32.緊張
それはひっそりと、高級別荘地の一棟で行われた。
大きな窓からは澄んだ湖が水面をきらめかせているのが見える。
名目は、保養……食事会……あるいは、もっと直接的に休暇。人の出入りも最小限にするために、テーブルの上には膳がすでに配置済みだ。
ドレスコードの指定はなかったのだけれど、一応用意してあった控室で着替えたのか、天野さんたちは略礼服姿だった。
父もダークスーツに光沢のある織柄の薄いパープルのネクタイを合わせている。私だけが紺色のシンプルな袖なしのワンピースだったので、やっぱりカクテルドレスにすればよかったかなと、ちょっと恥ずかしくなった。
父も周囲も何も言わなかったので、きっと私だけ意識が違うのだろう。
(そしてそれで構わないと思われているのだ)
それぞれ、付添人というか、見届け人というか、付き人のような第三者がいて、うちではそれが安藤だった。
安藤だ。伯母様のところの。
飛燕は部屋の外で待機している。(狡い考えかもしれないけど、アンドゥがいてくれたら抱いていられたのにと思ってしまう)
天龍社側は銀縁眼鏡のエリート秘書のような雰囲気の男性だった。うちのようにアンドロイドかもしれないし、会社の規模からいくと普通に従業員かもしれない。一見しただけではわからないし、彼らは許可なく発言しないので、おそらく最後までわからないだろう。
私たちが部屋に入った時、すでに天野さん親子は着席していて、入室と同時に二人とも立ち上がった。どちらもすごく緊張していて、しっかり冷房が効いているのに、お父様はしきりに汗を拭っていた。
父が歩み寄り、手を差し出す。
「遅れました。本日はよろしくお願いします。と、いっても堅苦しい場ではないはずですので、どうぞお気楽に。崋山院
「いえ。早く来すぎたのは我々の方で。恐縮です。
「
父に並んで頭を下げれば、慌てたように二人も頭を下げた。
お膳は四つ。相手方と向かい合わせに座るのが普通だろうが、父が待ったをかけた。
一つのお膳を反対隣りに移して、「若い者はそっちに行きなさい」と並んで座るよう指示される。
「顔を突き合わせていたら、いつまでも緊張するでしょう。君たちはすでに顔見知りのようだし、大人は大人の会話をするよ」
天野さんたちはちょっと顔を見合わせたけれど、特に断る理由もなかったのか、素直に従った。
私はすでに社会人としてちゃんとやっている龍臣さんまで子供扱いすることに、微妙に居心地が悪かったのだけど。
テーブルには冷えた瓶ビールと数種類のソフトドリンクが置かれていて、座ったものの石のように動かない天野さんに声をかける。
「何か飲みますか? 天野さんは飲めるんですよね?」
ビールに手を伸ばそうとすれば、彼は慌ててそれを制止した。
「あっ! いや、自分で! 自分でやりますから!」
ウーロン茶の瓶を掴んだものの、緊張からか彼の手はずいぶん震えている。
入れますよ、と手を差し出しても聞こえていないのか、頑ななのか、彼はそれを離さなかった。
苦笑して、ちょっと奥を覗き込む。
「安藤、お願い」
黙って頷いて、安藤はこちらにやってくる。天野さんから瓶を取り上げて、二つのグラスに注いでくれた。
天野さんは、安藤が一礼して自分の席に戻るまでをちょっとあんぐりと眺めていた。
「……そ、そういう感じ、なんですね?」
「安藤は、私が小さい頃から面倒を見てくれてたから、また少し特別かな」
この安藤は違うのだけど、と付け足しそうになる。
「今日は父さんたちの顔合わせだから、そう緊張しなくても大丈夫ですよ。伯母様は違うけど、うちはああいう感じだから」
ビール瓶を持って譲らず、相手に注いでいる父をそっと指差せば、予想に反して天野さんの顔は強張った。
「……え?」
「すみません。なんかもう、俺も父も慣れなくて……いや、震える手で相手に飲み物をかけてしまうような愚を犯さず済んで、良かったんでしょうけど……」
……えーと。
「あんまり、深く考えないで? 私、これで婚約を決めるつもりはないし、天野さんが冨士君との交流をやりやすくなればな、とも思っただけだから……えっと、期待させてたなら、ごめんなさい……」
「あ、いや。期待は、全然。というか、俺聞いたの二日前で……なにがどうなってるのかも、よく……」
申し訳ないかなと思ったのだけど、正直に告げれば、天野さんは少しだけ平静を取り戻してくれた。
「二日前?」
「そう。なんか、緘口令敷かれてて、いや、そりゃ、挙動不審が出るのバレてたんだろうけど……」
「冨士君は、何も?」
「何? 冨士君も知ってるの? って、そうか。社としてなら、そうか」
「あ。ううん。うちの方でも内々ではあるんだけど……」
冨士君側の事情は、私が話すわけにもいかないし、と、ちょっと焦る。
でも天野さんはそんな不自然さにも気付かないようだった。
「どっちにしても、俺、食べられそうにないから……紫陽さん、どうぞ構わず食べて」
「……そう? じゃあ、後で折にしてもらいましょう。たぶん、父も食べるつもりないだろうから」
なんだかビジネストークを始めている父にちょっとため息をつきながら、私はひとり箸を取り上げたのだった。
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