第25話


 次の日も、私は十分遅れで家を出た。体調はあまり良くない。それでも浮つく足でペースが早まらないよう、腕時計をチラチラ見ながら歩を進める。おかげで、昨日と同じ八時十分には正門をくぐることができた。

 こだまを自然な形で待てるよう、早足で昇降口に向かう。入ると、下駄箱のところにこだまの姿が既にあった。

 近づいて声をかけようとした。

 しかし、彼女は何か、いつもと違っていた。

 こだまは細い腕を伸ばして、下駄箱から紙のようなものを取り出した。

 私はとっさに隠れた。

 見てはいけないものを見てしまった感覚。

 冷や汗が出た。

 いくらなんでも私にだってわかった。

 たぶん、あれは。

 ――恋文だ。

 隣の下駄箱で時間を使いながら、こだまが教室に向かうのを待った。待ちながら、頭が真っ白になった。 

 こだまのことだから、ラブレターなんてさして珍しくもないかもしれない。でも、実際にその場面に出くわすとなると……やはり、辛いものがある。

 こだまは、どうするんだろう。

 彼女は恋愛というものに、多少のトラウマを抱えている。けれど、だからといって、それを引きずってばかりでもない。西尾さんたちとの件も、最後は自分の力で解決した。もしかしたら、今回も、彼女はそんなトラウマをも乗り越えてしまうかもしれない。

 途端に、頭痛がした。ぐるりと、視界が回るような目眩も覚える。

 おぼろげに、彼女が離れていくような感覚に、また襲われた。

「おい、大丈夫か」

 低い声がした。横に、男子生徒が立っていた。

「顔色が悪いぞ。保健室に行った方がいい」

「大丈夫よ。自分で歩けるから」

 そう言って足を踏み出すと、体は冗談みたいにふらついて、倒れそうになった。

「無理すんなって。ほら、肩持っていいから」

 そう言うと彼はひょいと私のカバンを取り上げた。

「……ありがとう」

「いいっていいって」

 肩にもたれかかるようにすると、なんとか歩くことができた。確か、彼は私と同じ七組の生徒で、渡部くんだった。彼の肩は、こだまのものとは違って、硬かった。

 保健室に入ると、養護教諭の川口先生が明るい声で迎えてくれた。川口先生が私を連れてきてくれた渡部くんに礼を言うと、彼は照れくさそうに笑って、教室に向かっていった。

 中にはすでに何人かの生徒がいた。高校に入ってから定期検診以外で保健室に来るのは初めてだった。

 紙に症状を書き、体温を測った。

「熱は、ないみたいね。でもちょっと休んでいった方がいいんじゃない」

 川口先生がそう言ったので、私は従うことにした。

 白いベッドに横になると少し、楽になった。

 息をゆっくり吐くと、一瞬、冷静になれる。その冷めた頭で考えた。

 ――こだまのことは、こだまのことだ。

 自分で考えなさいって、前に言ったことを思い出した。だから、これはこだまが決めること。

 そうだ。 

 頭の中ではわかっている。

 では、私にできることは?

 ――離れたくない。

 思いを伝えること?

 ――離れたくない。

 駄目だ、今日の私では、思いをうまくまとめることは難しい。

 ――離れたくない。

 じゃあ、何をすればいいの?

 ――隣にいたい。

 ただ待つしかないのだろうか。

 ――こだまの、隣に。

 

 私の願いは、ただそれだけなのに。

 

 頭がズキンと痛み、涙が頬を伝った。震える唇から溢れる声を、私は必死に抑えた。

 ――どうせ叶わぬ恋なのだ。

 そのことは、初めてこの気持ちを自覚した時にも薄々気づいていた。魅力的だが危険な、まさに諸刃の剣のような恋。諦めてしまった方が楽なのかもしれない。その方が幸せなのかもしれない。こだまは、私と一緒に居続けることが幸せだとは限らないのだから――


 なら。

 いっそ。

 いっそのこと。

 どうしても、彼女の隣に居たいのなら。

 

