第12話 襲撃
これほどの森なのに、落ちている枝はどれも貧弱なものばかりだった。ラスラは焦った。右往左往している間に、イオの姿は茂みにすっかり隠れて見えなくなった。
それでも歩いている内に、手ごろな枝は何本か見つかった。たくさん集めておかなくちゃ、とラスラは思った。イオは本当に具合が悪そうだった。もともと肌は白い方だが、あんなに真っ白になっているイオは初めて見た。
最初に寒がった時、どうして気が付いてやらなかったんだろう?
いや、そうじゃない。
あの巨樹に近付こうとしたイオを、どうしてもっと強く引き止めなかったのだろう。
ずっと心がざわついていたのに。
イオの様子がいつもと違うことに、とっくに気が付いていたのに!
だが、後悔している場合じゃない。ラスラは腕一杯に集めた枝を抱え直し、イオの所に戻ろうとした。火打石はまだ自分が持っている。
と。ふいに背後で音がした。
びぃぃぃぃんっ。
一気に身体が緊張し、足を止めた。ヨナキグサの弾ける音。また野うさぎか? いや違う。ラスラは枝をその場に置いた。
背中にかけていた弓をとり、矢をつがえる。
さりげなく木の後ろに回り、周囲の気配を探った。あれから音はしない。だけど何かが近くにいる。視線を感じる。
息をゆっくり吐いた。
ラスラは神経を尖らせ、その瞬間を待つ。
ひゅっとかすかに空気の音がした。
続いてだんっとラスラの隠れている木に衝撃。ラスラはすばやくその場から飛び出して、敵意の先に矢を放った。
矢は相手の首のすぐそばをかすめていった。その口元に細長い筒をくわえている。
また木に隠れると、今度の矢はラスラの足元に突き刺さった。あと半歩ずれていたら足を射抜かれていただろう。
ラスラは心臓が破裂しそうだった。一瞬見えたフード、大の大人より一回り大きな巨体。間違いない。トカゲの長だ。数日前に遭遇したやつらかと思ったが、幸い相手は一人である。二股の槍は持っていないし、馬もいない。どうやら運悪く別のトカゲの長に遭遇してしまったようだ。
「ああもう、次から次へと!」
次の矢を構え、ラスラは火打ち石をポケットから取り出した。
相手はあの筒から矢を吹いている。ということは、矢を吹いた後はもう一度新たな矢を筒の中に入れ直さねばならないということだ。それさえ分かれば、ラスラには十分だった。
火打ち石を手の中でころがし、トカゲの長に見えるようわざとゆっくりと投げた。
火打ち石は途端に空中で矢に弾かれた。
すかさずラスラは木から出て、弓をかまえた。矢を放つと同時に、トカゲの長はラスラと同じように木の後ろに隠れた。
この好機を逃すわけにはいかない。
ラスラは一気に距離を詰める。ラスラにとってはこのまま矢の打ち合いをするより、接近戦に持ち込んだ方が有利なのだ。
トカゲの長にとって、戒めの民の血は猛毒。
以前トカゲの長からうまく逃げおおせたのも、ラスラの血がたまたま腕を握ったトカゲの長に触れたからだ。
まだ包帯を巻いたままの左腕をラスラはちらりと見た。動かすのにはもう不自由ないが、痛みや皮膚の引きつる感覚はまだ残っている。
血を使うのは最後の手段だ。
ラスラはトカゲの長の隠れた木の裏へ回りこみ、弓の弦を引き絞った。
矢の一本でも飛んでくるかと思ったが、何も起こらなかった。
ラスラは動揺してしまった。そんなばかな。確かにここに隠れたはずなのに。
しかし、トカゲの長は影も残さずいなくなっていた。あわてて周囲を見たが見つからない。どうして、と混乱する頭に木の葉が舞い落ちてきた。
上だ。
弓を構え直す暇などなかった。トカゲの長はその名にふさわしく木の上にはりついていたのだ。ラスラがそれに気が付いた時にはもう、トカゲの長の大きな体が覆いかぶさっていた。
弓は叩き落され、地面に仰向けに押さえつけられた。倒れ込んだ衝撃に息が詰まる。逃れようと暴れたが、長い指はがっしりとラスラの首を捉えていた。
「武器を捨てろ。さもないと首をかき切るぞ」
ラスラにのしかかるトカゲの長は、低い声ですごんだ。
矢はまだ右手に握っている。負けじとラスラは食いしばった歯の間から言い返した。
「やってみろよ。あんたも道づれだ。おれの血があんたたちにとって毒なのは知ってるだろ」
ちょっとでも動かないかと思ったが、トカゲの長はがっちりとラスラを捕まえていたので、かろうじて左腕が動くだけだった。
ラスラは悪態をついた。
「お前一人じゃないよな? 仲間はどこだ」
トカゲの長がそう問うたので、ラスラは息が止まりそうになった。
こいつ、イオのことを知っているのか?
