶりのタバコはどうだ?」
「美味くもない、かといって、不味くもない。」
「……やっぱり?お前、よくこんなの吸ってたね。」
「いや、前は好きだったんだ……たぶん。」
そう、前は好きだったんだ。前は……と、考えつつ手元に視線を落とした瞬間だった。なぜ僕は今まで気がつかなかったのか、頭のてっぺんから何かが抜け落ちていくかのようにヒヤリとした感覚が駆け下りる。思わず足の力が抜けて、少し派手な音がして壁にもたれかかる。
「おい!どうした?!」
「あ、あぁ、すまない。大丈夫、大丈夫だ。」
「震えてるぞ?どうした?」
「いや、なんでもない、なんでもないんだ……少し確かめなければならない。」
腕時計を確認する、昼休みは後五分。急げばまだ彼は、そこにいるだろうか。
急いで灰皿に押し付けて火を消し、駆け出そうとする足を押さえ込んでエレベーターへと急ぐ。背後に同期がついてくるが今はそれを気にしている場合ではない。早鐘を打つ心臓が痛い。まさか、そんな。
往来に飛び出した僕は、あの時と同じように、キョロキョロと見渡しながらいつもの花壇に急いだ。時間が時間だからか、往来に人は少ない。一目で見渡せるそこにただ、ポツンとピアノだけが鎮座していた。いうことを聞かない心臓と緊張感で息が上がる。足の力が抜けて、花壇の縁に座り込んだ。
「なに、なんなの。」
「なんでも、ないんだ。なんでも。」
後からやってきた彼が、何の気なしに隣に座った。彼には、これが見えているんだろうか。
「そこに……そこに、なにが見える。」
「そこ?さぁ……でっかいピアノか?」
「……あるんだな、そこに。」
「……頭大丈夫か?そこに書いてあるだろ、今日から1週間、ストリートピアノってのやってんだってよ。こんなところで。」
言われるまで気がつかなかった。昨日まで自分が見ていたものとは、少し違う。足の形も、椅子のデザインも。足元には傷がつかないようにカーペットまで敷かれていた。状況が、全然違う。それでも、そこと指差していた節くれ立つ自分の手は、彼の手と酷く似ていた。
「なぁ、なんか弾けるのか。」
「え?」
「ピアノに向かって走ってくるくらい、好きなのかと思って。」
「……好きだよ。」
「じゃあ、なんか弾いてくれよ。」
「やだよ。」
「なんで。」
「もう昼休み終わるぞ。」
「俺が言い訳するから!」
「なんでそんなに聞きたがるんだよ。」
「分かんね。けど、なんかお前が弾きたがってるように見えるから。」
彼の飾らない言葉に、見抜かれたような居心地の悪さを覚える。仕方ないな、とため息をついて誰も近寄らない、今まで近寄ってすらなかった鍵盤の正面に座る。さて、何を弾こうかと考えようとした僕の頭に漠然と浮かんだのは、ずっとここで弾いていた彼の姿。
あれは、もしかして。
鍵盤に手を添えて自分を見下ろす。白いシャツに黒いズボン、節くれ立つ指は、あの日見ていた彼のもの。ならば弾く曲は。
サイレント・ショー @1amth1nk1ng
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