38.後悔

「「お疲れね。大変でしょうから、私が紫陽ちゃんを預かってあげる」なんて、そのくらいの嫌味には慣れてしまっていたけど、「だから、安心して実家に帰りなさい。義実家じゃあ余計疲れるでしょう? 崋山院に犯罪者は必要ないのよ。ねぇ?」って嗤われたら、さすがにカチンときて。上段から見下ろす彼女の横を通り抜けようと足を速めたんだけど……勢いがつきすぎたのか、足がふらついて、カスミさんの肩にぶつかってしまったの。」

「……え。まさか、それで怪我をさせてしまったとか……?」


 揚羽さんは、ゆっくりと左右に首を振る。


「ぶつかったのは私だったんだけど、それでバランスを崩したのも私だったの。後ろに傾いた身体を支えようと足を引いて――あそこ、五段ばかりだけど階段でしょ? 思った場所に地面が無くて、そのまま背中から落ちたのよ。腕に抱えていたあなたを、とっさにカスミさんに押し付けて」


 私は小さく息を呑んだ。


「あなたをしっかり受け止めた彼女は、私を助ける余裕はなかった。それは私にも解ってる。それでも、頭を打ち付けて気を失うまでの時間、驚いた顔であなたを大事そうに抱えるあの人の姿が、なんだかひどく癪に障ったの。何があっても手放さなければよかったって、思ってた」

『すぐに救急車が呼ばれて、カスミ様が状況を話してくれましたけど、おそらく誰もそのままを信じませんでした。お二人の仲がよろしくないのは皆分かってましたから。後に監視カメラの映像を確認して、疑いは晴れましたが、しばらくカスミ様は不機嫌でしたね』


 自業自得ともいえるけれど、おそらくそんな分かりやすく手を出すと思われたのが納得いかなかったんだろうな、と、ちょっと苦笑する。


『揚羽様はそれから丸一日目を覚ましませんでした。医者の見立てでは寝不足も祟ってるんだろうということだったので、黙って回復を待ちました』

「目を覚ました私は、久々にすっきりとした気分で、どうして病室のベッドに寝かされているのか不思議だったの。一通り検査を終えて、面会を許されると、お義母様や安藤君やカスミさんが来てくれてね……」


 揚羽さんは、視線を落として吐いた息をゆっくりと吸い込んだ。


『カスミ様の抱いていた子を見て、揚羽様は「いつ三人目を産んだんですか? おめでとうございます」と、笑ったんです』

「……え?」

「すっぽりと、一年くらいの記憶が抜け落ちてたの。自分が妊娠したことも、子供を産んだことも覚えていなかった。他のことは覚えてたのに。私の子だと突き返されても、そのふにゃふにゃした感触が怖いくらいだった」

『家には帰れたのですが、子供の世話は怖いと怯えるような様子に、しばらく紫陽様は乳母を用意して預けられました。紫苑様も戻られて、でも自分の家で三人で暮らすのは不安なようでした』

「しばらく何もかもから離れた方がいいのかもって、紫苑さんに無理を言って一人にしてもらったの。久我も、崋山院も関係ないところに……結局、一年ほどで徐々に記憶は戻ったんだけど、今度は離れた時間が後ろめたくなって……私がいなくても紫陽はちゃんと成長してる。カスミさんの言った通り、崋山院が育ててくれている。あの時手放したのは、それが最良だと無意識に判断したんじゃないかって。じゃなければ、大切な子供のことを忘れたりしないんじゃないかって。カスミさんの言う通り――鷹斗君は許してくれたけど――罪もない人を傷つけて、私がそれを償ってもいなかったのは本当だから」


 ごめんなさい、と宙に向けて揚羽さんは謝った。


「離婚届に記入して、紫苑さんに送ったの。もう、戻れません、と。少なくとも、自立して、母と名乗れる自信が持てるまでは、紫陽にも会いません。私のことはどうか紫陽に教えないでください。そう、書き添えて」

『紫苑様は揚羽様の意見に反対することは、ほとんどありませんし、ユリ様とも何度か話し合ったのですが、揚羽様の気持ちは固く……様子を見つつ、ということで彼女に仕事を紹介するなどしてサポートしたのです。紫苑様は海外出張なども多かったので、本家に戻ってくることになりました。ですので、紫陽さんの成長は私が揚羽様にこっそりとお送りしていたのです』

「表向きには私たちは離婚したことになってると思う。紫苑さんもそうふるまってたから。でも、彼、届けは出してないの……ほとぼりが冷めた頃から、時々会ってて……もういいだろうって、何度も説得されて……だけど、年を重ねるたび、どんどん怖くなって。だって、もう、いまさら……どんな顔をしていいのかさえ」


 揚羽さんは両手で顔を覆ってしまった。


『これは、完璧に隠しすぎた我々もいけなかったのです。紫陽さんは聡い子でしたので、大人が訊かれたくないことには口を閉じてくれましたから……ユリ様とは、紫陽さんが成人した暁には全てを打ち明けようということで同意しておりました』


 ずっと黙ってそっぽを向いていたツバメが、こつんと揚羽さんの頭を小突いた。


「気にすんなって言っただろう? ハクがついたって喜んだくらいだって。それに、アゲハさんにはたくさん教えてもらった。釣りがくるぜ?」


 泣き笑いの顔を見ると、ツバメはまたそっぽを向いた。


『そうですね。手に負えるか分からなかったものを、見事に手懐けてくれたのは揚羽様ですね』

「あぁん?」


 ツバメのこめかみに青筋が浮かぶ。


『違うと?』

「……けっ!」


 仏頂面の頬がほんのり赤くなっているのは、怒ってるせいじゃないんだろうな……安藤の言った『初恋の人』という言葉が、ゆっくりと染みてきた。




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