15.一線

 一階が車庫、二階に部屋。そんなつくりの建物で、桐人さんは適当に空いている車庫に車を入れた。


「冗談ですよね?!」


 鞄を胸の前にギュッと抱いて、抗議する。


「紫陽ちゃん次第じゃない?」


 車を降りる桐人さんを目で追って、ハッとする。先に降りて逃げ出せばよかった。

 家を出るときと同じように助手席側に回ってきた彼は、ドアを開けて笑った。


「こういう状況なら、両手は空けておくものだよ? 抵抗できないでしょ」


 子供を抱き上げるように、私をシートから引きずり出して担ぎ上げてしまう。


「きり……桐人さ……」

「それとも、思ったほど嫌がってないのかな」


 部屋に上がると、枕の二つ並んだ大きなベッドに私を放り投げて、桐人さんは背広を脱ぎ、ネクタイを外す。端末だけを握りしめて、私は部屋の奥の方――桐人さんのいない方――に逃げ出した。

 桐人さんは私をゆっくり追いかけながらベルトも抜き取ってしまう。適当に放られたベルトのバックルが、床に当たってゴトリと低い音を立てた。


「つ、通報しますよ!」

「できる?」


 にこにこと余裕の表情なのが腹の立つ。

 視線を端末に向けたら、一気に距離を詰めた桐人さんにまた抱き上げられた。


「――っや!!」


 器用に口を塞がれて、そのままベッド……ではなく、ガラスかアクリルのパーテーションで仕切られただけの浴室へと連れ込まれた。床に下ろされると、彼は浴槽にシャワーを全開にする。

 寄せられる顔を睨みつけた。


「必要以上に暴れたりしなくて、助かったよ。紫陽ちゃんは普段おとなしくしてるけど、馬鹿じゃないね」

「褒められてる気がしません」

「もう少し早く気づけば良かった。ここまではSPもさすがに入ってこないから。常に見張られている環境もなかなか大変で」

「同情はしませんよ。選んだ道ですよね?」

「うん。そう。多分、母さんの次は僕が崋山院を継ぐ。だから、常にいくつかの隠しマイクやカメラが仕込まれてたりする」


 桐人さんは自分の胸のあたりと、スラックスのボタンの辺りを指差した。

 投げ捨てられたネクタイとベルト。ベルトを完全に抜いてしまうのは、確かに少し奇妙だと思った。


「プロポーズ、あんなに一刀両断にされるとは思わなかった。母さんを前にびくついてる女の子と同一人物とは思えなかったよ。なるほど、お婆様が星を与えたのも気まぐれじゃないのかもしれない。僕もかいも、おそらく冨士ふじ君も、面白くないと思っていたのだけど」

「私がねだったわけじゃないので。文句はお婆様にお願いします」

「そうだねぇ。でも、死人に何を言っても、聞いてもらえないから。だとしたら、直接手を打つ方がいいだろう? 母さんは何をしたのかな?」


 会話を拾われないように、ひどく近い距離で話すので、彼の気が変わっても逃げられそうにない。

 本当は怖くて手が震えていた。


「遺言が無効になるようにしようとしたわ。安藤を使って」

「ああ。それで彼がいないのか。紫陽ちゃん。もう一度、今度は取引しよう。僕は母さんより、もう少し気が長い。ゆくゆくは崋山院にその星が戻ってくればいい、くらいに思ってる。君から取り上げる気もない。僕と婚約しておけば、母さんも文句はないだろうし、桧や冨士君やどこからか現れる怪しい親戚たちも手を出せないだろう。僕はその手腕を評価される。そう悪くない提案だと思うんだけど」


 もしも、ツバメも安藤もいなかったのなら、私は多分この提案に乗っただろう。伯母様が姑だなんて、きっと毎日胃薬を飲むことになるのだろうけど。


「みんな、なんでそんなにあの星を欲しがるの? 小さな星よ。ツバメの絞るハチミツはお金になるかもしれないけど、あそこは、お婆ちゃんの個人的な庭なのに」

「個人的な……なるほどね。見解の相違ってやつかな。いくら紫陽ちゃんがそう思っていても、周りは納得しないね」

「私は、あの星をあのままにしておきたい」

「だから、僕ならそうすることに口は出さないと言ってる」


 ゆるり、と首を振った。


「まだ伯母様の手の内で動いてるあなたを信用できるほど、馬鹿じゃないの」


 桐人さんの笑顔が、すっと冷めた。痛いところを突いた自覚はある。


「この状況で、よく言えたもんだ」


 背中に腕を回され、首筋に軽く歯を立てられた。そのまま舌先でなぞられ、小さく身体が跳ねる。


「はなし……ん……い、った」


 強く吸いつかれて痛みが走った。

 抵抗すると、意外とすんなり体を離し、思わず力を緩めたところで今度は手首を拘束される。すぐに唇を重ねられた。

 振りほどけないことに悔しさを感じていると、手の中の端末が大音量で「運命」を奏で始めた。

 私も桐人さんもびくっと震え、その拍子に唇は自由になる。一瞬目が合って、次の瞬間には外へ続く扉が壊れるんじゃないかという音を立てて開き、桐人さんは振り返った。


「呼んでないぞ!」


 ゆっくりと入ってくる人の気配に、彼のボディガードだと思ったのだろう。桐人さんの舌打ちが聞こえた。


「帰りが遅いから、お迎えに上がりましたよ?」

「……お前……」

「俺は早く帰りたいんだよ。未成年略取誘拐犯……淫行も付けようか? とは、関わり合いたくねーんだけど」

「……ツバメ!」


 こいこいと招かれる指に急いで立ち上がってすがりつく。


「家に帰すけど、問題ねーな?」


 軽く傾げられる首に、桐人さんの目が泳ぐ。


「それとも、一発殴って目を覚まさせようか?」

「いいよ。もうよくわかってるでしょう?」


 鞄を拾い上げて、ツバメの手を引いてその場を後にする。階段の途中で、やや服装の乱れた桐人さんのボディガードとすれ違ったけど、止められはしなかった。


「お嬢さん」


 ホテルから充分に離れても足を緩める気になれない。


「お嬢さん。歩いて帰る気かよ」


 足を止めたら、その場から動けなくなりそうな気がしていた。


「ほら、もうちょっとゆっくり。何された? おっぱい揉まれたか? 指突っ込まれた?」

「そ、そこまでは……」

「よぅし。間に合ったな」


 デリカシーの欠片もない言葉に力が抜けそうになる。


「……間に合ってない。キス、された」

「べろべろのヤツ?」

「べろべ……違う、けど」


 ひどく傷ついたような気がしてたのに、実はどうでもいいことだったのかもしれないと思いそうになる。


「はぁん。気にしてんのか。お嬢様は面倒だな。ほれ、こっち向け?」


 つないだ手を引かれて、体の向きを変えられる。ツバメは反対の手の袖を引くと、それで私の唇を拭った。


「きれいきれい。交通事故にでもあった程ー度」

「交通事故は、結構大変だよ」

「おう。慰謝料請求しないとな。完治するまで安静にしとけ。治ったら、愛しい王子様にでも、あまーいキスをしてもらうんだな」


 どう聞いても馬鹿にされてるのに、何度も唇を拭うツバメがあんまり優しく微笑んでるから、何故だか胸がいっぱいになって、涙がこぼれてきた。




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