【不思議の国編】ありす紅茶館でお茶をどうぞ♪

かがみ透

ありす紅茶館でお茶をどうぞ♪ 〜不思議の国編〜

プロローグ 〜黄金の光かがやく昼下がり〜

 横浜、港の見える丘公園展望台では、真夏の日差しが照りつけ、青い空にくっきりとした真っ白な入道雲が映える。その眼下には、太陽の光が反射する横浜港のなだらかな海面が広がる。

 それは、黄金の午後ゴールデン・アフタヌーンだった。


 セクハラとパワハラによって会社を辞めたなぎは、祖母の経営していた老舗紅茶館を『ありす紅茶館』と店名を変え、春から再開させていた。

 紅茶の茶葉の種類も味も覚え、赤字を巻き返そうと、従業員たちと季節ごとに新メニューを試みている。


 七歳半のありすは、元の『鏡の国』にある『赤の国』には帰らず、異変が解決するまでは、なぎのいるこの世界にいることになり、避難も兼ねていた。


 その世話係と護衛を兼ねたリゼと、いまいち護衛のつもりのないアールグレイ、護衛のことなどすっかり忘れているであろうダージリン、茶葉のブレンドを担当しているティーブレンダーの老人アッサム博士も、紅茶館従業員として働いている。


 白い壁にくすんだ赤煉瓦色をした屋根、モスグリーンよりも若干青味の強い窓枠。

 そのイギリス風の建物である紅茶館の隣に建つ、緑に白い柄のつたに覆われた古い洋館に、彼らは住んでいた。


 なぎは肩より少し伸びた髪をハーフアップにし、水色のカジュアルなワンピースと白いサンダルを履くと、「closed」の札を下げた紅茶館の扉に鍵をかけ、すぐそばのローズガーデンへ向かった。


 真夏は咲いている薔薇はわずかだが、それでも花の咲いていない緑の葉のトンネルも好きだと、なぎは思う。


 買い物に付き添うリゼが、先に来ているはずだ。


 彼らが『鏡の国』の住人だったと知り、今では受け入れているが、どう接していいか一時期困惑もしていた。

 時の番人という得体の知れない種族であるリゼのことは、さらに理解し難く、しばらく避けてしまっていた。


 どこにも居場所のなかった彼を、鏡の国の赤の女王が、赤の国の住人として迎え入れたことに感謝しているという彼の過去を知ると、自分のしていたことは差別ではないかと思い、涙があふれた。


『……ぼくのために、……泣いてくれてるんですか?』


『違うんです。わたしは、そんなやさしい人じゃないの。わたしも同じなの、赤の国の人たちと……。リゼさんのこと、自分と同じ世界の人じゃなかったからってどう接していいかわからなくて、しばらく変な態度取っちゃって……。でも、それじゃ、赤の国でもこっちの世界でも、どこにいてもリゼさんは受け入れられずに淋しい想いをしてしまう……そんなのって、やっぱりひどいです。ひどいことして、……ごめんなさい』


『いいんですよ』

『で、でも……!』


 その時の、ふわっと包み込むリゼの腕の感触がよみがえる。


『ぼくが、なぎさんが抱っこしてくれて、やさしく撫でてくれたら、とても安心したんです。だから、同じように少しでも安心してもらえたら……』


 柔らかくなだめるような感触。

 男性に抱えられているという緊張感よりも、その柔らかさはリゼならではなのか、思えて嫌な感じはしなかったのは、つい最近の出来事だった。


『ぼくのことは気にしてくれなくていいんですよ。それなりに今はしあわせですから。あの人の子供だからという義務感ではなく、ありすのお世話がちょっと楽しいんですから』


 彼らがこちらの世界の人間ではないのが、今のなぎには返って良かったのかも知れないとも思えていた。

 セクハラによって男性に触れられるのは拒絶反応があったが、その時は不思議なことに安心さえ覚えた。


 思い起こす度に癒されていたなぎには、リゼとは例え買い物であっても二人で出掛ける時は多少は意識するようになっていた。


 ハーフアップにした髪を飾り付きゴムで結ぶようになってからは、どの飾りにしようか迷っていつも少し遅れがちになってしまうが、その程度で怒るような彼ではなかった。


 180cmを超える長身の、赤茶色の髪に紅茶色の瞳を持つ白人系外国人。

 そんな目立つ彼なら、庭園の中でも、いつもすぐに見つけられた。

 なぎを見つけた彼は、普段のやさしい微笑みで手を振る。

 