「イオに手を出すな」
できるかぎりの威嚇を込めて、トカゲの長をにらみつける。フードから突き出た大きな口を見ても、黄色い眼球に縦に割れた瞳を見ても、ラスラはもう怖くなかった。
イオはまだうずくまって震えているはずだ。早く戻ってやらなきゃいけないのに。
「本隊はどこだ? トハーンは戒めの民なんかに負けない。お前たちが何を企んでも、決して屈したりはしないからな!」
トカゲの長は興奮気味に叫んだ。
その時になって、ようやくラスラは眉をひそめた。おかしい。何か、話がずれているような気がする。
ラスラが何も答えなかったので、トカゲの長は焦れたようだった。首をつかむ力が強くなる。
突然、ラスラの視界がくらんだ。
またあの息苦しさだ。頭の中に野うさぎが走り回っているイメージが浮かんで消えた。目と鼻の先にあるはずのトカゲの長の顔もまともに見えなくなる。
頭の中を探られているのだ、と思った。ラスラは抵抗しようとしたが、押さえつけられているのでそれもままならない。
麻痺する思考の中で、ふとイオとの問答を思い出した。とっさに村の羊の名前を頭に浮かべた。
「ドリーヌ、ポポ、ランティ、メアリ、フランコ、ジーミー、コーデル、ロストラルド、アンノン、グーテムロット……」
いきなりそらんじ始めたので、トカゲの長には呪文のように聞こえただろう。ひるんでラスラを押さえていた力が緩んだ。
その隙にトカゲの長を押しのけ、ラスラは四つん這いになって思いっきり嘔吐した。いつか、いかだで川下りをして酔った時と同じ感覚だった。
今朝食べたカンジュトウをすっかり吐き出すと少し気分がましになった。恨めしげに、立ちすくむトカゲの長を見る。
「前にもお仲間にやられたけど、いきなり人の頭ん中のぞくの、ずるいんじゃないの。トカゲの長ってみんなそんななのか?」
皮肉のつもりだったが、相手には分からなかったようだった。
「ヌイなんて挨拶みたいなものだろう。そっちこそこっちの呼びかけに答えなかったくせに……」
そこまで言って、トカゲの長は目を見開いた。黄色い目が半透明のまぶたで瞬く。
「ひょっとして、戒めの民はヌイが使えないのか?」
「その怪しげな術はヌイって言うわけ?」
前の三人組も似たようなことを言っていたな、とラスラは思い出した。
身を起こそうとしてラスラは、したたかに打った腰を押さえてうめいた。
「トカゲの長がこんなに野蛮な奴らだと思わなかった。アレフは星の主に似てるって言ってたけど、とても信じらんないな」
トカゲの長は言い訳するように言った。
「斥候だと思ったんだ。いよいよ人間たちがおれたちの町を攻め込んでくるのかと」
「攻めるだって? 先に手を出してきたのはそっちじゃないか! いきなり矢の的になりかけたし、前は槍持って追いかけられた!」
「君の言う前がよく分からないんだが、おれの同族に会ったってことか?」
「おかげで近頃、不幸続きなんだよ。そっちが人間を嫌ってるのは分かるけど、それにしたってあんまりだ」
トカゲの長はまぬけに口を開けた。ずらりと並んだ牙が見える。
「何言ってるんだ。おれたちを恨んでいるのは人間の方だろう?」
「恨んでる? 人間が?」
ラスラはまじまじと相手を見た。体を覆う鱗や牙を無視すれば、自分たち人間とそんなに変わらないように思えた。
「おれの村じゃ、トカゲの長の姿を知ってるやつなんか一人もいなかった。顔も知らないやつを恨めるわけがないだろう」
「じゃあ、一体トハーンの目と鼻の先で、何をやってたっていうんだ!」
