04.秘密

 ワープを終え、見事に酔った私は、ほぼほぼベッドだけの狭い寝室で横になっていた。

 一瞬とはいえ、前も後ろも上も下も曖昧になるあの感覚は、どうにも慣れそうにもない。

 酔い止めを飲んで少し眠ったので、だいぶ楽になったけれど、エンジン音が低く響くだけの静かな暗がりにいると、訳もなく淋しくなってくる。お婆ちゃんがもうどこにもいないのだということが、急に質量をもって私にのしかかってきたみたいだ。

 涙がこぼれそうになって、慌てて毛布で目元をぬぐう。

 楽しいことを考えよう。

 何か、楽しいこと。





 私にもちゃんと母がいるのだと知ったのは、やはり五歳くらいの時だった。

 それまでは、身の回りの世話をしてくれる屋敷のお手伝いさんが、そういうものなのだろうと考えていた。

 ふと、昼寝から目覚めて、誰の気配もない部屋が妙に淋しくて、ふらふらと廊下に出て行った。

 ぼそぼそと話し声のする部屋に吸い寄せられ、ドアノブに手を伸ばす。


「私のせいだっていうの!?」


 キンと裏返った声に、思わず手を止めた。


「あの女は自分から出て行ったんじゃない。崋山院に泥をかけて、さぞせいせいしていることでしょうよ」

「カスミ、彼女はそんなこと思ってないわ」

「どうかしら。一度も娘の顔を見に来ないなんて、その程度よ。胸の底なんて、誰も覗けないんだから」

「そうよ。覗けないの。だからあなたも、言葉で武装するのはおやめなさい。いつか、自分に返ってくるわ」

「いいえ。お母様。味方なんていないと思わないと。お母様こそ、信じた人に足を掬われないようにお気をつけなさい」


 荒い足音が近づいて、乱暴にドアが開けられても、私は棒のように突っ立っていた。伯母様はぎょっとして、少しだけしまったという顔をしたけれど、すぐに皮肉な笑みを浮かべた。


「しはる。あなたは出て行ったお母さんに似てないといいわね。強くなりなさい」


 ツンと顎を上げて私の横を通り過ぎ、カツカツと高いヒールを響かせて行ってしまう。このころから伯母様は苦手だったけれど、とても分かりやすい人なのは確かだ。

 会ったこともない母は自分から出て行ったのだと心の中で繰り返して、特に悲しいとか哀しいとか感じたわけではないのに、それは澱のように心の底に沈んでいった。

 その時お婆様(当時はそう呼ぶようカスミ伯母様に言われていた)にかけられた言葉は覚えていない。ただ、ぎゅうっと抱きしめられた体温と心臓の音だけを憶えている。


 次の日、なんとなく沈んだ気分で庭を散歩していると、近くの窓がそろそろと開いていった。妙な開き方に足を止め、見入ってしまう。やがて開ききった窓からお婆様が顔を出した。

 辺りを慎重に見渡して、スカートなのに窓枠に足をかける。唇をひと舐めすると、そのまま一気に飛び出してきた。

 いつものビシッと厳格なお婆様の雰囲気とずいぶん違って見えて、驚いた私は思わず呼び掛けていた。


「お婆ちゃん?」

「きゃ……」


 小さく悲鳴を上げかけて、慌てて飲み込むと、お婆様はきょろきょろと視線を走らせ、ようやく茂みの陰の私に気が付いた。


紫陽しはる? ああ。どうしましょ。ね。ちょっとだけナイショに……」


 人差し指を立てかけて、思い直したようにその手で私の手を取り、お婆様は小走りで走り出す。


「いいわ。いらっしゃい。その代わり、どこに行ったかナイショにしてね」


 なんだかわからぬまま車に乗り込み、嬉々としてハンドルを握るお婆様にまたびっくりして、そのうちにあまり目にしない下町の景色に目を奪われた。空中高速帯スカイウェイは乗ってしまえば自動に目的地まで行くけれど、お婆様はわざわざ細くてごちゃごちゃした普通の道を自分で運転していた。

 安藤は自動運転のできる広くて整った道しか使わないから、だんだんワクワクしてきさえした。


「お婆ちゃん、どこに行くの?」

「お婆ちゃん?」

「あっ。お、お婆様」


 突然改まった私にお婆ちゃんはころころと笑い、「あんなところを見られたからね。いいわ。紫陽は特別ね」とウィンクしてみせた。

 広い駅か空港のようなところに着き、飴玉を渡されたことは覚えている。

 次に気が付いたのはソファの上で、お婆ちゃんは壁に映し出されている古い外国映画を見ていた。


「あら。うるさかった? もう少しだから、もうちょっとだけ寝ていてね」


 温かい掌で、ゆっくりと頭を撫でられると、また意識は落ちて行った。

 どのくらい経ったのだろう。体を揺すられて、抱き上げられたまま声をかけられた。


「紫陽。紫陽、見て」

「んー……」


 片眼をこすりながら、もう片方の目をうっすらと開けて、飛び込んできた鮮やかなピンクや水色に跳ね起きた。

 赤みがかったピンクから青へのグラデーション。葉には朝露のような水滴がキラキラと光り、緩やかな風に零れ落ちていく。

 ぽこぽこと小花の集まった半球形の花々は、よく見るとどれも個性的で、とても可愛らしかった。


「綺麗でしょう? こんなに上手く咲くとは思わなかった。アジサイっていうのよ。紫陽の名前はこの花からもらったって、あなたのお母さんは言っていたわ」

「……わたしの、なまえ……?」

「そうよ。お母さんから紫陽へのプレゼントね」


 プレゼント、という言葉にそこに咲く花々をまとめてもらったような気持ちになった。

 抱えきれないほどの、大きな花束。

 母がくれたのは実際には私の名前だけなのだけれど、その景色があまりにも素敵だったのだ。


「私の秘密の場所なの。紫陽。お願い。ナイショよ」


 ぶんぶんと音が鳴るくらい大きく頷いて、改めて花々を見渡す。

 向こうの、小さな白い洋風の家は誰が住んでいるのだろう?

 少し伸びあがって奥を窺ってみると、麦わら帽子に四角い黒い顔、体は灰色の物体が家の陰に入っていくのが見えた。お婆ちゃんに掴まる手に力がこもる。


「……う、宇宙人! お婆ちゃん! 宇宙人が!」

「……宇宙人?」


 私の指さす方向を見て、お婆ちゃんは声を上げて笑い出した。もうその姿は見えなくなっていたけれど。


「ほ、ほんとうよ。顔が黒くて、四角くて、体は灰色で……!」

「怪獣ではないのね」

「え?」


 言われてみれば、怪獣と表現してもいいかもしれない。でも、どうしてか真っ先に宇宙人だと思ったのだ。


「そうねぇ。いるかもしれないわね。宇宙人。これだけ綺麗なんだもの。宇宙人だって欲しいと思うかも」


 しばらくお花を見ながらジュースを飲んで、あれだけ眠ったのにまた眠ってしまい、気づくと車に揺られていた。夢だったのかと思ったけれど、小ぶりの紫陽花が一枝ペットボトルに挿してあって、お婆ちゃんは唇の前にそっと人差し指を立てたのだった。




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