第7話 嵐

「ラスラ!」


 コートをかぶった親友が、ばしゃばしゃと雨水を蹴って走ってくるところだった。

 激しい雨音に負けじとイオが大声で言った。


「よかった! 全然帰ってこないから心配してたんだ! 何かあったのかい?」


 今にも崩れ落ちそうなラスラの様子に、イオは驚いたようだった。腕を取り、ぎょっと声を高くする。


「怪我してるじゃないか! それに死人みたいに真っ白だぞ! とにかく……」


 二人のすぐそばで落雷があった。大地を引き裂かんばかりの轟音に、イオの言葉がかき消される。


「こっちだ!」


 イオはラスラの手を引いて、走り出した。ラスラは頭がぼうっとして、まともに考えられなくなっていた。


 二人はほどなくして、巨大な岩の壁にうがたれたくぼみを発見した。

 普段なら不自然なくぼみの存在をいぶかしんだだろうが、今はただ休める場所が見つかったことを純粋に喜んだ。


 イオはラスラをくぼみの中に放り込むと、濡れて重くなったコートを丸めてぬぎ捨て、自分の持ってきた薬袋からなんこうを取り出した。


「傷を見せてくれ。血を止めないと」


 ラスラもソライモムシのコートを脱ごうとしたが、指が震えてひもの結び目さえ自力でほどくことができなかった。

 なんとか腕をまくりあげる。腕にはくっきりと六つの刺し傷があって、血がぽたぽたと指を伝ってしたたっていた。

 イオは傷口をそっとなでた。


「切り傷じゃないな。何か固いものが食い込んだみたい。まるで大きな動物に噛みつかれたようじゃないか。本当に何をしていたの?」


 腕をつかまれたんだ、と言おうとしたが、疲れ果てていたラスラはイオの質問に答えられなかった。

 イオは血止めのなんこうを傷口に塗り込んだ。そして引き裂いて細長くした布地を強く腕に巻き付ける。手際の良さは、さすが薬師の息子である。

 処置を終えたイオは、気遣わしげにラスラの顔を覗き込んだ。まだ荒い呼吸が収まっていなかったのだ。


「深呼吸して。一体何があったんだい?」


 ラスラは言われた通り息を深く吸い込み、かすれた声で言った。


「トカゲの長に会ったんだ」


 ラスラは自分の身に起きたことを説明しようとした。しかし口から出てくるのはとりとめもない言葉ばかりだった。頭の中に手を突っ込まれてかき回されたようだ。目眩がする。

 イオは真剣な面持ちでラスラのとりとめもない話を聞いた。そして、うまく説明ができないとラスラが言葉を途切れさせた時、イオはやっと口を開いた。


「つまり、トカゲの長は君を敵だと認識したわけだね? それで逃げてきた」


 ラスラはうなずこうとして、息が詰まりかけてうめいた。


「さっきから頭がぐるぐるするんだ。ここに来るまでも、なんだか戻らなくちゃいけない気がして仕方がなかった」

「頭の中で声がするってこと?」

「分かんないよ! でも、呼ばれているような気もする。頭が変になりそうだ!」


 もうだめだ、あきらめろ、観念して戻るんだ。そんな暴力的な衝動にかられ、ラスラは悲鳴を上げて頭をかきむしった。

 これは本当に自分の心? それともトカゲの長の呪い? もうラスラには分からなかった。


 突然ラスラは肩をつかまれた。何かと顔を上げた瞬間、頬に乾いた音と焼け付く痛みが襲った。


 イオがラスラをひっぱたいたのだ。


 驚くラスラにイオはぐっと顔を寄せ、厳しい目で言った。


「グレリオの農場の羊は何頭?」

「い、一体何だっていうんだ」

「いいから答えて。何頭だ!」


 有無をいわさぬ剣幕に、ラスラは息を飲んだ。


「さ、三十一……」

「違う。こないだ子どもが六頭生まれただろ。一緒に見に行ったじゃないか。頼むラスラ、しっかりしてくれよ! 頭の声に耳を貸しちゃだめだ。ぼくの声だけを聞くんだ。じい様の飼っているオウムの名前は?」


 しびれる頭でラスラは必至に親友の言葉を心に刻みつける。


「トングー……違った、タング。タングだ」


 それからイオの問答は続いた。村で一番南にあるのはだれの家? 村に流れ込む川の数は? イオの父親の得意な声真似は? 二人で最初に行った遊び場は? 昨年の感謝祭の狩猟大会で一番だったのは?


