第4話 いざ京へ出発
―― 夢にいと清げなる僧の黄なる地の袈裟着たるが来て、「法華経五の巻をとく習え」と言うと見れど、人にも語らず、習はむとも思いかけず、物語のことをのみ心に…… ――
平安時代の夜は、当然ながら街の灯りなどない。新月の夜は自分の指先すら見えないほどの漆黒の闇に包まれるが、さいわい今夜は月が出ている。
板戸の隙間から青白い光が差し込んでいるので、中に居てもぼんやりと部屋の様子が分かる。
「だけど、見えない方がよかったかも」
気のせいじゃなく、部屋の隅に立つ薬師仏がこっちを見ている。
あの視線とアルカイックスマイルが怖い。おまけに右手で手招きしてるし。わたしを何処へ連れて行く気なんだ。
そうだ、こんな時には。
「ちょっと、君依くん。君依くんってば」
縁側に近いところで丸くなっていた君依くんが顔をあげる。
「どうしたの、斎原」
「しっ、大きな声を出さないで」
君依くんは音をたてず、四つん這いでわたしの布団のところまでやって来た。
「一緒に寝て」
「ほうっ?」
胡散臭そうに顔を撫でている君依くんの襟首をつかんで、布団に引きずり込む。
「にゃぁぁー」
じたばたする君依くんを強引に押さえつける。もちろん、君依くんは他の人から見ればネコなので、倫理上なんの問題もないはずだ。
「よし。これでゆっくり寝られそう、ぐふふ」
以前から一度やってみたかった、念願の『君依くん抱き枕』だ。
「だけど、ぼくは寝られないよぅ」
枕が何か言っているけれど、ぜんぜん聞こえない。
だけど、そろそろ元の世界に戻る方法を考えなくては。
そう思っていたらおかしな夢を見た。
お坊さんだろうか。枕元に立った男が厳かにわたしに告げた。
『物語ばかり読まずに、法華経の五の巻を読むのじゃ』
はあ? わたしは答えた。
『余計なお世話なんですけど』
何が悲しくて仏教の経典など読まなくてはならないのだ。
『いや。だからそこにはだな……』
なぜかそのお坊さんは慌てている。
『わたしは、わたしの読みたい本を読むんです。どうかお構いなく』
そこで記憶がなくなった。
うーむ。夢うつつながら、とんでもない事をしてしまったような気がする。
「ちょっと君依くん。大変だよ!」
朝になり、わたしは隣で寝ている君依くんを揺り起こす。
「何だよぉ斎原」
ふあー、と欠伸しながら、君依くんは大きく伸びをした。
「あ、いててて。足がつった」
悲鳴をあげて足を押えている。もう、面倒くさい男だな。
そんな事より。
「法華経って、どこにあるか知らない? 元の世界に戻る手がかりが、その中に有るみたいなんだ」
「すごい。さすがは図書寮の末裔。それって夢のお告げの形をとった、無意識下からの啓示じゃないのか。で、その解決策ってどんな内容だったのかな」
君依くんは顔をあげ、尊敬のまなざしでわたしを見た。そうだよ、君依くんのわたしへの態度は常にこうでなくちゃいけない。
でも。うん、内容?
「え、あ。いや、途中で寝ちゃったから。ははは」
「夢の中なんだよね」
急に君依くんの表情が醒める。やはりこんな時に限って鋭いやつ。
「そうだよ。そうなんだけど」
さすがに、お坊さんのアドバイスを途中で断ったとは言いにくい。
「法華経ならお寺だろ? あとは図書館とか」
「この時代に図書館なんかある訳ないでしょ。そうだ、図書寮の書庫ならあるかも。となると、やはり京都に行かなきゃダメなんだ」
「でも、歩いて行くには遠いよ。だってここ茨城県か、千葉県のあたりだぞ」
だったら仕方ない。
「君依くん、わたしを背負っていきなさい」
「無理だよ。ぼくは本より重いものを持ったことがないし」
そうだった。しかもライトノベルだし。
「ライトノベルのライトは、本の重量の事じゃないからね」
だからそんな心の声を読むな。読むならわたしの恋心を読み取れ。
でも意外と早くその日はやって来た。
父、
魔神か何か分からないけど、願った甲斐があったというものかもしれない。
☆
家財道具をすべて荷車に積み込むと、家の中が何も遮るものなく見渡せた。
「にゃう」
君依くんは荷車へ飛び乗った。
「ちょっと。なに自分だけ楽しようとしてるの」
「斎原、ぼくはネコだよ。ネコが荷車について歩く方が不自然じゃないか」
そうか。だったら、わたしもネコになりたい。
出発してしばらくすると、後方から悲鳴が上がった。
「何だあれは、黒い煙のようなものが見える」
わたしは振り返った。見慣れた家の奥に、それはあった。
「煙じゃない、瘴気だ」
君依くんが気付いた。その黒い塊は段々大きくなって、遂には家を覆うまでになっていた。それはあの薬師仏を安置していた場所から立ち上っているようだ。
「逃げよう、お父さま」
わたしは先を行く菅原孝標さまに叫んだ。その瘴気はわたしたち一行を追って来る。それを吸い込むと、刺激で涙がぽろぽろ落ちた。
「何だったんだろう、あれも文妖かな」
どうにか瘴気を振り切って、わたし達は振り返った。
「あー、驚いたにゃ」
君依くんは荷台にのったまま、足で耳の後ろを掻いている。まずい、君依くんがどんどん猫化しているようだ。
早く京の都で、解決策を見つけなくては。
――― 日の入り際のいとすごく霧りわたりたるに、車に乗るとてうち見やりたれば、人まには参りつつ
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