 その笑顔を思い浮かべると、軽い足取りになっていた。


 ローズガーデンに入り込んですぐ、なぎはスカートの裾を引っ張られた。

 振り返ると、十歳ほどに見える子供が立っている。

 淡いピンク色に見えるくりんくりんの髪に、少々眠たそうな目、眠たそうな笑顔を浮かべた外国人の少年だった。


 屈んで、不思議そうになぎが尋ねる前に、少年は口を開いた。


「こんにちは。ボクのアリス」


 まだ声変わりのしていない声だ。

 なぎは背を伸ばして辺りを見回した。 


「すみませーん! この子の保護者の方、いらっしゃいますかー?」

「ま、迷子じゃないから!」


 少年は慌ててなぎの腕を引っ張った。


「言い直すよ。キミが『アリス』の孫だね?」

「は?」


「ああ、いや、アズサの孫……だったね?」

「うちのおばあちゃんのこと?」


「そうだよ。港の見える丘で紅茶館を開いていたアズサ。鏡の国にもちょこちょこ来ていた」


 どこか不思議な少年だと思ったら。


「もしかして、あなた、鏡の国の人?」

「うん。ボクの名前はキャンディ。キャンディ・ヤマネだよ」


 なぎの顔が輝いた。


「わあ! やっぱり紅茶の名前なのね! しかも、わたしの苗字と同じ、ヤマネくんなの?」


 少年は、にこにこと笑ってみせた。


紫庵シアンとみーくん——」


 紅茶の名前と間違えないようにということと、なぎが覚えやすいように、二人のことは日本名を付けて呼んでいた。


「——じゃなくて、アールグレイやダージリン、アッサム博士やリゼさんとも知り合い?」

「そうだよ。ボクは、タルジーの森の近くに住んでいて、ダージリンとアッサム博士と一緒によくお茶会をやっていたんだよ」

「そうだったの!? じゃあ、皆と友達なのね!」

「友達? ……ああ、うん、そうだね!」


 一瞬取り繕ったような笑顔になぎには思えたが、キャンディはにっこり笑っていた。


 その向こうで、長身で赤髪の青年が目の端に映った。


「マズい、遅れた!」


 ポケットから取り出した懐中時計を開けて、そう言っていた。


「あ、リゼさん! 待たせてごめんなさい、今行きますから!」


 でも、バスに乗るわけじゃないし、何に遅れたっていうのかしら?


 なぎの声が聞こえないのか、リゼは庭園を走り抜けた。

 道路を渡り、正面の外人墓地から左へ曲がる。買い物とは反対方向だ。


「え? ちょっと待って! どこに行くの? リゼさーん!」


 なぎも走り出そうとして、少年を振り返る。


「キャンディくんはどうする? 紅茶館は鍵かけちゃったから、洋館の方に行けばダージリンがいるから入れてもらえるわよ?」


「いや、ボクはそこへは行かない。ボクは、キミを『不思議の国』に案内しに来たんだからね」


「え? 何を言って……?」


「さあ、あの白ウサギを追いかけるんだよ、。そうすれば、とってもいいことが起きるよ! クエストは既に始まってる!」


 何を言ってるのかしら、この子?

 でも、鏡の国の住人で彼らの仲間なら、変なことを言っていても当然かしら?


 キャンディに言われるまでもなく、なぎはリゼを追いかけていた。

 道路を渡ると目の前は外人墓地だ。

 そのさらに左に駆けていくリゼを追いかける。


 バス停の横にある自然の公園では、巨大な樹木が枝を広げている。

 その奥へと消えたリゼを追いかけると、なぎの足元から突然地面を踏む感触が消えた。


「キャーッ! なんなのーっ!? 誰かーっ!」


 真っ暗な穴の中をもがきながら落ちていく。

 叫んでいる声が穴の中で残響を伴う。


 まさか、マンホールに落ちた!?

 それなら、こんなに広くないだろうし——

 いったい、なんなのー!?


 地上ではなぎの声は聞こえていないように、人々は気に留めることなく行き交っていた。



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