第22話


 夏休みも終わり、二学期が始まる。

 久しぶりの教室に入ると懐かしい香りがした。でもそれは私が自分の席に着く頃には忘れてしまうほどの微かな感覚だった。

 あと十分くらいでこだまは来るだろう。今は電車を降りている頃だろうか。数日前に会ったばかりなのに、無性にそわそわする。とてもカバンの中の新書を読む気にはなれない。

 荷物を机の上に置き、右斜め後ろの方にあるこだまの席に目をやる。あの机がある限りこだまが来ることは約束されているようで安心できた。

 じれったく進む時計の針を眺めてから、今日の授業の支度をする。それもすぐに終わると、いよいよすることがなくなった。

 一昨日こだまにシャーペンを返したときの興奮を、私はまだ覚えていた。いつもの通り勉強を一緒にして、疑うこともなくシャーペンに手をつけるこだま。彼女は真っ白なノートの上を、私の魂がこもったシャーペンで、さざ波のようなリズムで駆けていった。そこからこだまの柔らかな筆跡が生み出されると思うと、感動を覚えずにはいられなかった。

 こだまは今日もあのシャーペンを使う。

 今日はどんな作品を残してくれるだろう。

 なんてことを考えていてもまだ八時七分。私はそれまでの時間をぼーっとして過ごすことにした。こういう時間も大事である。

 気づけば教室は活気付いていた。ざわざわとした喧騒に、ふと時計に目をやる。八時十二分。振り向くと、こだまはちょうど到着したところだった。

 反射的に立ち上がって、こだまの席に向かおうとすると、彼女も気づいたようで顔を上げて、顔をほころばせた。

「おはよう、みゆきちゃん」

「おはよう」

 あ、しまった。何も考えずに来てしまったので、挨拶の後に続ける言葉がない。こだまは何の用だろうという具合にこちらを見つめてくる。大きな瞳に私は捉えられている、と改めて意識するとこそばゆい感じがする。

「制服姿は久しぶりね」

「あ、それ私も思った」

 と言って彼女は微笑んだ。

 こだまと会うことは久しぶりではない。あえて「制服姿」と言うことで、こだまの夏休みの生活の中に私があることを確認できる。

 無理やりひねり出した一手だったが悪くなかった。

 夏服は白地に紺のセーラー服。冬服とは色が反転しているところが多いが、胸元の白いリボンは共通だ。

 こだまの内側と外側を分けるそれは、彼女の身体の線をほどよく出していて魅力的だった。

「みゆきちゃん制服似合うよね。凛々しくて、委員長ぽいっていうか」

 こだまの視線が私の胸のあたりに向けられていた気がして、ちょっとたじろぐ。これも『ストレート攻撃』の一環だろうか。

「褒めても何も出ないわよ」

 まあ、お世辞でもこういうのは結構嬉しい。言われる相手がこだまならなおさら。

 私もお返しの一手を繰り出そうと頭をひねっていると、元気な声が飛び込んで来た。

「おっす、みゆきりん。おひさ~」

「元気してた?」

 こんがりと焼きあがった女子テニス部二人がやって来た。きっと部活や遊びやらで忙しかったのであろう。はにかむ白い歯が眩しかった。

「ええ。ずいぶん焼けたわね」

 うんざり、という様子で東野さんが言う。

「みんな最初はそう言うんですよ」

「んで次が、『宿題はちゃんとやった?』でしょ。百万回聞いたっつーの」

 口調は荒々しいが別に怒ってるわけではない、というかそんな決まり切った挨拶も楽しんでいるようだった。

 あれ、でもこだまは。

 二人の視線も一緒に彼女に集まった。

「こだま、あんまり焼けてないわね」

「これは驚きの白さですね」

「漂白剤かっ」

 こだまは西尾さんのツッコミに肩を震わせながら答える。

「うん。私肌弱いから、焼けないように、ね」

「確かにこだまちん、海でも結局泳がなかったし」

「こだまは泳がないじゃなくて泳げないんでしょ」

「それでも楽しかったよ。由美ちゃん砂で埋めるのとか」

「うちはこだまに埋められるなら本望だわ」

「変なの」

 そう言ってこだまは笑った。

「みゆきりんもくればよかったのに。こだまちんナンパとかされて大変だったんだから」

「……ナンパ?」

 それは聞き捨てならない。

「まあビーチパラソルの下にこんな可愛い子が一人でいたら無理ないけどね。うちらが追っ払っといたけど。大した面ぶら下げてねえくせによく来るよ、ほんとに」

 西尾さんの声がちょっと大きくなって、さっきまで元気に話していた男子の集団がこちらの様子を伺うようにちら、と見た。

「ごめんなさい。この子、とうとう夏休み中に彼氏ができなかったの」

「夏休みじゃなくたってできねえよ。……って何言わせるんだっ」

「すごい。由美ちゃんノリツッコミ」

 こだまが感心して目を丸くするのがなんとなくおかしい。

「ってもう時間じゃん」

 一応、八時十五分から十分間は自学自習か、読書の時間になっている。西尾さんたちはこだまの頭をぽんと撫でてから自分の席に戻った。

 私も席に戻ろうとした時、こだまが言った。

「みゆきちゃん。実力テスト、頑張ろうね」

 一瞬、頭が固まった。

 ……実力テスト。今日だったか。

「え、ええ」

 曖昧な返事を残しつつ席に戻る。

 今日は、午前中に始業式などがあって、午後からは実力テスト。教科は入試の肝になる数学と英語で、問題は応用問題ばかりだ。去年も夏休み明け初日にあったことを、今年は失念していた。そういえばこだまはこの実力テストにかなり気合が入っていると言っていた気もするが、まさか今日だったとは。

 人の心配より先にすることがあったな、と反省。

 今日のお昼は購買のパンになりそうだ。

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