 襲ってしまおうか。

 私の大好きな彼女を、この手で。


 恐ろしいことだが、できなくもないと思う。

 いつものように勉強をしようと誘えば、彼女は何の疑いもなく応じてくれる。図書館ではなく、家に誘っても彼女は喜んで来てくれるだろう。私の部屋で、こだまが座ったところで唇を奪う。声なんか出させない、舌を入れた濃厚なキスを、満足いくまで続ける。彼女の可愛い声が出る口を、舌を、唇を、長い間独り占めにする。きっと私はまたあの甘美な感覚に酔いしれることになるのだろう。きっと脳が溶けてしまいそうになるほど、彼女と一つになれるのだろう。それが終わったら……家の中といえど、大きな声で悲鳴を上げられるとまずい。……ハンカチ、私のハンカチを彼女の口に詰めよう。私のものも含んだ彼女の唾液を吸い上げるのは、私のハンカチ以外ではありえない。苦しいかもしれないが仕方ないのないことだと言い聞かせる。変な抵抗を見せる前に、刃物で脅しておく。そしてちょっとずつ、彼女の制服を剥がしていく。こだまの身体が他の誰かに汚される前に、私が、その身体に刻みつけてしまうのだ。そしてその様子を携帯のカメラに収め、脅しの材料にする。これからもこだまと「一緒」にいるための脅しの材料に。

 全てが終わったら、ハンカチを外して、彼女を抱きしめながら、耳元でそっと囁くのだ。「あなたのことを愛しているの」と。彼女は困惑するだろう。怖くて、痛くて、泣いているだろう。もしかしたら泣くのを忘れるくらいショックで頭が空っぽになっているかもしれない。そんなこだまを、私が優しく、甘く、溶かしてあげよう。こだまのための、こだまのためだけの、優しい「みゆきちゃん」になってあげよう。

 これで彼女は私のことを忘れられない。

 私無しでは生きていけない。


 私は泣くのをやめてこの現実逃避的な妄想に熱中した。そうしたら、こだまは本当に私だけのものになるような錯覚すら覚えた。

 でも、妄想は妄想。現実と空想は違う。

 一度考えるのをやめると、悲しくて涙が止まらなくなった。

 ――そうじゃない。

 何を考えているんだ。いくら何でも、そんなことしたくない。

 私が欲しいのは、そんなこだまじゃない。

 私が欲しいのは、優しくて、柔らかい声で、ちょっと弱気で、可愛くて、いい香りがして、健気で、まっすぐで、抱きしめたら、口づけしたら、溶けてしまいそうで、セミロングの黒髪を揺らして歩いて、一緒に帰ってくれて、傘に入れてくれて、一生懸命、勉強に取り組んで、隣で、私の隣で楽しそうに笑って、微笑みを見せてくれる、可憐で華奢で、あどけない、居心地のいい、私の一番の、こだま、なのに――

 

 だが、どうすればいいというのだろう。私は彼女に近づけない。無理に近づいたら、また、「あの日」のように、彼女を傷つけてしまう。こだまに、悲しい顔をさせてしまう。ただ、左手を掴んだだけで「ごめん」と謝らなければならないこだまになってしまう。身体のレベルで私を恐れるこだまに変わってしまう。

 なら、告白か。今日はできなくても、また、いつか――

 でも、駄目だ。先を越された。もう無理だ。

 文芸部のこだまに、恋文なんて。差出人は、こだまのことをよくわかっているに違いない。よほど自信があるに違いない。私に勝ち目なんて、あるとは思えない。

 それに、私とこだまは「同性」だ。彼女は友達として私と一緒にいることはあっても、恋人として私の隣にいることはないだろう。いくら親密になったところで「友情」が「愛情」に変わることはないのだろう。私が、悪いのだ。同性でありながらこだまを好きになってしまった私が。

 ああ、憎い。紙切れ一枚で、こだまに侵入してくる奴が憎い。勝手に惚れて、好きに告白できる男が憎い。私の希望を一瞬で無に帰す行動を、平気な顔で、当然といった顔で、返事を楽しみにしながらしたのだろう。私はお前が憎い。お前は、こだまの可愛いところをたくさん堪能して、私では絶対入り込めない領域も、適当な理由をつけて侵せるのだから。紙切れ一枚で私からこだまの隣というポジションを奪い去る権利を、当然のように有しているのだから。


 なんだか、おかしくて笑いがこみ上げて来た。諦め、憎悪、未練の向かう先が、涙で溢れた後の虚しい笑いとは。人間の体はどうなっているのだろう。

 

 だが、今はとにかく。

 こだまを待つしかない。

 暗い中学時代を過ごした彼女だ。高校生活くらいは幸せに過ごして欲しい。その幸せは、彼女が選べばいい。

 そのためには、自分の思いを、殺すしかない。

 私は、ゆがんでいた。そして、狂い始めた。

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