帰り道、そして唐突に始まる野球


 亀池から金川に帰る電車に乗るときは少し寂しいです。明日になるまでここには来ないことがわかるから。みゆきちゃんと距離ができてしまうから。

 私は電車を待つ間、携帯を触ることもせず、本を読むこともせず、ぼうっと線路を眺めながら、今日一日の出来事を反芻します。多くはみゆきちゃんのこと。朝挨拶をするみゆきちゃん。脈拍を測ると言っていじわるな顔を浮かべるみゆきちゃん。お昼を一緒に食べるときのみゆきちゃん。ほんのりと赤くなって照れるみゆきちゃん。微笑んだ時にできる小さなえくぼ。少しだけ、走るのが楽しいと思えた、不思議な感覚。みゆきちゃんの細い背中。白い首筋。退屈な先生の話。二人三脚がしたいというみゆきちゃん。今まで見せなかった彼女の新しい表情。手を繋いだときの感触。公園の風。優しい日差し。みゆきちゃんに抱きしめられると、なぜだか泣きたくなる。私の感じる無力感と、彼女の包み込むような優しさ。柔らかい唇。潤んだ目。「かわいい!」と私は叫びたくなります。文芸部の後輩との愉快な会話を思い出して。

 私は少々感傷的になりながら、このもう二度と来ない今日を、撫でるように慈しむように大切に記憶の棚に仕舞い込み、電車に乗って亀池から離れていきます。


 金川駅から自転車で十分程の距離にある家の玄関を開けると、弟の友人達が来ているのか、靴が四、五足ありました。

「ただいま」

 返事はありません。リビングのほうで盛り上がっている声がします。

「よっしゃあ逆転サヨナラスリーランだ! こいつは当たれば飛ぶんだよなあ!」

 手洗いうがいをしてからリビングのドアを開けると、小学6年生の弟の響がガッツポーズをしていました。友人四人とワイワイと野球ゲームをしているみたいです。私がドアを開けると驚いたのか、彼らの注目を集めてしまいました。自分の家なので遠慮することもないですが、こういう展開は少し苦手です。

「お、姉ちゃんいいところに。今ミラプロ(野球ゲーム『絶叫! ミラクルプロ野球』の略です)のトーナメントやってるんだけど、たけちゃんの対戦相手する?」

「私はいいよ。勉強しないといけないし」

 冷蔵庫からお茶を取り出しながら言います。

「でもたけちゃん初心者だもん。実力は姉ちゃんとそんな変わらんし。な、CPUとやっても楽しくないよな?」

 たけちゃんと呼ばれた男の子は少し頬を紅潮させながら「うーん、いや、その」ともじもじしています。さっきまで盛り上がっていた友人達は静まりかえって、ことの成り行きを見守っています。

「ほら響、たけちゃん達も困ってるじゃん。やっぱり、お友達同士で楽しくあそ……」

「ぼ、僕。コンピュータとは前やったけど、ボロ負けで全然楽しくなかったから……」

「ほらね! 姉ちゃんどーせ勉強するって言っても本読んでゴロゴロするだけでしょ。1試合だけ付き合ってあげてよ」

 ……あれ? 弟の余計なお節介かと思ったら意外とたけちゃんも乗り気だったという……。

 押し切られてなぜか私もトーナメント戦に巻き込まれることになりました。

「だったらいいけど、1試合だけだからね」

「トーナメントだから勝ったら次もあるよ」

「1試合だけって言ってたじゃん。響、操作設定しといて。守備は勝手にやってくれるやつね。あと絶叫演出はオフで。うるさいから」

「たけちゃんは操作何にする?」

「あ、守備はセミオートで、打撃はマニュアルで」

「はい、これコントローラ。自分で設定して」

「じゃあなんで聞いたん?」

 声変わり中の低い声で誰かが言うと、くすくすと笑いが起きました。

「これどっちが勝つか賭けようぜ。負けた方ジュース奢りな」

「じゃあ俺響のお姉さん一票で」

「言っとくけど姉ちゃんめちゃ弱いよ。運動神経も皆無だし」

「まじ? じゃあお姉さんにしとこ」

「話聞いてた?」

「でもそれならたけちゃんも同じじゃん」

「てかたけ坊、なんか顔赤くない?」

 後ろのソファに座る彼らの会話を聞いてふと隣のたけちゃんを見ると、確かに耳まで赤くなっています。

「あー。一応言っとくけど、姉ちゃん顔だけだからな。家だとぐうたらだし、ヒキコモリだし」

「……ちょっと響うるさい」

 生意気盛りの弟はこのように時々私の心に針を刺すようなことを言います。まあ弟は大して考えてものを言っていないので、いちいち気にしないようにしています。そうすることで少しずつ私のメンタルが強くなってくるはずです。

「プレイボール!!」とこちらがびくっとするくらい大きな声で試合が開始します。

「絶許演出オフって言ったじゃん!」と私が怒ると後ろからまたくすくすと笑い声がします。

「たけちゃん、姉ちゃんはストレート投げる時腕にちょっと力入るからそれ狙うといいよ」

「お姉さん。たけ坊は強振する時頭動くけど気にしなくていいですよ」

「いけえ! 威圧感持ちだから強いぞ!」

 なぜだか盛り上がりを見せる中、私は第一球はスローカーブを投げました。すると打者はバットを水平に固定し、ボールにコツンと当てました。コロコロと転がったボールを三塁手が拾い、一塁に投げて、アウト。

「なん……だと……?」

「たけ坊の必殺技、強振を意識させてからのセーフティーバントが防がれた!」

「やっぱお姉さんうまいじゃん」

「まあ守備オートにしてるしなあ」

「これは熱い試合になりそうだ!」


 結論から言うとこの試合は投手戦、というより貧打戦になり、最終回に私の失投を逃さなかったたけちゃんのホームランによって決着しました。……熱い試合だったのかな? でも響の友達はそれなりに楽しんでくれたらしく、私もトーナメントは敗退しましたが、それによって自分の部屋に逃げ込むことができました。ベッドの上の文庫本を寝転がりながら読んでいると、うつらうつらと眠くなり、確かに私は引きこもりかも……と長い時間を一人で過ごした部屋のことを考えながら、夢の世界の中に吸い込まれていきました。夢の中では今日はまだ小説を書いていないことをみゆきちゃんに糾弾されていました。

「文化祭までにちゃんと終わるの? 計画通りに進めないと駄目よ。もう、こだまったら、……カッキーン! ホームラン! って感じなんだから」

 怒られている割には私はノーダメージで、珍しく支離滅裂なみゆきちゃんの言葉に耳を傾けています。

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