55.書類

「中見てもいい?」

「いいけど……あんまり気分良くないと思うよ」


 私が封筒に手を伸ばしている間に、天野さんは立ち上がった。


「何か飲む? 一通りはあるけど」

「……天野さんが飲むなら、同じもので」


 うん、と頷いて、シンクのある方へ歩いていく。

 封筒の中身は一枚の書類だった。天野さんと私の名前がすでに入っている婚姻届。

 証人の署名欄だけが空白で、でもそこはどうにでもなるのだろうと思えた。


「婚約、じゃないのね」

「まあ、そのままじゃ本人確認できないから、そこにあるんだけどね」


 電子書類として受理、登録されるには、そのままでは無理だ。自書でないのなら、本人の拇印が必要になる。

 そこで、ひやりと背中に冷たいものが流れた。


「指紋……」


 冨士君が指に被せた機械。

 天野さんと、私の指。相馬と冨士君のサインがあれば、受理される条件が揃うんじゃ?


「え? まさか……」


 天野さんは、半笑いでテーブルに茶色の液体が入ったグラスを置いた。


「さすがにそこまでは進めないはず。あくまでも本人の意思決定を大事にするからって……」

「それは、相馬って人が?」

「そう、だけど……冨士君だって、何か脅されたりしてるんだよ! じゃなきゃ、こんなことに手を貸さない……確かに、いつか一緒に大きな仕事が出来ればいいとは話したことあるけど、でも、そのために誰かの人生を勝手にどうにかしようなんて、冨士君はしないはずだ」


 こぶしを握って、まっすぐに力説する天野さんはちょっと眩しい。私はそこまで冨士君を信用できていない。


「でも、私、嫌われてるかもだし。何度も注意されて、逃げ出す機会もあって、それでもここまで来ちゃうような甘ちゃんだし……」

「何言ってるの。そういう素振りがあったってことは、じゃあやっぱり冨士君は心から手を貸してるんじゃないんだよ。だって……」


 勢いのまま何か言いかけた口を、天野さんは急に閉じた。

 目だけで先を促せば、視線を逸らされる。


「いや。これは俺の憶測だった。ともかく、紫陽しはるさんが「うん」と言わなきゃ何も成立しないはず。いつまでもあなたを閉じ込めてなんておけないんだから、ちょっとの辛抱だよ」


 ここまでしておいて、そう簡単に諦めるだろうか。

 世間が行方不明だと騒いでくれるだろうか。画像だけじゃない。映像だってそれらしく作るのは難しくないっていうのに。

 逃避行先からの動画なんてものが出てきたって、おかしくはないのだ。


「……駆け落ちじゃないかって、噂が出てたって……天野さん、おうちの方とは連絡ついてるのよね?」

「え?」


 疑問顔ではなく、へらっと笑顔になった彼に不安が増した。


「ええと……今回のことには、実家うちはノータッチ、で」

「どうして? 連絡もつかないなんて、心配なさるでしょう?」


 少しきつく詰めよれば、天野さんは観念したように肩を落とした。


「……親父、久我にはだいぶ借りがあるらしいんだ。金銭含め、ね。仕事を回してもらってたり――見学に行った家の改修工事も『天龍社うち』に回ってきてたし……俺が知らなかっただけで、結構根が深いみたいで。だから、久我の意向には口の一つも出せない、らしい。ほら、共同経営だし、従業員にも迷惑かかるし……あっ。でも、それは紫陽さんや崋山院には全く、なんの関係もないことだから、気にしないで!」


 天野さん側からの抗議は絶対に出ない。成功しても、失敗しても。

 強張った私の顔を見て、天野さんは困ったように笑う。

 どうしてそこで笑えるんだろう。


「じゃあ、天野さんは私に「うん」と言わせるよう言われてるんじゃないの?」


 お父様にも。


「いや、まあ、そりゃね。でも、それはそれ、これはこれ、だろ? コンペだって、何か裏であったのかもしれないけどさ、他に出してたのもいくつか最終まで残ったりしてたから、そこまで酷い工作だったとは、思わないようにしてる。ここで全部失くしてもさ、俺きっとまた這い上がれるから。紫陽さんに同情で結婚された方が、傷つくなぁ」


 そもそも、どうして久我は私と天野さんの結婚にそんなにこだわるんだろう。

 量の取れない蜂蜜の売り上げなんて、大企業にしてみればそこまで驚くほどではない。花はすぐ増やせても、蜂はそうはいかないし。そんなに先を見越しているのだろうか。

 話題性だけでというなら、天野さんではなく、久我の名前を持つ人の方がいいわけだし……まあ、それだと仮の話にもならなかっただろうけど。

 同情はいらないという天野さんの気持ちもわかるけど、少しの期待をさせた分、気分は重く沈んでいく。


「謝るのは私の方だわ……ごめんなさい」

「わ。それこそ何言ってるの! 紫陽さんは利用されてるだけでしょ。周りの大人が悪いんだから。よく考えない俺も、何か知ってて勝手に動いちゃう冨士君も」

「……冨士君……メモでは、どんなやり取りだったの?」


 天野さんの信じている冨士君の姿が知りたくて、そう訊いた。


「久我側の動き。簡潔にって難しい注文つけるからさぁ。相馬以外は入れ替わり立ち代わりだとか、実質二回しかやり取りできてないから、二回目はまた移されそうってことくらい。最初から相馬とつるんでるなら、そんなこと聞くまでもないだろう? さっきはびっくりしたけど、どこに移されるかわからなかったから、それでこんな手に出たのかな……だとしたら無謀すぎるけど」

「GPS送った端末でそれ以降のやり取りはなかったの?」

「SNS系へのアクセスは即制限されちゃったから。早々に移されることになったのも、多分GPS情報のそのせい。ニュースとかは見られるけど、書き込みはできない。連絡も受けるだけだし、実質受信専用だね。俺が出て行って「ただのファンです!」ってマスコミのマイクに言えればいいのだけど」


 肩をすくめる天野さんも、色々試してはみたのだろう。

 でも、それでも久我はどうにかしちゃうのかもしれないな。父さんの映像が一度しか流されなかったように。

 時計を見て、天野さんは壁にテレビの映像を映し出した。ちょうど午後のワイドショーが流れている時間帯だ。

 ちょっと申し訳なさそうにこちらを向く。


「ごめんね。あんまり見たくないかもしれないけど、見ておかないと流れがわからなくなるから」


 どこに向かっているのか。どこに向かおうとさせているのか。

 「わかってる」と、私も映像に視線を向けた。




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