第5話 月の武蔵野に泊まる

 父、菅原孝標すがわらのたかすえの任地だった上総かずさを発ち、わたしたちは西へ向かっている。


 その日、泊まった場所は半分崩れかけた空き家だった。雨戸もない吹きっ晒しの部屋にすだれや几帳、幕を掛けまわして辛うじて夜風をしのぐことになった。

 源氏物語で有名な貧乏貴族の娘、末摘花すえつむはなのお屋敷もこんな感じだったのだろうか。そう思うと侘しさが募る。


「君依くん。ちょっとこっちへ来なさい」

 最近、姉姫にべったりな君依くんを呼びつける。君依くんはあからさまにいやな顔をした。

「こっちがいいのにゃ。僕は年上の女性が好きなのにゃ」


 これ見よがしに、姉の太ももに顔をこすりつけている。いや、ネコなんだから、それくらいしても別に不思議じゃないけれど。

 なぜだろう、すごく腹立たしい。やはり見かけが君依くんだからか。


「おのれ。三味線にするよ、君依くん」

「わかったよぅ」

 のそのそ、と君依くんがやってきた。足を大きくひらいて、制服のお腹の辺りを舐めている。え、いつの間にあんなに身体が柔らかくなったんだ、君依くん。

「どうしたの斎原。顔が赤いよ」

 気付くと、君依くんが不思議そうにわたしを見ている。


「ち、ち違うから。わたしも舐めてみたいとか、そんな事全然思ってないからっ」

「へえ? 斎原もネコになりたいのかと思ったよ」

 うぐ。別に自分のお腹を舐めたい訳じゃないけど……なってもいいかも、ネコ。


 ひとしきり体を舐めた君依くんは、とことこ、と縁側に出ていった。なんだろう、おしっこかな。

「斎原、ちょっとおいでよ」

「なによ。変なことに誘わないで」


 男子はよく、連れ〇ョンとかするっていうし。でも君依くんと並んでなんて……うわ、想像するだに恥ずかしいっ!


「ほらほら斎原、これ見てごらんよ」

 得意げな君依くん。いったい何を見せようというの、この変態。


「ほーら、すごいだろ」

「ええ?」

 

 うおー、わたしは思わずため息をついた。ここは少し高台になるのだろう。正面には広大な原野が広がり、目を横にやると夕焼けに染まる海が見えた。

「なんてきれい」

「な、そうだろ」


 む、相変わらず気の利かない君依くんだ。

「そこは、あれでしょ。お決まりの台詞があるじゃない。『いや、ごにょごにょの方がきれいだよ』とかなんとか」

 やだ、自分で言って本当に恥ずかしい。早くわたしを救ってくれ、君依くん。


「ああ、そうか。月がきれいですね、だっけ」

 つ、つ、月が!?

 いま、わたしに向けて言ったよね。『月がきれいですね』って。


「ほ、本気にしていいんだね。君依くん!?」

 だめだ、動悸が収まらない。苦節10年。やっと君依くんに言わせたぞ。『月がきれいですね=あなたが好きです(by 夏目漱石)』って。


「うん。あ、でも今日の武蔵野は月がでてないか」

「は?」

 夏目漱石、どこ行った。


「そうか。君依くんがそんな洒落た逸話を知ってる訳がなかったよ」

 ぬか喜びとはこの事か。あまりの落差に怒りがこみ上げてきたぞ。この屈辱、武蔵野だけに、呑み尽くせない(野、見尽くせない)ではないか。


「ん、何のこと?」

「なんでもないから!」

 

 あー。これで、何連敗目だっけ……。




――― かりそめの茅屋かややの、しとみなどもなし。簾かけ、幕など引きたり。南ははるかに野の方見やらる。東西は海近くていとおもしろし。―――




 ☆


 やがて武蔵国を過ぎ、東海道へ出た。


「へえ、こんな所にも火山があるんだね」

 荷台で丸くなった君依くんが顔をあげた。周囲の低い山から独立したその山は、雪を戴いた頂上から白煙をあげている。

「なんて山だろう、阿蘇山かな」


 おい。冗談で言っているのか、この男。こんな短期間で九州に着くはずがないだろう。それにここが九州なら、目的地の京都を通り過ぎてるし。


「あのね君依くん。あの山の形って、本当に記憶にないの?」

「えー、どうだろう。セント・ヘレナ山?」

「日本だよ、ここは」


 ふーむ、形かぁ。と君依くんはわたしを見た。

「斎原のおっぱいの形と同じとか?」

 きっと、褒めてるつもりなんだろうけれど。


「駿河湾の海底谷に沈めるよ、君依くん。富士山でしょ、あれは」



「え、藤乃さん?」

「富士山だよ。どこまで、振られた元カノに未練タラタラなの!」

「にゃううう」

「そこ、泣かない!」


 平安時代の富士山は、まだ火山活動が盛んな時期だったらしい。だからこうやって煙があがっているのだ。

 わたしたちは富士山を見ながら、海岸沿いの松林を進んでいった。




 ――― さまことなる山の姿の、紺青を塗りたるやうなるに、雪の消ゆる世もなくつもりたれば、色濃き衣に、白きあこめ着たらむやうに見えて、山の頂の少し平ぎたるより、煙は立ち上る。夕暮れは火の燃え立つも見ゆ。―――


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