まさか、あんたたちの馬を盗もうと思ってた、とは言えず、半分だけ本当のことを話すことにした。
「自分たちの村に帰ろうとしてただけだよ。〈放浪の山〉に知らないところまで連れてこられて、こっちも困ってるんだよ」
「何につれてこられたって?」
ラスラは手短に、足が十本もある巨大な生き物の話をした。
にわかに顔の鱗がざわりと色が変わった。くすんだ灰色から鮮やかな緑。心底驚いたらしい。最初は警戒心をむき出しにしていた黄色い目が、徐々に毒気を抜かれていく。
「テイハクイカのことか! あれに乗ってきたって、またどうやって?」
「いろいろ事情があるんだ。ほっといてよ」
ラスラはふてくされた。自分はなにをやっているんだろう。トカゲの長に旅の自慢話を聞かせるつもりじゃなかったのに。
トカゲの長はじっと考え込んでいた。迷うそぶりは見せるが、もう敵意はどこにもない。
そうしてトカゲの長は一息つき、ラスラに向き直った。
「悪かった。どうやら、おれの勘違いだったみたいだ」
トカゲの長はフードを取った。オレンジ色の毛が頭からうなじにかけて伸びている。突き出た口の割に、その先についている鼻は平べったくて小さかった。耳も小さな穴が頭の横にぽつりと空いているだけだ。
鋭い爪の伸びた手をラスラの目の前に差し出す。
ラスラは戸惑った。硬い手のひらを握り返すと、強く引っ張り挙げられる。何とか立ち上がり、ラスラはトカゲの長の顔を見上げた。
「なんのつもり?」
「知らなかったんだ。戒めの民がヌイを使えないなんて。声をかけたのに返事がないから、つい敵だと思って矢を撃っちまった」
「おれの話、信じるの?」
「嘘はついていない。少なくとも、おれのヌイはそう感じてる。おれはシュトシュノ。この先のトハーンで色付け師をやっている」
どうやらトハーンというのは、トカゲの長の住処の名前らしい。
ラスラは首をかしげた。色付け師というのが何か分からなかったのだ。
シュトシュノは自分の腕をまくり、たくましい二の腕の鱗に輝くさまざまな彩色を見せてくれた。虹とも見まごうその美しい彩色にラスラは感嘆した。
「自分で描いたのか?」
「新しい色が作れたら自分で試してみるのさ。もちろん、全部がうまくいくわけじゃないけど」
ラスラは恐る恐る鱗に触れた。
刃のようにつやのある表面に、鱗の形に沿って色とりどりの花や模様が描かれている。
「トカゲの長はみんなこんな風にしてるの?」
「そういう流行なんだ。うちの店には若者がよく来るな。今も染料になりそうな花や果実を集めてたのさ」
シュトシュノが持ってきた木を組んだ籠には、ラスラが名前も知らない鮮やかな色の花が山になっていた。
ラスラはやっと緊張を解いた。もしかしたら、以前に会ったトカゲの長が仲間を呼んで人間を狩りに来たのではないかと疑っていたのだ。
「トカゲの長はみんなこの森を避けているんだと思った」
シュトシュノはシュシュシュっと息の抜ける音を出して笑った。
「みんな避けているのさ。ここには悪い霊がうじゃうじゃいるからな。おれは小さい頃からここに来てるから慣れてる。危険な所に近付きさえしなければ問題ないからな」
ラスラはあの白いもやを思い出した。さっと血の気が引く。
「そうだ。イオのこと放ったままだった!」
ラスラはシュトシュノに説明しないまま、取って返した。
「イオ!」
イオは同じ場所でぐったり横たわっていた。弱った吐息は白く、唇は紫色だ。
ラスラが揺さぶると、イオはかすかにまぶたを振るわせた。
「ちょっといいか?」
