第六十五話 じゃあ雇用契約書にサインを
表で少しばかり時間を潰してから、俺は再び応接室に戻った。
パトリックは幾分か落ち着きを取り戻しており、親分は疲れた顔をしていたが――とにかく話し合いは纏まったようだ。
味が薄い上に雑味が酷く、しかも温くなった不味い紅茶で喉を潤して、俺は後半戦に臨む。
「レインメーカー子爵。ボクを雇いたいならば、条件が三つあります」
「よし、飲もう。じゃあ雇用契約書にサインを」
「ええっ!?」
「コイツだって条件を決めるのに悩んでいたんだから、少しは聞いてやれよ……」
パトリックが不在では共通ルートを進められないので、クロスが世界再誕に向けて動き出す可能性もある。メリルの恋路云々以前に、パトリックは必ず学園に復帰させなければいけないのだ。
彼の社会復帰がかかっているのだから、ここに至って飲めない条件などあるものか。条件がどんなものだろうと、全て受け入れるつもりだ。
それでも親分が言う通り、パトリックは真剣に考えてくれたようだ。
それなら一応話を聞く姿勢は見せようと、俺は頷いて先を促す。
「一つ。ボクの実家もレインメーカー子爵の魔道具事業に参入させてください。実家が倒れれば、領民が路頭に迷います」
「いいだろう、許可する。何ならウィンチェスター家の減収分は俺が補填してやるし、失業した領民には就職の支援もしてやる」
「……本当ですか?」
クリスも俺も、悪気があってダンピングしたわけではないのだ。
どこぞの領地を破産させて、スラム街のお友達を増やそうなどとは、欠片も考えていない。
パトリックは心底意外そうに目を丸くして俺を見た。だが、言ったことに嘘は一切ないので、俺は堂々と答える。
「研究施設からだって脱走したんだろ? これで嘘だったら俺のところからも逃げるんだろうがよ。キッチリ支援するから安心しろ。次」
魔道具事業は公爵家を筆頭に、かなりの家が絡んできている。
パトリックとしても、今から参入するのは難しいと分かっているだろうから、これを踏み台にもっと小さい要求を飲ませようとでもしたのだろう。
だが、事業への参入可否は全て俺が判断している。
クライン公爵家もワイズマン伯爵家も俺に丸投げしたのだから、仮にクレームを入れてきたとして、全部突っぱねることができるはずだ。俺にはその権利がある。
ウィンチェスター家がこの申し出を拒否しなければ、一大生産拠点に据えてもいい。
今までに築いてきた既存のルートに流すだけでも増益だろうし、領内の経済状況など一瞬で回復するだろう。
さて、条件をあっさりと承諾すれば、パトリックは少し焦ったような素振りを見せた。
少し言い淀みながら、彼は二つ目の条件を口にする。
「ふ、二つ。兄が今、危険な立場にいます。兄を……家族を助けてください」
「いいだろう。金でも後ろ盾でも、欲しければ好きなだけ言え。次!」
事情も聴かずに、俺は即答する。
没落寸前の領地を、一個丸ごと救おうと言うのだ。今更パトリックの兄を一人助けるくらい、造作もない。
「原作」ではパトリックの親類縁者など見ていないから、これについては後で状況を聞く必要もあるが。
しかし、どんな難題が待っていようと、受ける以外の選択肢など無い。
危険がどうした。ここでミスをしたら世界が過去に巻き戻るという
俺が力強く請け負うと、パトリックは困ったような顔で親分の方を見た。
だが、これはパトリックの方から切り出した条件なのだから、親分も黙って首を横に振るだけだ。
提案を飲む毎に覚悟を決めて強気になっていく俺と、提案が飲まれる度に委縮して怯えていくパトリック。
対比的な構図が出来上がりつつある中で、彼は最後の条件を、恐る恐る口にした。
「み、三つ目、なのですが。研究施設から追手がかかっています。秘密を守るために、暗殺者が来るかもしれないんです。……それを承知の上で雇い、彼らからボクを守り抜くと誓ってください」
「最初からそのつもりだが?」
「え、あ、あう……」
「条件はそれだけか?」
十三、四歳の少年が思いつくような望みなど、俺に叶えられないわけがない。
こちとら国家予算級の収入源があるのだ。相手が誰だろうと、金の力で全てを解決してみせる。
変わらず下衆な考えだが、よくよく考えればこれは一石二鳥だ。
「原作」でアランの貯金額に触れることなどないが、それでも金を持てば持つほど「原作」から乖離していく。
パトリックを苦境から救いつつ、俺の膨れ上がり過ぎた貯金を処分できるかもしれないのだから、俺にとってはお得な作戦だ。
俺としては、金貨数十万枚など生きていくのに不要な金だと考えている。
エミリーと暮らす屋敷を建てて、百年分くらいの税金を前払いして、老後の資金を蓄えて。孫の代まで豊かに暮らせるくらいの金が残れば万々歳である。
それに、世界がリセットされたら消えて無くなる金だ。
今はその瀬戸際にいるのだから、あぶく銭など残らず使い切ってしまえ。という気分だった。
「あの、自分で言うのも何ですが。本当にいいんですか?」
「いいって言ってんだろ。ほら、契約書にサイン」
「あ……は、はい……」
とうとう観念したようで、パトリックは項垂れながら書類に目を通していく。
何はともあれ、これでめでたく契約成立だ。ここからは速攻で動くとしよう。
俺は沈痛な面持ちでサインをするパトリックから親分へと目線をずらして、ここに来て最初に出した依頼について念押しをする。
「じゃあ親分、先ほどの件もお願いしますね。多分、近いうちに必要になりますから」
「あん? 人材なら紹介しただろうが」
「違いますよ。秘書
親分と人材雇用の話を詰めれば、それで今日のミッションは全てクリアだ。
親分との話も無駄にならなくて良かった。……パトリックから出された条件を達成するために、大量の手駒を動員する必要があるのだ。
俺は雇用条件に訂正を加えて、新しい募集要項を親分に差し出した。
「お前、これ……正気かよ」
「狂気に見えますか?」
「少なくとも、貴族のやることじゃねぇよな……まったく……これも貸しだぞ」
「いいでしょう。今週中に三十人くらいは用意してくださいね」
非常に嫌そうな顔をした後、親分はやけっぱちになったかのような態度で「分かったよ畜生!」と叫んだ。
折角だから彼らを連れて行くとしよう。これが初陣になるのだから、景気よく行きたい。
……どこに行くのかって?
とても楽しいところだ。少なくとも俺
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