「マルコのイノシシだった。おれも牡鹿を捕まえたけど、あと一歩で負けたんだ」


 ラスラが弱弱しく笑うと、イオもほっと笑みを浮かべた。


「風邪を引いて参加できなかったグレリオはものすごく悔しがってたね。自分だったらクマを仕留めてみせたのにってさ。あれは名勝負だったよ。ところで、気分はどう?」

「ずいぶん良くなったよ」


 本当だった。あの胸の圧迫感がすっかり消えていた。


 嵐は逆に激しくなっているようだ。くぼみの中にまで雨が吹き込んできたので、二人は奥のほうに身を寄せ合った。

 すさまじい地響きがして、近くで雷が落ちた。目を焼く光がほとばしる。


「この天気じゃ、トカゲの長もぼくらを見つけることはできないね」


 元気づけようと思ったのだろう。イオは努めて明るく言った。

 雨を眺めていたラスラがうつむく。


「ごめん。おれのせいだ」


 イオは仰天してラスラを見た。


「今度はどうしたんだよ。君らしくもない」

「茶化すなよ。本気で言ってるんだから」


 ラスラは顔をしかめた。


「この昨日と今日だけで、おれたち何回死にかけた? 常識離れした番人に追いかけ回されたし、食べ物と水が見つからなかったら今頃干物になってた。さっきはたまたまトカゲの長に見つからなかったけど、もし運が悪かったらおれたち突然襲われて串刺しにされてたかもしれない。今だって、こうして雨宿りする場所が見つからなかったら雷に打たれていただろ」

「でも、そうならなかった。気にするなよ。とんびはどうしたの」

「おれが言いたいのは、トカゲの長を見ようなんてバカなこと言い出さなかったら、こんなひどい目にあうことはなかったってことだ」


 イオは目を丸くする。

 そして、大声をあげて笑い出した。


「イオ!」

「ご、ごめん……。笑うつもりじゃなかったんだ」


 ひいひい言いながら、イオは涙をふいて笑い転げている。


「だって、ぼくらが今までやってきたことを思い出してくれよ! ゲッコウアゲハを探していて十日遭難したこともあるし、いきなり修行だなんて言い出してゲバに村中追いかけ回されたことだってあるだろ。小さい頃、真冬の川に突き落とされたの、まだぼくは覚えているんだからな!」


 そんなこともあっただろうか。ラスラは顔を赤らめて「悪かったよ」と口の中でもごもご言った。

 笑いの発作が収まってからも、イオの頬はしばらく緩みっぱなしだった。


「いや、たまげた。君の口からそんな殊勝な言葉を聞く日が来るなんてなあ。トカゲの長は君に人生の学びを与えてくれたみたいだね」

「なんだよ! 人が本当に謝ろうとしてんのにさ!」


 ラスラは恥ずかしいやら気まずいやらで、自棄になってわめいた。

 だけどイオはどこ吹く風で言った。


「謝る必要なんかないよ。ぼくは感謝してるんだ。ラスラがこんなバカなこと言い出さなかったら、きっとぼくは一生村の外なんて知らずに生きてきただろう。コウモリの大群は見物だったじゃないか? あんなの村じゃ絶対に見られない」


 文句をつけようと思っていたラスラは、思わぬ優しい言葉に胸を詰まらせた。

 いつもわがままをいうのはラスラの方で、イオは渋い顔をしてついてくるだけだった。イオがラスラをどう思っているかなど、今まで話してくれたことがなかったのだ。


「でも、惜しいことしたな。ぼくもトカゲの長を見てみたかった。どんなだった?」

「むちゃくちゃ大きかったよ。それに力も強かった」

「馬に乗っていたんだよね?」

「馬の方も妙ちきりんだったけどな。二本角の馬だぞ? でもそういえば、トカゲの長たちは馬に乗ってきたんだよな。二本足で歩いてたし、なんだか人間っぽさがあるっていうか」

「顔は見たかい?」

「どうだったかな。それどころじゃなかったから。でも口はフードから突き出るくらい大きかったな。あれはトカゲっていうより、小川に住んでるワニに似てた。ああ、そうだ。あいつら爪がすごく長くてさ」


 今度はすらすらと言葉が出てきた。ラスラは無我夢中でイオにさっきの出来事を話していた。

 イオはアレフの話を聞くのと同じように、青い瞳を輝かせてラスラの話を聞いた。それがうれしくて、ラスラはいつもより多めに喋ったほどだった。



 外の悪天候などものともせず、くぼみからは明るい笑い声がこだました。

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