後ろにシュトシュノもついて来ていた。ラスラが場所を譲ると、あのごつごつした手のひらでイオの頬をなでる。
ふいにイオの眉根がぎゅっと寄せられた。シュトシュノがヌイを使ったのだと分かり、ラスラは慌ててシュトシュノの肩をつかむ。
「おい、何やってんだよ!」
「調べてるだけだ。大丈夫」
見るとシュトシュノの表情も厳しいものになっていた。
「まずいな。ツァーリに憑かれてる」
「ツァーリって?」
「さっき言ってた悪い霊さ。生き物の魂に取り憑いて命の柱を凍らせちまうんだ」
命の柱を凍らせる。シュトシュノの言い回しは独特でよく分からなかったが、とにかく良くないことなのだとは理解できた。
「死ぬの?」
ささやくラスラを、シュトシュノは哀れむように細長い瞳で見つめた。
目の前が真っ暗になりそうだった。
「なんで? イオはおれについてきてくれただけだ。何も悪いことしてないじゃん。おれたち、ただ村に帰りたいだけなのに!」
その場に崩れ落ちた。
ラスラには知識もなければ、とっさに機転をきかせることもできない。そういうことは、全部イオがやってくれた。何か困ったことがあった時は、ラスラには到底思いつきもしない妙案をイオはひねり出してくれた。
そのイオがいなくなる。自分の浅はかな考えのせいで。
「なあ君、名前はなんていうんだ」
どうして今、そんなことを聞くのだろう。
からからに乾いた口を動かし、ラスラは答える。
「ラスラ」
「ラスラ。よく聞け。おれの町にはヌイを使って病を治す医者がいる。ブロキシュという人だ。その人ならツァーリを何とかできるかもしれない」
ラスラは弾かれるように顔を上げた。
「ほんと?」
「ああ。腕は保障する。ただし問題がある。一つ目は、君たちが戒めの民だってことだ」
かすかに灯った希望がまたかげった。
「おれたちが人間だと、まずいの…?」
「今は特にまずい。トハーンじゃ、自分たちを恨んだ人間がいつか仕返しに来る、なんて考えがふつうに広まっている。情けない話だけど、おれたちはあまりに君たちのことを知らなさ過ぎるんだ。君たちを見た他の連中が、君たちをどんな目に合せるか分からない」
「じゃあ、そのブロクスって人にここに来てもらったら!」
勢いこんで言うと、シュトシュノは首を振った。
「ブロキシュは足が悪いんだ。町からどころか自分の家から一歩も出ることができない」
「そんな……」
「だから忍び込むしかない。おれが手引きをしてやる」
ラスラは目を見開いた。
「つれてって……くれるのか? なんでそこまで」
「さっきの謝罪だって言っても納得してくれないか? それに、おれが案内しなけりゃ君の友達は助けられないんだぜ」
真剣に言ってくれているのだと分かった。
シュトシュノの言う通りだ。自分一人ではイオを助けられない。
「ありがとう、シュトシノ」
「言いづらかったらシュノって呼んでくれ。そうと決まれば、さっそく準備しなくちゃな」
そういうとシュトシュノは自分のかごから青々とした葉っぱを一枚取ってもみほぐした。すると緑色の汁がにじみ出してくる。
腕を出すように言われ、ラスラは葉っぱの樹液が練り込まれるのを見ていた。
「乾いたらひびわれて、鱗みたいに見えるはずだ。じっと見られたらばれちまうだろうが、ごまかすくらいはできるだろう」
シュトシュノはもう一枚葉を取って、ラスラの顔にも同じように塗り込んだ。
上からソライモムシのコートを羽織らせ、シュトシュノは満足そうにうなずいた。
「完璧だ」
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