左手

 同じような毎日を過ごしていた。つい昨日出したばかりの半袖を着た私の白い腕に、熱い日差しがじんわりと突き刺さる。都会を吹くぬるい風の中に、草の香りと潮の香りがほんの少しだけ混じっている。アイスコーヒーが飲みたい欲求が不意に起き、会社の手前のコンビニに寄った。

 会社に着くと、斜め向かいの彼の席に彼の姿が見えた。いつものように、返ることを期待せずに挨拶をした。挨拶はその日も返ってくることはなかった。額にかいた汗をハンカチで押さえ、たくさんの汗をかいた容器に入っているアイスコーヒーを飲む。冷たくて苦い液体が私の喉を通ると、アイスコーヒーがおいしい季節になってきたなと、一人喜んだ。私の同じような毎日の中に訪れた小さな喜びを味わった。

 「今日は遅いね」

 チャットの通知が来た。送信者は彼だった。

 彼はチーム内で、変り者だと認識されていた。私もそう思っていた。挨拶もろくにしないし、ミーティング中に口を開いたと思ったら、わけのわからないシュールな冗談を言う。しかしそのあと、誰にも気づかないような的を射たことを言うのだ。本当は仕事ができるのに、変人のままでいる。そんな彼に私は憧れていた。あくまでも人間として。

 冷たくて苦い液体をこくりと嚥下した後、キーボードをたたいた。

 「コンビニ寄ったからね」

年上の彼に、私は敬語をつかわない。なぜそうなったのか、今考えてみると、おそらく彼の変人っぷりを見せつけられて、彼と自分の関係を、常識的なことを超えて、人間と人間としての関係性と捉えてしまったのだと思う。つまり、親近感がそうさせているのだと思う。

 私の回答に対しての彼の表情をうかがうべく、彼を見た。モニターに隠れて顔は見えなかった。モニターの斜め下のキーボードの横に放り出された彼の左手が見えた。

 それを見たとたん、胃の上の当たりが苦しくなった。苦しいのは、冷えたアイスコーヒーのせいではなかった。

 何年も感じたことのなかった、あの感覚。高校生の時に、事務員のお兄さんを好きになって、初めて経験したあの感覚だ。息も心臓が止まってしまいそうに苦しくなった後、目を閉じると、深くて静かなため息がついて出た。

 彼が机の上に投げ出していた左手は、指の骨が太く、太い骨に筋張った肉がついていた。手のひらは厚くて、手の甲に浮かんだ青筋が男らしさを感じさせた。爪はきれいに切りそろえられていて、清潔感があった。それを目にした私は、彼を男として意識し、意識したとたんに恋に落ちてしまったのである。

 まさか、と、私は自分を疑った。しかし、その日は一日中、彼の左手のことで頭がいっぱいだった。仕事のことを考えているふりをして、彼の席のほうへ目をやり、モニターで隠れている彼の顔やキーボードを打つ彼の手を求めた。

 仕事が終わり、すっかり日が伸びて、黄色とオレンジが鮮やかに混じった太陽の光が、建物と建物の間からきらきらと照らす街を歩きながら、私は確信した。恋に落ちてしまったと。

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